相似象の考え方 4




思いつくまま書いています。
ここに書いてあることは私なりのサトリに基づいているので決定されたものではありません。
あくまでも一意見として参考にしてください。

記事は下に追加されます。

相似象学会誌「サヌキ・アワのサトリ」を抜書きしているブログ

<オトコとオンナのアワ>(2007年8月26日)


アワのタチの人は何をするにも、感情、思いがまとわりつく。

すること=サヌキ
思い=アワ


です。

何をする(サヌキ)にも思い(アワ)が、まとわりついている


アワがまとわりつく人間をアワ人間。
アワがまとわりつかないのをサヌキ人間といいます



アワ男もアワ人間ですから、サヌキ(行動)にアワがまとわりついています。
でも、そのアワはサヌキ(行動)を超える量ではない。
男性は女性と違ってアワがサヌキよりも少ないからです。
なので、男性は「自分がアワであるということを表面に出して(サヌキ)いる」のです。
思いっきりアワ男ですYO−という感じに。

サヌキ女はサヌキ(行動)にアワ(感情)がまとわりつかない。
この点、男性的と言えます。
言うこと、やることに隠れた思いがないか、少ない。

が、隠れた部分は女なので、多い(アワ)です。
女がいくら行動的でも、それ以上に隠れた部分(アワ)があるということです。

ここらへんの考え方は大変難しいですね。



さて、女のタチはアワ(隠れている)です。
行動して表面に出しているよりも、多いものを隠して(アワ)いる。

だから、男は単純(全部見えてる)、女は複雑(殆ど隠れている)のです。

<世話焼き/尻ぬぐい>(2009年5月10日)


他人の世話を焼くのが好きな人がいますね。
アワ(優しい)なサヌキ(行動)を発揮しています。


尻ぬぐいというのがあります。
他人の失敗をフォローしてやる人。
これは相当なアワ量がないとやれません。
私はアワ人間ではありませんが、アワ量が多いので「それが必要である」ならやれます。
必要な場合は「他にしてあげられる人が居ない場合」に限ります。
あくまでも
頭で「必要かどうか」を考える(判断する)ところがサヌキです。
(アワ人間なら「心がしてあげたくなってしまう」)

なので、
@それをすることが緊急では無い場合
A本人がそれを正した方が良い場合、つまり、本人が学習した方が良いと判断した場合
には、本人に「改善を促す」ことをします。

こういう所が「ここまで来い」のサヌキです。
でも、「見て見ぬ振りをする」ほどには低次元ではありません。
しかし「他人の落ち度の尻ぬぐいをする」ほど高次元ではありません。
その中間です。


世話を焼くことと尻ぬぐいをすることとは、言葉が違うように意味も違う。

世話を焼けば相手には「世話を焼かれたこと」が分かります。
(それを世話であると認識することとは別です)
相手は、世話焼きの人があれこれと何かをしている、ということは分かる。

世話を焼くことは悪いことではありません。
でも、世話を焼いたことに対して「感謝されたい」と思ったらそれは自己中であり、
低次元です。
(世の中にはこれを発揮する人が多い)
(本人は善かれと思ってやっています)
(その挙句うるさがられてしまう人もいます)



これに対して尻ぬぐいの方は相手に分からないようにやる場合がある。
これを黙ってやれる人が少数者です。
勿論私はしたくありませんが他にやる人が居ない場合は仕方なくやることになる。

「この件に関しては私の他にやる人がいないから」というのがする理由です。
頭で判断しています。
これがサヌキ。

不本意ですが、まぁ、ちょっとのことなら、いいや・・・と。
「他人の尻ぬぐいなど絶対しないぞ!」と誓っているわけでもないし
(そのうち分かるだろう)と思う場合とか。
(一度に沢山のことは覚えられないので、徐々に教えて行けば良い、と判断する。
 私よりも低次元のサヌキの人なら、相手の判断力などお構い無しにさせようとする。
  心(アワ)がありませんから)

でも、「ここは本人が知って学習するべき」と、判断すれば尻ぬぐいは敢えてしません。
と、頭で考えるのがサヌキです。

アワ人間で波動量の多い方は、尻ぬぐいをしてあげるのが喜びのはずです。

あなたはどうですか?

日月神が
「他人の尻を拭いてやれよ」と言ってます。
神から見て合格、と思われるのは勿論「他人の失敗の尻ぬぐいを喜んでしてあげる人」です。
<尻拭いする少数者の実例>(2009年5月11日)


iさんより。


こんにちは。
本日の世話焼きについてですが、
実は世の中にこんな人が存在したのか!と思うほどすごいアワ人間を発見しました。
きっと一生のうちにもう会わないだろうなあと思うほどの婦人です。
実家近所に住んでおり、1か月以上たちますが母の吸い玉の治療を毎日2時間もしてくれています。
一日も休みなしです。
それでもってお金や、何も要求しません。
それどころか、家で作った料理を持ってきてくれたり、服を作ってくれたりします。
顔はいつも同じ笑い顔で、病気の話をしても一定の顔で変化せず、
うんうんと笑い顔でうなづいているだけです。主張は全くありません。
老人会の世話や町内の役もしていますが、いつもその笑い顔で普通にしています。
 
この婦人のご主人は元大学教授で、ご主人の横柄な態度や性格はまずいものがあり、
きっと普通のひとには相手できないだろうと思うのですが、ただ笑って「はいはい」と言っているだけだそうです。
あまりにもひどい態度をされるときは、傷ついてないそうですが、泣きまねして逃げるそうです。
その大学教授を「主人」とは呼ばず、「世帯主」と呼んでおられますが、確かに主人ではないですね。
この婦人は60歳ですが、すべてを見抜いていて、
思わず「何でそんな性格になれるんですか?」と聞いたところ
「すべての出来事が目の前を素通りしているだけで何もないよ。」と言います。
あ・・・・・

そう言われると返す言葉がありませんでした。全くの次元違いでした。
服装も見た目も気にすることなく、ただの普通の婦人です(びっくりするくらい昔の服とか着ています)
人の世話をたくさんしていますが、決して目立ちもしませんし、
空気みたいな感じなのですが、とても重要な方で人望があついです。
世の中に本当の少数者といわれる方なのかなと思えたりします。
出会って10年以上たちますが、顔色が変わったのを見たことがありません。
この方と一緒に時間を過ごすだけで、とても穏やかになり、
心の中のもやもやが消えてしまうのですがこういう方の凄さって何ていったらいいのだろう。
ifさんの言われる少数者でしょうか?


少数者ですね。
アクセサリーを販売しているkarenもこんな感じです。
ここまで人間は出来てないが、近いものがあります。
M氏にもそのケがありますね。

二人とも皆から好かれ信頼されています。

もし私が他人から平然と「オレの尻を拭いて♪」と言われたら即、(■すよ!)と思いますね。
他人の尻拭いをしてやらないことは無いが、平然と当然の如く言われたら■意が湧きます。
M氏だったら(□すよ♪)と、思うでしょうが。
■と□には適当な漢字一文字入れてください。
<高波動の人に救われた>(2009年5月14日)


上の記事を読んだKさんから。


先ほどたまたまPANDORAの
「人間のはなし→相似象とは4→尻拭いする少数者の実例」の記事を読んだのですが
そのご婦人について紹介されている内容(青文字部分)を読んだだけで心が洗われるような思いをしました

> 「すべての出来事が目の前を素通りしているだけで何もないよ。」

この言葉が心に響きます。

実はわたくし昨晩久しぶりに意識レベル30まで堕ちまして、
憎悪と悲しみの入り混じった涙を丸一日流し続けていたのです。
先ほどようやく昇華できたのですが(一時的なものかもしれません)
その後でこのご婦人の話を読み、神託が与えられたような思いをいたしました。
ありがとうございます。

1年前に意識レベル30まで堕ちた時は、
PANDORAの事をまだ知りませんでしたので
持って行き場のない思いを抱えたまま3週間ぐらいジタバタ苦しんでいました。

今回も同じ登場人物・同じ様な状況の下で起きてしまった事でして、
1年前と状況がそっくりだと気付いて注意していたのですが、
私自身のレベルが低いため防げませんでした。
それでも、意識レベルという概念を教えていただいたおかげで
今回は短い期間で切り抜けられそうです。

また、同じ出来事が再び繰り返された事で、
自分なりに「そうだったのか」と気がついた事もありまして、
少しずつ向上していけたらいいなと思っております。


ホーキンズ博士の著書「パワーかフォースか」によれば
高波動の人は低波動の人数十人〜数千人〜数万人〜の意識レベルと釣り合う、
つまり多くの人が出す低波動を中和する、みたいなことが書いてあります。

この高次のアワ女性はひと知れず苦労を背負いこみ、周囲の低波動を心の次元で
中和しているのでしょう。
何も言わなくても良い。
ただ、そこにその人がいるだけで、多くの人の心が救われているのです。
(我が家では末っ子の◎ちゃんがそれを担っています)

この高波動の女性は、見る人が見なければ心の次元で仕事をしていることが分からない。
でも、分かる人には分かる。
この女性のことを教えてくれたiさんのような人には分かります。

この女性のレベルを目指して生きていけば良いと思います。
素質のある方は。

<仕事とサヌキ・アワ1>(2009年5月20日)


仕事は表面上、サヌキです。
行動するわけですからね。
なので、女性より男性の方が行動するタチなので、仕事は男性がするのもの、と思われています。
仕事向きと言おうかな。
ところがそれは行動の表面しか見て無い意見です。

仕事をするにはやり方を覚える必要がある。
これはサヌキです。
マニュアルなどはサヌキの最たるものです。
これを覚えれば誰でも一応は出来る。
でも、それはあくまでも「一応」なのです。

仕事を上手にやる、上手くやる、きちんとやる、気配りしつつやる、相手を見ながらやる、
丁寧にやる・・・など、見る人が見ないと分からない次元のものは
アワが必要です。

これが分からない次元(低次元)の人が仕事をすると・・・


以前、夜遅く閉店間際にスーパー・マーケットに行くと、昼間の主婦店員に代わって
男子高校生などがレジを打っていました。
彼らは仕事は早いが、釣銭を投げて寄こすような仕事ぶりでした。
これを上司がちゃんと見ていて、指導をすれば良いのですが、マトモな上司(店長)も居ないような
スーパーだったのでしょう、誰もこの高校生達を指導することなく、
とうとうその店は閉鎖されました。





マニュアル(サヌキ)を作る会社が普通ではないかと思いますが、どんなにマニュアルを作ろうと
それを実行するのは人間です。
実行する人間が違えば、同じマニュアルでも使い方が全く(個人のアワによって)違うのです。
マニュアルなどというものを用意しなくてはならないほど、
殆どの社員(店員)には思考力も判断力も無いのでしょう。
というより、例外の人にだけ、(低次元では無い)アワがある。

そうしてどんどん会社(店)の客あしらいは低下して行き、最後には倒産するのです。


潰れないためには人間を教育(高次元のサヌキ)しなくてはならない。
教育しようの無い人もいるので、そういう人は採用しないか、
そういう人でも出来る仕事を当てがってやれば良い。

しかしこのようなこと(人間を見ること)が出来る上司や経営者がそもそも居ない。

<仕事とサヌキ・アワ2/サヌキ女の仕事ぶり>
(2009年5月22日)



昔、何かで読んだのですが、若い男性が書いていました。
「職場に仕事が出来る女の人がいて、とてもテキパキしている。
 でも、仕事出来る女の人って怖いんですよね。」


笑いました。

典型的なサヌキ女です。

まずサヌキとアワでは動作が違います。
サヌキ人間の動作は
◇よくてテキパキ、キビキビ
◇悪くてガサツ、セカセカ、バタバタ

です。

アワ人間の動作は
◇よくて優雅、太極拳の動きのよう
◇悪くてノロマ、ぐず、もたもた、ノロノロ、おどおど


アワでもサヌキでも良い。
問題はレベルですね。

低次元(判断力乏しい)と無駄な動きが多い

<仕事とサヌキ・アワ3/アワ男の場合>(2009年5月23日)


ウチの子供達が全員お世話になった塾の教師が凄いアワ男でした。

◇生徒を叱れない

アワの特徴。本能的に敵を作れないので叱れない。
しかし、こんこんと説教をすれば良いことです。
忍耐強く生徒に改善を要求すれば良い。

ところがこの先生は、問題を起こす生徒と被害者の生徒とを
「別の時間枠に分ける」という、大変アワな決断をした。
生徒自身に向上させることを「諦め」それに関する指導をしなくて済むようにした。
(〜〜しない、というのもアワの特徴)


教育というのは、基本的に「ここまで来い」の世界です。
生徒に向上(態度や学力の向上)することを学ばせるのが仕事。
それなのにそれが出来ません。

向上しなくて良い場所は
◇保育園・託児所
◇老人施設
◇病院
そして
◇お店
(お客は向上する気無し。店は客の我儘に付き合って商売をしている)
ですかね。

この先生は教育の場でこれをやっちまった。

この先生に
「(授業を妨害する)クソガキがいたら、Kちゃんのお母さんに言いつけるぞ、と言ってください。」
と言っておいたけど。
<指導力が乏しい>


アワ男なのでとても優しいのです。
心は沢山ある。
でも、知恵が乏しい。

せっかく膨大な豊富なアワ量を持ちながら、それが波動量になってない。
(潜在アワ量を波動量に変えるには経験によって、アワを知恵に変えなくてはならない)
(物事に気づき、考え理解する、ということを毎日繰り返す必要がある)
(でも、その物理を知らないので豊富なアワ量があるだけ)


生徒は人間を見抜きますから
(こいつはバカにしても良い相手だ)とみなせばそのように行動します。
舐められまくり・・・
優しく温厚でも物事が分かれば、このような目には遭わない。

授業中は生徒は先生の言うことをきかない。
でも、先生は優しいので生徒は先生に甘えている。

この塾には登校拒否の生徒が増えて行きました。
それは良いと思う。
受け皿があって良かった。
でもその受け皿が「厳しいことは言わず甘やかす場所」というのではねぇ・・・
<経営の仕方〜無意識に甘える心>


この先生何を思ったのか思ってないのか、塾の宣伝をしていませんでした。

個人の塾なのだから、新聞にチラシを入れるとか看板を出すとか、すれば良い(サヌキ)と思うのです。
でも、それをやらない。
生徒の親が「あの塾いいわよぉ。」と、口コミで宣伝してくれるのを待っているかのようでした。

初動の時は生徒がゼロだったので、私も生徒集めには協力しましたが、軌道に乗ったら後は
教師がやるべきです。
ところがこの先生、ずっと誰かが自分の塾を口コミで宣伝してくれるものと思ってしまったようです。
(そうとしか思えない)
自ら生徒を集めないのもアワ、口コミで誰かが生徒を連れて来てくれるのを待つのもアワ。
他人がちょっと手伝ったら、その後もずっとやってもらえるものだ、と確認も取らず思いこむ・・・
低次のアワです。
どこをとっても典型的なアワ人間。


この塾には学校に通えない甘えた生徒が集まって来ましたが、先生も保護者に甘えていたので
同波長の法則通りですね。
少子化に伴い、一時は沢山いた生徒もどんどん減って行きました。
◇調子が良い時は得意になり
◇ジリ貧になると眉けんにしわを寄せる

実に底の浅い、低次のアワ人間です。
(※勿論低次元のサヌキ人間も同様です)




アワでもいいんですよ。
レベルが高ければ。
つまり知恵、分別のある、波動量の大きなアワなら良い。
波動量の大きなアワ人間なら自分の好み(何もしないという特徴)にふけることなく、
意志の力で、やりたくないがやらなくてはならないということをはっきりと認識し
「自分で生徒を集める」という行動(サヌキ)をやれたはずです。
<とうとう閉鎖>


というわけで。

生徒はどんどん減って行きました。
市内にある、別の塾のことを「進学に偏っている」とか思っていたようですが
「そんなの関係無い」のです。
他人のこと、他人の店、他人の塾が気になるということが低次元なのです。
自分は自分の本分を果たせば良いのです。
自分が才能を発揮し、好みにふけらず波動量を増し、良い指導をすれば生徒は集まる。

この先生にはそこらへんの理解も無かった。
つまり殆ど何も分かって無い人だった。
なので塾は閉鎖されました。
最後の方は生徒は数人しかいませんでした。
うちの子は全員お世話になりましたが、行かせた理由の一番大きなものは「近いから」です。
歩いて数分なので便利でした。
先生が優しいことも理由の一つです。
それはそれで大いに評価します。
<低次のアワ人間の行動>


このように低次のアワ人間は仕事が出来ません。
アワが悪いのではない。
低次元なのが悪いのです。
本気になれば波動量を増やせたのですが、アワ人間は気合いを入れることも苦手なようで
出来ませんでした。
この先生には「相似象」を一冊渡して読むように言いましたが、ろくに読んでもいませんでした。

つまり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何もしない人だったのです。

ところが何もしないかと言うといや、するんですよ。

何をするか?

余計なことをするのです。


たとえば私はこの塾を開く際に、貸家の持ち主と話をつけたり、初動の頃生徒を集めたり
ちょっとだけ協力しました。
それを恩義に感じて毎年「御蔭様で塾を経営出来ます」と、言ってケーキを買って我が家に来るのです。

アワ人間はこのようなことが好きです。
記念日というものにとても思い入れを持っている。
その日があることがとても嬉しく心が温まる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のでしょう。



で。



ケーキをもらった私はといえば、この通りのサヌキ女ですから、
記念日などという何の役にも立たないものには何の価値も認めていません。
「はあ?」
という感じなのです。
嬉しくも何ともない。



私がこの先生にしてもらいたいことは「生徒を沢山集めて良い授業をして、事業を成功させて欲しい」
これだけ。
お礼の言葉なんか要らない。
「御蔭様で5周年を迎えることが出来ました」という記念日の報告よりも
「御蔭さまで年商一億になりました!」という事業報告を聴きたいのです。
(勿論この年商一億の中味も重視するのがアワ量多い低次のサヌキです。
  この事業がどのような意義があるのか、も問題です。
  ただの低次のサヌキなら、数字だけで満足します)
(意義というのは、この事業をやることによって皆さんのお役に立つ、幸せになるお手伝いができる、
  とかのことです。
  低次のサヌキ企業はどんな手を使っても売上が上がれば良い、儲かれば良い、と考えます。
  たとえば独居老人を騙して家のリフォームをして法外な金銭をせしめる、とかを平気でやります)




この先生が成功することが私にとっては一番嬉しく満足なのですが、この先生は
「毎日の生徒との心の触れ合い」「保護者からのお礼の言葉」が欲しかったのでしょう。
(※低次のサヌキ人間なら、数字で表せるモノしか、感受出来ないし興味が無い)
(※アワ量の多い低次のサヌキ人間なら、数字も勿論考慮した上で、意義なども考慮する)


これがアワ人間です。
<自分の願いが叶わない〜大きなダメージ>


アワ人間なんだからそういう目的(心の満足)を持ったって良いのです。
でも、この先生は低次元(判断力・思考力無し)だったので、自分の願いが叶わない。
(心を満足させたいらしいが、その心自体が低次元)
自分が欲しいものが来ません。

つまり
◇生徒には舐められ、離反される(特に目を掛けてあげた生徒が、他の塾へ行ってしまう、とか。
                       そっちの塾の教師はとても男らしく指導力が満ち溢れている。
                       アワな先生とは知りあいの方)
◇保護者からは感謝されず(この生徒は、生徒としては良い高校に入ったので、当然感謝されると思ったら
                   保護者が息子の学力をもっと高いと思っていて、
                   感謝するどころか、他の塾へやれば良かったと逆恨みする、とか。
                   この生徒は根性が腐っていて、指導には普通の生徒の何倍も苦労をしたのに
                   この結果です。先生はガッカリしていました)


こういうコトになります。
殆どの保護者は自分の子供が入った高校を「まぁ、満足」と思っていたのですけどね。
中にはバカ親子もいますからね。
それはどこにでもいるのでいちいちそういうのを本気で相手にしない方がいい。
割り切るとよい。
全体から見たらほんの一部です。
それを理解すればいいんですよ。


でも、アワ人間には「割り切る」というさっぱりしたことが出来ません。
必要以上に目を掛け、手を掛け、心を使います。
その結果が
「恩を仇で返すような仕打ち」です。

(※本当はそうでは無いんですけどね。
   つまり「恩を仇で返して」はいないのです。
   アワ人間は、心第一で生きているので、単純なことを複雑に考えてしまうのでしょう。
   私なら「バカはどこにでもいる!」で終わるのですが・・・

   アワな人は「分かって欲しい」という気持ちがあるので、このようなことがあると
   「分かってくれなかった」となり、その結果不必要に苦しむ。
   そういう問題じゃありませんよね?

   他の塾へ行った子は、もっと指導力のある教師が良い、と判断しただけだし、
   文句を言う保護者はバカなだけですよ。
   その馬鹿保護者に向かって分かって欲しいと思うのは無理よ。
   そこを先生、分かれと言いたい)


自分がアワであることをはっきりと自覚し、好みにふけらず、そこを意識して生きる必要がありますね。


同じことをされても、
分離するタチのサヌキ人間なら「ふん!」と言って撥ね返せますが、
アワ人間は親和するのがタチなのでダメージをもろに受けてしまいます

ダメージが大きいのです。
心(アワ)も多いので相当なダメージを食らいます。
<バカ遠慮>


この先生のことを見るに見かねてこちらが考える援助、してあげられる援助を申し出ると
「断る」んですよ。
アワ人間は基本的に相手を受け入れる、反対出来ない、しないのですが、遠慮はするのです。

PANDORAのどこかにも書きましたが、もう一度。

サヌキ人間だからと言って相手の全てをはね付けるだけでは無いのと同様、
アワ人間だからと言って相手の全てを受け入れるわけでは無いのです。

アワ人間がはね付けるのは、相手にとってそれがマイナスである、と感受したこと。
これをしてもらうことは相手にとってマイナスになるのではないだろうか?
それは申し訳ない、と気を回して、「相手の為に断る」のです。
これが低次元なのです。

アワ人間としては、相手のために良かれと思ってしていることなので
これをする場合は、自分の心としては大変、満足が行ってるわけですよ。
だって、相手にダメージ与えてないもん。
自分になんかくれなくなっていいんですよ、そんな申し訳けないもの、いいです、要りません、
という思考回路です。

でも、これって。
「相手の、自分にしてくれようとする、その意志(思いやり)を無視した所業」ですよね?
それを低次元のアワ人間は「想像出来ない」「思いやれない」のです。
実に「思いやり」の無い行為です。
そこが分からない。


自分は常に遠慮をして、相手の為に生きている、行動しているつもりになっているが、
それは大変低次元の考え(つまり、何も分かって無い)なのです。
盲点であると言えます。

私が申し出た援助が何だったか忘れたがたいしたことではありません。

ところが、この先生、上にも書いた通り、「生徒の保護者が口コミで自分の塾を宣伝してくれること」を
無意識に望んでいる。
(意識していたかもしれないが)

つまり、この先生は
◇自分がして欲しいことは相手がしてくれるまで待ち
◇自分がして欲しくないことを相手が申し出ると断る

のです。

自分がして欲しくないことというのは別に悪いことでも迷惑でもないことです。
「相手のためを思って」してくれなくていいですよ、と遠慮するのです。
それが本当に相手のためなのかどうかは考えません。
自分で勝手に「これをしてもらったら相手に申し訳ない」と、決めているのです。
確認もせず。




どう思いますか?

何というか、頭が子供並みであると言えます。
おとなしいけれど、とてつもなく自己中で我儘ではないでしょうか
アワのレベルが高ければ
◇自分がして欲しいことは言葉に出して相手に依頼する
◇自分がして欲しくもないことでも相手がそれをしたいなら、その心を汲んでやる

ところです。


このサヌキの私だって、この先生が毎年「お世話になりました」と言ってケーキを持って来る時は
実に苦々しい思いをしていましたが、それでもケーキを突き返すようなことはしませんでした。
(そりゃ食べたいから、ってのもありますが)
でも、この先生に何事かを気づかせようと意図すればそれは簡単に出来たことなのです。

私がそれ(ケーキを突き返すこと)をしなかったのは、この先生にはそれをやっても無駄だから、と
私が分かっていたからです。
この先生は多分私と一緒に○周年を祝って欲しかったのでしょう。
私としては悪いが祝う気ゼロです。
だってアワ人間じゃないもん。
私が思ったことは(よくこの経営で○年持ったなぁ!)です。
そういう意味では「喜ばしいことには違い無い」。
ケーキをもらってあげるのは相手の心を満足させるためなので、私はお守をしていたわけですよ。

私のような低次元のサヌキ人間でも相手よりレベル(波動量)が上だと、このような苦労をさせられます。
サヌキ人間は苦労などしたくないので、このようなことは苦痛です。
面白くない。
(このような苦労が好きなのは高次のアワ人間です)
(高次のアワ人間はこのようなことをすることによって心の満足が得られるようです)



殆どの人はこのレベルに達していません。

(※他人が自分を褒めると必死で打ち消す人がいます。
   これもアワ人間がやらかす、低次元のサヌキ(行動)です。
   せっかく相手が褒めてくれているのに、相手の心を踏みにじる所業は大変自己中であり、
   低次元なのです。
   が、本人はそれを「謙遜」であると、思っています。

   相手が自分を「if さん美人ね!」と褒めたら、自分ではそう思っていなくても
   相手が自分を美人であると、認めた審美眼に対して「良い目の持ち主だわい」と認め、
   言葉に出して指摘した点について「ありがとう♪」とお礼を言ってその言葉を受け取るのが
   相手に対する思いやりですよ。

   自分では決して美人とは思ってなくても、沢山の方が「if さん美人!」と褒め称えるので
   私は皆さんの正直な心を認め、受け入れ、お礼を言います、「ありがとう。」と。
 
   まあね。
   アワな人は自分が褒められたり親切にされたりすることが苦手だってのは分かりますよ。
   でも、だからと言って相手の心や気モチを踏みにじるようなコトをしてはいけないな。
   自分のタチの好みにふけってはいけない。
   他のことは受け入れるのに、こういうことは受け入れないという、このタチ。
   ハッキリと自覚した方が良い)


教師とは勉強を教えることも大事だが、人間としての力量が生徒より上でないとやれないのです。
この先生は中学生に舐められていたが、そうなっても仕方ないくらい頭が子供だったのです。
<アワと仕事>


だから。


アワ人間の人たちよ。
自分のタチを認識して、一刻も早く知恵と分別をつけましょう。
アワがダメなのでは無いのです。
低次元なのが悪いのです。
同じ目に遭ってもアワな人はサヌキの人の何倍も〜何十倍もダメージがあるのです。
改善しましょう。
(その反対にアワが豊富なので、心の満足度という点から見たらアワ人間は幸せです)


ただ。
仕事というのはサヌキですから、不利と言えば不利ですかね。
でも上にも書いたように仕事の表面はサヌキだけど、その上はアワが必要なのです。
◇とりあえず仕事するのはサヌキ
◇より良い仕事をするのはアワ


仕事を覚えるまで、慣れるまではアワの人は大変だと思います。
でも、その上を目指すならアワが無いとやれません。
このアワは波動量のことですよ。
ただのアワならこの先生のようになってしまいます。

<誤解している方への説明>(2009年5月25日)


◆アワ量を増やす・・・アワ量は増えません。
              アワ量というのは潜在アワ量のことです。
              これは生まれつき決まっています。
              増やせるのは波動量。

◆サヌキ量が大きい・・・サヌキ量はありません。

            サヌキ性が強い、弱いという言い方ならあります。

<アワの底力>(2009年5月27日)


にこりん^^さんから、参考になる話が来ました。

母と番組を見ていたか、それとも母が番組を見た話を聞いたのか、
定かではないくらい昔の話ですが、

サーカスで成功する子は、
すぐにホイッとできてしまう子よりも、
はじめはできないけど、できるようになる努力をできる子だとか、
って聞きました。

(弟が不器用な子なので、その言葉を母は藁にすがる思いで聞いたのだろうと思います。)

(不器用といっても、学校の成績に関することに不器用なだけなので、
ほかの事はなんにも問題もないし、時にはあんたよくやったねえ、という
こともあったし、やさしいし、それだけで充分だと思うんだけど、
べつに学校の成績なんて、どうでもいいことだったのに、って思うのですが。)

その番組の説明としては、
すぐにできてしまうと、長続きさせてよりよくしたい、って思う前に飽きてしまう、
だけど、はじめできないと、できるまでが長くて、できた時のうれしさが持続するので
最終的に職人芸にすることができる、

ということでした。

だけど、できないにも、限度があるし、絶対やりたい!という気持ちがないと
できないだろうから、向いていることは前提なんでしょうが。

サヌキとアワの仕事の話を読んでいて、思い出したことです。

飽きる、飽きない、というよりは、アワの量の説明のほうが、ぴったりくるなあ
って思いました。


その通りだと思います。
ちょっとやってすぐ覚えるような人は器用だろは思うが、
持続させるには心(アワ)が無いと無理でしょう。
サヌキ人間は頭の先だけが良く働くのです。
(低次元のサヌキの場合です。
  低次元のサヌキとは心が無い人、心のレベルが低い人)


この、物事を為し得る力を底力、人間力とも言います。

一見頭の先が良いサヌキ人間が良く見えるが、見る人が見れば底の浅さを見抜かれます。
上の話で言えばサーカスの団長?さんなどがそうです。
この人は長年サーカス団員(団員志望者)を
「どういう人間が大成するか」という視点で人間を見ているので、見抜けるようになったのでしょう。
「一所懸命」という言葉がある。
今は一生懸命と言いますが、一所懸命とはたしか鎌倉時代に出来た言葉で
御家人は一所に命を賭ける、という意味。
その場所(領地)でやりなさい、真剣に生きなさい、命を賭けなさい、というような意味。

これを現代に当てはめると「一つのことをやり続けよ」という意味になる。

ブログを始めてすぐ辞めるような人にはコレが出来ていません。
(軽い思いつきで初めるからです)
(こういう人の中には語る言葉が無い、浅いので語れなくなって来る場合もある)
(なので話題は天気、旅行、食べモノ、子供の話題などです)


ネットのお店を始めても飽きて辞めるような人も一所懸命が出来ない人です。
サーカス団員志望者で言えば、出来るまでの忍耐が出来ない人であると言えます。

勿論何が自分に合っているか合って無いか、やってみないと分からないので
やってみることは良い。
しかし永遠に試行錯誤し続けるわけにはいかない。
どこかで見切りをつけなくてはならない。
それを探すために真剣になる必要があります。
参考になる言葉を易の石井先生(リンク1)のところで発見したので載せますね。
文中の「先生」とは石井先生の、先生(当時95歳)のことです。

先生について易を習い始めてから 10年間は、
私が家で占っても判読できないもどかしさで、早く易の卦の意味を知りたい焦りがあった。
先生は、私の焦る気持ちにもクールだった。

「易はゆっくりと出来るのが良いのですよ」
と、先生はおっしゃる。
「木と同じです。早く成長する木は、細くてひょろひょろした木に成りますが、大木にはなりません。
大木は根を張ってなかなか育ちませんが、ゆっくりと大きくなります。
早く育つ木は大木になれません。
だから易も直ぐに出来ない方が良いのですよ、ゆっくりと出来るのが良いのです」

(続きは石井先生のサイトで)

上に述べたこととほぼ同じことを書いていますね。

<サヌキメッキ>(2009年5月28日)


にこりん^^さんから。


アワの量のことですが、ほんとは持ってるのに、何かで自分の存在があぶなく
なる場合、アワをなかったことにする、もしくは隠す、ということがある
のではないかと思います。
埋蔵金みたいな、埋蔵アワです。

アワがいっぱいあると、自分に影響がありすぎて、大変だからです。
私で言えば、小3の頃そうでした。
病気になったり、死にたくなったりしてしまいます。
ひいおばあちゃんと両親の3人や、周りの親族が非常に面倒な関係でした。
それで、もうつかれた・・・やめたい、と思ったようなのです。

私の父もそんなところがあるように思います。
考えなくていいようにするために、私も父もスケジュールを埋め、
家には食事と寝に戻るだけでした。
たまにいっしょになれば話もしましたが、父とはお互いに傷つけあう、
なのにそれでほっとする、みたいな奇妙な間柄になってしまいました。
ま、父のことはおいといて。

自分は、それはだめだと思って、3ヶ月くらい前に、もう大丈夫だよ〜、だから、
封印を解くよ〜、と自分に宣言して暗示をかけたんです。


もともとサヌキのほうが強いとは思いますが、それにしてもばかにアワ乏しすぎるなあ
と思ってました。
埋蔵アワ発掘のおかげでアワの地盤が増えたような気がします。(暗示かかりすぎ?)
イライラや罪悪感がなくなって、波動量が上がってるのもあるのか、
いろいろ変化があって、ありがたいです。

他人の話を聞けるようになったり、攻撃的な気持ちが減ったので、
相手も安心できるようです。たぶん。
いろんなところからのメッセージで鎧を脱げ的なアドバイスがいっぱいありましたが、
それを実現しつつあるようです。
自分では着込んでるつもりなかったのですが、よく見てみたら、いっぱい着てました。
1枚1枚というより、一気に何枚か脱いでしまいました。
まだ気づかずに着てるのもあるかもしれないけど。
だいぶ軽くなって、楽です。

サヌキっぽさも、なんだかかなり低〜いところにいたので、レベルを上げてとにかくやって、
アワも使って、いい仕事をします!
と、いつのまにか自分を肯定できるようになっていた、というのが大きな財産になりました。
私なんかでいいのかしら・・・私なんてどうせ・・・とかって思っていたなんて、
本当に失礼極まりない図々しいことです。
にこりん^^さんがアワ人間なのかアワ量の多いサヌキ人間なのか分からないので
何とも言えないのですが、心があるとその分苦しむことになるので「無いことにする」わけです。
それを「サヌキメッキ」(相似象)と言います。

アワ人間が無意識にサヌキ人間の振りをする。
社会、世間がサヌキ人間に有利に出来ているので、それなら、とやるのです。
社会はアワ人間の心を知らないし分からない。
分かってくれる人が殆どいない。
心を分かるのは「心を分かるレベルに達した、波動量の多い人だけ」で、
そういう人は滅多にいない。
世間はアワ(心)を育ててくれません。

昔は子供の心が育つようなお話、歌、遊びがありましたが、
いつの間にか無くなってしまいました。
私が子供の頃はテレビ番組にも「子供の心が育つ番組」があったのですが
今は殆どありません。
殆どが「頭の先の面白さ」を狙ったものとなっています。
これで子供がおかしい、とか心が無いとか大人は言ってますが当然の結果です。

世の中には心が無い人が半数はいる計算になります。
そしてその人たちの原理によって動いているのです。
これではアワ人間はたまったものではありません。

普通にしていれば豊富なアワが育たず、満たされない思いをして損をするだけです。
それならいっそサヌキで行こう、と無意識に思ってしまう。
そういうのをサヌキメッキと言います。


ところがその生き方をしていると、それは本来のタチとは違うので本当は生きにくく、
いろいろとまずいのです。
アワ人間はアワなままでも生きにくく、サヌキメッキをしても生きにくい。
アワ人間がマットウに生きるためには、自分のアワを満足させること。
アワが育つ方向に生きることです。

自分はおとなしいから、弱いからと、好みにふけらず、自分のアワのタチを自覚し
それが育つ方向(アワの波動量化)に生きること。
それが良いそうです。

<サヌキとアワ>(2009年6月1日)


サヌキとアワというのは、それほど重要ではありません。
重要なのは感受性や波動量です。
でも、一応知っておいた方が良いのでここで説明しているわけです。
(自分は果してどっちなんだろう?)
(あの人はいったいどっちなんだろう?)
(うちの子はいったいどっちなんだろう?)

と、考えることが頭の訓練にもなります。
<反応の違い>


ひとから何か警告されたとする。

たとえば我が家の場合。
先日末っ子の◎ちゃんの授業料が引き落される日に口座にお金が入っていませんでした。
間に合うように入れておいたのですが、計算違いをしていたらしい。
で、それから2週間ほど経ってから、学校から「金払え通知」が来ました。
そこに・・・



「今後このようなことがあった場合は、出席停止の処置云々・・・」と書いてある。
コレを読んで
(たった一回払うのを忘れたくらいでこの仕打ちかい!)と、
私はサヌキですから当然、頭に来ました。
で、すぐさま思ったことは
「ウチの口座に金がある時(25日から月末まで)に引き落しやがれっ!」でした。
(反省心ゼロ)
でも、ま。
よく考えたらウチが悪いのでね、まぁ、いいんですけどね♪
(は、反省は?)


このように、「脅し文句」を目にした場合
◆腹を立てるのがサヌキ
◆怖くなるのがアワ

です。

ついでに言うと
◆静かに反省するのが、サヌキでもアワでも高次元の方
です。

<サヌキアワ判定>(2009年6月6日)


こういうサイトを教えてくれた人がいます。
「性格診断サヌキとアワ」  http://www.mawarite.net/shindan/index.html

ただし、これで分かるというものでは無いのでお遊びでやる分には良いと思います。 
 

<アワ男御用達マンガ>(2009年6月8日)


あだち充氏のマンガは30年間の長きにわたって人気が衰えないそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090607-00000027-maiall-ent
アワ人間は心が満足するモノ(コト)が好き。
いったん心に響くと心は容易には変化しないのと、
もともとアワのタチなんだからタチは変化しないのとで

アワ人間は一度好きになると
ずっと好きでいられる


のです。
そういう傾向があります。


サヌキ人間は頭の先の面白さが好きなので、それはどんどん変化します。
常に流行を追い続けるのはサヌキ人間。勿論低次の。

アワ量多いサヌキ人間(で、或る程度の波動量を獲得した人)は
◆頭の先が面白いものを=サヌキ
◆長期間好きでいられる=アワ
という特性があるようです。(私など)

ちなみに私はあだちマンガが嫌いです。
「とっとと告白して振られちまえ」くらい、思います。(サヌキ人間は冷酷)
するとマンガは一巻の第一話で終わるので「一件落着」で良いのではないか?
(サヌキ人間は片付けるのが好き)

ちなみに作者のあだち氏も相当なアワ男だと思いますよ。
新聞社の取材を30年間断り続けているそうですから。




と、いうのを聞いて
「むむむむむ!なんと優柔不断な!女の腐ったような奴だわい。」と思うのはサヌキ。
(勿論低次の)
「あらぁ・・・可愛い♪」と、思うのはアワ。

<サヌキとアワ、反応の違い>
(2009年6月13日)


犯罪が起こった場合。
◇被害者を可哀そうと思うのはアワ
◇加害者に怒りを覚えるのがサヌキ

という傾向があると思います。

<アワ男の実例>(2009年6月13日)


今月発売の雑誌「ムー」(7月号)の「無農薬リンゴを育てた男性」は典型的なアワ男です。

宇宙人はこういう人が好きなんですね。
宇宙人は「学や知」ではない、「心」を一番にする、素朴な人が好きなようです。
余分な話<学と知/心>


精神世界の人たちが「心が大事」と言いつつ、実は「学と知」で心を、ああだのこうだの、言っていますね。
いろんなことを言うが、「その心」(心境・境地)とは、到達しないと分からないのではないでしょうか?
この現象。
どのような良い思想も、受け取り手のレベルに成り下がります。

たとえば、サイババ(真偽の論争があるようですが)は
「物質では無いのだ、皆、最後には灰になってしまうのだ」
言うことを教えるためにビブーティという灰を自分の手の中に出現させ、それを集まって来た人たちに配っている。
するとその「灰」をもらった人達は、灰を有り難がって宝物にしてしまう。
そういう人達にはサイババが言いたいことは伝わっていないようです。
物質など最後には灰になるのだから、重要では無い、とサイババが言いたいのに、
その灰を宝物にしてしまう・・・・・・・・・・・・彼らはサイババの言うことが分かるレベルに達してないのです。

心についてああでもない、こうでもない、とキリも無く言う暇があったら、1分でも良いから
無農薬リンゴおじさんの心境になってみれば良いと思います。

私?
私は精神世界の理くつは言いません。
私は「どうやったら判断力が上げられるのか」に絞っていますので。
また、自分が到達したことも無い境地や、自分が理解しても居ないこと(たとえば1/fゆらぎ、とかいろいろなこと)
について語ることはありません。
到達するのは今世では無理かもしれないが、
その(無農薬おじさんの境地)方向へ進むことが出来る方法を説いているだけです。

<イマイマにキを入れる>(2009年6月14日)


竹の子を希望してくれたmayumiさんから、報告がありました。

mayumiです
先日は竹の子ありがとうございました♪
塩ゆでもおいしかったですぅ〜(なにかのご塩使ってます)
そして
半分はちくわと煮ておいしく完食!いたしました☆
ごちそうさまでした
竹の子の皮むくの楽しかったです♪
むきすぎと思いましたがよかったのですね!
白いとこもとりましたよ
昔一度むいたことがありましたが
仕上げは義母がしてくれていたのをお思い出しました…
さきの白いところをそぎおとしたり
むきが甘かったところきれいにしていてくれましたわ
やってもらってる姿をみて覚えることができればいいですけど
私みたいに忘れてちゃ…パンドラ竹の子記事も読んでいても
ちゃんとできていても????自信なくなってしまう
何事も意識して理解しものごとに取り組むことのたいせつさをまた実感しました
ありがとうございます☆
おいしい竹の子教訓でした!!!
目の前のことを無意識に見るのではなく、ちゃんと意識して見ること、
それがイマイマにキを入れる、ということです。
不思議なことに、文字が大きくなっている箇所はmayumiさんが大きくしたのではないそうです。
私もやっていません。
届いた時には大きくなっていました。




それから、mayumiさんは何の変哲もない家事から何かを悟っていますが、
実は相似象でも「普通の生活の中で悟れ」と説いています。
特別なことは何もしなくて良い。
ただ普通に生活をしていればその中でいくらでも悟って行けます。


高いお金を払ってセッションをしても受け取る方が「イマイマにキを入れることが出来ない」
レベルにあれば、何をやろうと無駄です。

<直感を鍛える>(2009年7月9日)


「Vision Quest」のMWさん、今、相似象を読んでいるそうです。


それと今、相似象も読んでいます。
 
なかなか読書だけに時間を取ることが出来ないので
開いたページの中から目に留まったところを読んでいます。
 
2日前に飛び込んできたページにこれが書いてありました。
 
「今、自分にとって自分の直感を鍛える以外に緊急に為すべきことは無い」
 
そうなんです。
相似象は「直観物理」を解いた本です。
私がサヌキだ、アワだ、とやっているので、性格診断のように思われるかもしれないが、
最も大事なことは「自分の直感(直観)を鍛えること」です。
サヌキ、アワはその手段に過ぎません。
<直感と直観>


言葉が違うので当然意味も違いますが、似たようなものです。
直感=自分が感じたもの
直観=見抜いたもの
です。
直感の方が感覚的です。

両方言語化するのが困難なコトですね。
ここでは直感の方で行きます。
<直感のレベル>


直感は個人差が大きい。
上は聖人級から下は類人猿級まで、様々な段階(レベル)があります。
<直感が狂った人>


いや、当人にとっては狂っていないんですよ。
それが「正しい」と思っているのです。

<怪談>(2009年8月14日)


昨日からお盆ですね。

幽霊話を聞いて
◆可哀そう!と、思うのがアワ
◆ざけんな!と、思うのがサヌキです。
あ、勿論低次の。
我が家の◎ちゃんは怪談話が大好き。
私も大好き。
レンタルビデオ屋で「本当にあった怖い話」を借りたり、テレビの心霊特集を見たりしています。
YOUチューブの心霊写真を見るのも好きです。

怪談話の中で「無関係な霊が出て来て、何事かを訴える」というパターンがあります。
怨みから出て来るより、ずっと多いようです。
そういうのを見て
(ざけんなこの野郎)と思うのは間違い無く低次のサヌキ人間です。
テレビ番組「ほん怖」にゲスト出演していたユキナが幽霊の子供に「ざけんな」とつぶやいたのを
司会の稲垣五郎氏に聞かれて突っ込まれて照れていました。

幽霊は優しい人の所へ出るのだと思います。
私だったら無関係なのに出やがって!と、文句を言いますね。
今から数年前に私が寝ている部屋にぼ===っと、ドルイド僧の姿の人が出たことがあります。
三回目には言いました。
「あなたは何が望みなんですか?何が言いたいんですか?はっきり言ってください」
向こうは何も言いませんでしたが・・・(私の魂と関係有る存在だったようです)

サヌキ人間の私としては無関係なら出ないで欲しい、それだけです。
赤の他人に「供養して欲しい」なんて筋違いだよ、と思うのでそういう人のところに出ても
出ただけ損なので出ないのだと思いますよ。
赤の他人なのに気の毒に思って同情して供養してくれるのは心優しいアワ人間でしょう。

このようにサヌキとアワでは幽霊に対する態度も違います。

<秋桜さん>(2009年9月3日)


7/7〜9/9までブログを書く、と約束していた秋桜さんが
一部の分からずやのせいでブログ運営が困難になり、今日6日間早く
ブログを終了してしまいました。

この件について
◆もっとやって欲しかった、と思うのは低次元のサヌキ
です。
出来たら9日まで続けて欲しかったなと思うのは、自分の希望欲望思いを優先するサヌキです。
そりゃ私もそう思いましたよ、最初は。

でも、
◆しかし80歳の高齢で、●●な連中から妨害されたら、そりゃ嫌になる罠、と
  秋桜さんの気持ちを汲んで受け入れ、同意するのはアワです。

はい、私もそう思います。


このように、一人の人間が常にサヌキならサヌキだけ出しているかと言えば違うのです。
時と場合により、サヌキを出したりアワを出したりします。
平均的にサヌキが多い人、アワが多い人というのはありますが。

また、その気持ちを出す人間そのものがアワとサヌキに分かれるので、
私が「秋桜さん、気の毒にな」と、思ってもそれはアワ人間が感じるものとは違います。
気の毒に、と思う心にアワ(感情、情緒)が巻いて無いのです。
思うだけ。
感情動かず。
冷静(クール)。
頭で考えるだけ。
事務的です。



さて、ネットに不慣れな秋桜さんでしたが
80歳の高齢でよくここまでやってくれました、ありがとう。
この方のおかげで何人の人の魂が救われたか分かりません。
本当にいくら感謝してもし足りないくらいです。

本当にありがとうございました。

<整序する>(2009年9月15日)


頭の中を整理することです。
すじ道を立てて考えること。
これはなかなか苦労なことです。

たとえばPANDORA。
カテゴリー別に分けて整序することを心がけていますが、なかなかできません。
リンク1は、相互リンクとそうでないのが一緒になってしまいました。
これは分けるべきです。
それは大仕事なのでまだ着手出来ません。

サイトの混乱はイコール管理人の頭の中の混乱です。

<整序の例1・・・文章化する>(2009年9月22日)


整序を説明するにあたって、どこから手をつけて良いものか
分からないので前回の記事から1週間経ってしまいました。
系統的に説明することは私には無理なので思いつくまま書いてみます。
整序する一つの方法に、箇条書きにしてみる、という方法があります。


私の例でいえば昔、長女が大学を受験する際、A大学とB大学の
メリットデメリット
箇条書きにして書き出し、部屋の壁に貼りました。
なおA大学もB大学も私大で、他の大學には無い学科があり、長女はその学科に行きたいのです。
(※なので国公立大へ行くか私立大へ行くか、という選択で迷うことはありませんでした)

A大学(関東地方)=
家から近いので、帰省するのが簡単⇔帰省に金と時間がかからない
              
日本最大の繁華街のそばにある(楽しい)
              
寮がある(しかし近いので入寮出来ない可能性がある)
B大学(関西地方)=
家から遠いので帰省するのが大変
              ⇔でも、
一生のうちの一時期、遠い場所で暮らすのは面白い体験
                (そうでもないと関西には親戚もいないので住む可能性は低い)
              
寮がある(遠いから入寮出来る)

頭の中で何となく考えるより、文章化して書き出してみるのは良い方法です。
<整序の例・・・文章化する2>(2009年9月22日)


と、思っていたら「花と波動と心の不思議箱」に凄い記事を発見しました。
<ガラクタを捨てると幸せやって来る!>(2009年9月22日)です。
イギリス人のカレンさんという人がガラクタを捨てるとこのようなメリットがある、と
本に書いていたものをクラビィさんが抜き書きしています。
その記事の見出しだけを載せますので、それぞれの説明文はクラビィさんのサイトで確認してください。


「ガラクタの与える影響」

・「持っていると疲労感をおぼえ、無気力になる。」
 
・「過去の呪縛を溜め込むこと」

・「身体の働きも滞らせる」

・「あなたの体重にも影響を与える」

・「混乱のもとになる」

・「人々の対応にも影響する。」

・「何事も延期しがちになる」

・「不調和が起こる」

・「自分を恥じるようになる。」

・「人生の展開が遅くなる」

・「気分が鬱になる」

・「超過荷物になる」

・「感性がにぶり人生の楽しみを味わうことができなくなる」

・「余分な掃除を強いられる」

・「整理整頓が悪くなる」

・「健康に悪く、火事の可能性を招く」

・「好ましくない信号を発する」

・「お金がかかる」

・「大切なことに頭がいかなくなる」


箇条書きにするということは、箇条書きにするためにその前に勿論考えているということになる。
一つのことについて、ここまで考え尽くすこの姿勢は凄い。
この記事はさらに続き、今度は<何をガラクタというか?>だそうです。
このように段階をおって、ひとつづつ積み上げて行くのも整序する方法の一つです。

<サヌキ性1>(2009年9月23日)


閲覧者の方が「サヌキ性を強くしたい」とメールをくれたので、説明しますね。
サヌキ性は強く出来ません

サヌキとアワのタチは生まれつきです。
と、言っても二種類の人間がいるのではなくて、
アワのタチの人の中にもいろいろいるし、サヌキのタチの人の中にもいろいろいます。
様々な段階と配分があります。
サヌキのタチの強い人、サヌキ性の強い人は生まれつきなんです。

なので、保育園児や小学生を見てもサヌキ性の強いクソガキがいるわけです。
<サヌキ性2>


生まれたばかりの赤ちゃんは全員波動量無し、ゼロ、です。
潜在アワ量の大きなアワのタチの赤ちゃんも、サヌキの赤ちゃんも知恵も体験も心も無いのでゼロ。

それが育っていくに従って、潜在アワ量が波動量化します。
みんな同じように波動量化するわけではなく、環境・親の質などによって差が出てきます。
今の世は子供のアワが波動量化するために良いものが殆どありません。
(心を育てるようなものが無い。子供の心にちょうど良い童謡や物語などが少ない)
世の中はサヌキ性のものであふれています。
(目先を楽しませるもの、驚かせるものばかり。
  それはそっちの方が金になるからです。
  目先のもの、頭の先のものは、すぐ飽きる。
  なので企業は次のモノを売りだす。
  次のものを売りだすために、目先頭の先のものを作っては販売するのです。
  心はそっちのけで金が世の中の基本になってしまっています。
  心を育てるようなもの、童謡や本などは「時代遅れ」「ダサイ」と言う言葉で片付けられているのが今)

現代はアワを育てるものが無いので、放っておくと子供のアワ(潜在アワ量)が波動量化しません。
(なので親がそこらへんを意識して、アワな子供もサヌキの子供も育てる必要があります)
(親が低次元のアワやサヌキだと、意識化出来ないので、そういう子育てが出来ません)


その結果、心の乏しいタイプであるサヌキの子は心を育てることが出来ず、心無い人間に成長するし
心の豊富なアワのタイプの子はせっかくの潜在アワ量を波動量化出来ずに
常に心は空しく心の病気になったり、薬物に依存したりします。
(サヌキの子供や大人も興味本位で薬物に手を出しますが)
<サヌキ性3>


閲覧者の方が言いたいのは、自分のサヌキを高次元なものに高める、ということでしょうかね。
方法はあります。
自分のアワを鍛えて高次元なものにすれば、そのアワに見合った高次元なサヌキを発揮できるのです。
なので、この方は自分の潜在アワ量を波動量化して(体験して知恵をつけ、判断力を上げること)
より良いサヌキ(行動)を出せばいいんです。

<整序の例2・・・論理>(2009年9月29日)


頭の中の思考を整理するためには、論理的でなくてはなりません。
当たり前過ぎて説明するのも面倒です。
でも私の頭の中を整序するためにも、ここで文章化(言語化)してみますね。
あくまでも私の今の時点でのサトリです。
相似象にはこういう例は書かれていません。
<論理1・・・三段論法>


「AはBである。
 BはCである。
 ゆえにAはCである」


これは分かり易いですね。
具体的にあてはめると
「ifは女である
 女は男では無い方の性である
 ゆえにifは男では無い方の性である」

「ifは人間である
 人間は爬虫類では無い
 ゆえにifは爬虫類では無い」

(※人間の中にも爬虫類の方がいるようなので、これは論理としては不完全かな)


三段論法というやつですね。
これは多くの人が特に意識しないでやっています。
なので今、このように意識化して文章化(言語化)することは却って難しいのです。


ところが、主婦(でも主婦でなくても)の中にこの論理が飛躍している人がいます。

「AさんはS学会のことを話題にした
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ゆえに、AさんはS学会が嫌いなのだ」

これは実際にあった事例です。

何かおかしいと感じるはずです。
そう、二番目の論理が無くていきなり結論に達しているのです。

もし、この論理を完成させたいなら
「AさんはS学会のことを話題にした
 Aさんは自分が嫌いなモノを話題にする人である
 ゆえに、AさんはS学会が嫌いなのだ」

これなら分かりますよね?


しかしこの論理が成り立つための二番目の論理
「Aさんは自分が嫌いなモノを話題にする人である」
ということを証明しなくては、この部分は成り立ちません。
通常、このような人は居ませんから、
これを証明するための論理はさぞかし膨大な証拠を集めなくてはならないでしょう。



(※ここで、最初の一行が「AさんはS学会を批判した」というのならまだ分かる。
   しかしこの事例は「ただ話題にしただけ」なのです。
   だからおかしいのです)

(※では批判したことにしましょう。

   「AさんはS学会を批判した
    批判するということは嫌いなのだ
    ゆえにAさんはS学会が嫌いなのだ」
  
  これならまだ論理になっている。
  しかし、ここでさらに突っ込み入れましょう。
  
  「批判すること=嫌い」
   ということが証明されていません。

  批判することはイコール嫌いですか?
  私は違うと思いますよ。
  私にとってはその二つは「全く別物」なのです。
  
  ところがこれがイコール(同じもの)になっているレベルの人がいます、というか多いです。
  そういう人達にとっては批判=嫌いなので、何の矛盾も無いのです。
  私からみれば
  「批判=嫌い」を、まず証明せよ、となります。
  
これも整序です。

  通常このような会話になり、それを理解出来ない場合は言いだした人を
  嫌になるレベルの人が多い。
  そうなれば通常感情的になってしまう。
  あくまでも論理で頭を使って行きたい(生きたい)人と、
  感情的になって終わる人が厳然としてあります)


(※たとえば、
  「あなたはS学会を批判しましたね?」
  「はい、しました」
  「ということはあなたはS学会が嫌いなんですね?」
  「いえ違います」
  「え?それはどういうことですか?」
  「別にどういうことでもありません」
  「は?あんた私をバカにしてんの?」
  「え?まさか」
  「おい、いい加減にしろよ!」
  「あなたさっきから何を言っているんですか?」
  「人をバカにするにもほどがある!謝れ!」
  とかね。
  これに近いようなことは実際にあるのです)



さて、この部分です。
「しかしこの論理が成り立つための二番目の論理
 「Aさんは自分が嫌いなモノを話題にする人である」
 ということを証明しなくては、この部分は成り立ちません。
 通常、このような人は居ませんから、
 これを証明するための論理はさぞかし膨大な証拠を集めなくてはならないでしょう」

  
いや、やったっていいですよw
勿論、こういうコトを言いだした方自身がやるのですがねw
まぁ、それは置いといて。
この事例
は論理が飛躍している例です。

この例は論理が苦手な主婦の例ですが、では普段から論理を使っている人なら
大丈夫かというと違うのです。
所謂頭の先が良い人は、自分が分かっていることは分かっているので、
その中では自分なりに論理を組み立てることが出来る。
が、コトが自分の理解(整序)の能力を超えると、途端にこの主婦のようになってしまう。
いくら「頭が良くてもダメ」なんです。
判断力が無いと分からないのです。


こういうのもある。
「Aさんは映画を見るのが好きである
 映画好きの人はDVDを借りることが多い
 AさんはDVDを借りる」

これは言えますか?
言えませんね。
たしかに映画好きの人はDVDを借りることが多い。
しかし、そのことと、AさんがDVDを借りることとは別です。
AさんはDVDを借りないのです。
何故か?
Aさんはいまだにビデオしか見ないのです、だって家にDVDデコーダが無いからです。
これを言うためには本人に確認するか、Aさんが留守中にAさん宅に忍び込んで家探ししなくては。
(あ、これヂョウダンですよ)
この例は意地悪問題のようですが、意地悪だろうが親切だろうが、この際それは関係ありません。



ここらへんが頭の先だけが良いヒトに理解出来ない点です。
と、こう書いても分かる人には説明無しで分かるし、分からない人にはいくら説明しても分からない。
どうしても自分には分からない世界、それを(自分より上の)次元と言っても良いでしょう。
(※ここで言う次元とは通常言う多次元世界のことではなく、意識の高低によって生じる
   内面の世界のことです)
<論理2・・・へ理屈>


さて、論理と似ているものにへ理屈があります。
厳密にいえばへ理屈は論理では無い。
正しい論理では無い、
正統派の論理では無い。

でも、へ理屈を論理であると思っているレベルの人が存在します。
そういう人にとっては
へ理屈=論理
なのです。

私はここでへ理屈を言えとも言うなとも言いません。
相手に「へ理屈を言うな」と言えるのは
@親が子に対して
A学校の教師が生徒に対して
B職場の上司が部下に対して
などです。
よく年長者が自分より若い赤の他人に対して何を勘違いしたか、頼まれてもいないのに
指導していることがある。
その指導内容が合っていれば(正しい判断のもとに為されている、という意味)まだいいが、
言ってる内容が整序されておらず、自分の思い込み他で行っているので周囲が迷惑する場合が多い。
これを老害と言います。



【相手がへ理屈を言う場合】

自分はへ理屈を言わなくても、そういう(へ理屈が存在する)場合が有る、ということを想定出来ないといけない。

「自分はへ理屈を言わない
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ゆえに世の中にはへ理屈は無い」

という論理は成り立ちません。

自分がそれを「無い」と思っても世の中には「有り」なのだし、そこを理解しないならそれは自己中です。
幼稚園児と小学校低学年の子供なら普通ですが、大人がこれをやっていたらおかしい。

(※昔、こんなことがありました。
   テレビのCMにやたら「目」が出ていた時期があった。
   たしか1998年前後ですかね。
   もっと前だったかもしれません。
   数十の社のCMに「目」の大写しが出たのです。
   当時、我が家ではそれに気付いて私と子供とで騒いでいました。
   陰謀の一種だったと思います。
   それを知りあいに言ったらその人はCMの「目」など見たことが無く、
   「何のためにそんなことをするの?」と笑っていました。
   CMに目を出したってそれが何?意味はあるの?意味の無いことを企業が何故するの?
   意味が無いことを企業がするわけがない(笑」という感じです。
   この人はとても良い人ですが無自覚で「自分が意味が無いと思っていることを他人がするわけがない」と
   思っていたのです。
   論理が飛躍しています。自己中です。
   このような善人が殆どではないでしょうか?)

「自分はへ理屈を言わない
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 だからあなたもへ理屈を言ってはいけない」

「自分はへ理屈を言わない
 自分の言うことは正しい
 だからあなたも(私に従って)へ理屈を言ってはいけない」

「自分はへ理屈を言わない
 へ理屈は言ってはいけない
 だからあなたもへ理屈を言ってはいけない」

「自分はへ理屈を言わない
 へ理屈を言うことは悪いことだ=つまりへ理屈を言ってはいけないのだ
 だからあなたもへ理屈を言ってはいけない」


これらは論理が破たんしていますね。

実際はこの方がへ理屈と言おうが言うまいが、世の中や相手とは関係が無いからです。

この場合は
「自分がへ理屈を言わないこと」と、「相手がへ理屈を言うこと」との間に関係があれば論理として成り立つ。
たとえば「へ理屈を言わないようにしよう」という取り決めを自分と相手の間で交わす。
これを破ったら「へ理屈一回につき、相手に100円払う」と決める。
「へ理屈を言わない、と二人で決めた
 すると相手がへ理屈を言った
 一回につき100円払う約束だから、おまえはオレに100円寄こせ」

これは成り立つ。
(※しかし、この場合、相手が「オレがさっき言ったのはへ理屈では無い」とへ理屈を言う可能性がある。
  すると、どれがへ理屈でどれがへ理屈では無いか、という新たな問題が発生するので
  それを想像するだけで疲れるので通常はやりません)


以上、凄いへ理屈でしたw


【へ理屈の事例】


へ理屈の事例があります。
県庁職員のM氏から聞いた話です。

或る場所で工事をした。
建設機械は道路を走行してはいけない。
ところが或る土地から狭い道路を隔てた反対側の土地に建設機械を移動させる際、
ダンプカーに積んで運搬することが法律で定められているが、
あまりにも距離が短いので(ほんの数メートル)ダンプカーには載せず
建設機械が反対側の土地へ、自ら移動した。(勿論オペレーターが運転した)
すると、それを一部始終見ていたクレーマーがいて、最初から最後までちゃんと証拠写真を撮って
県庁に送りつけ「このおとしまえをどうつける?」みたいなことを言って来た。
(ははh!)
M氏曰く「法律的にはこのクレーマーが言う通りなんです」

このクレーマーはいったい何をやりたいのでしょう?

@K札に言うぞと脅かし、県庁から金をせしめたい
AK札に言うぞと脅かし、県庁職員に土下座させたい
B@とAの両方をやりたい

Bではないかと思います。

県庁も忙しいのでクレーマーがいくら論理的に正しくても現実的には無茶なので
(いや、建設現場でバカ正直にやることも出来たが)
仕方が無いのでクレーマーがK札に言うと言うのなら「どうぞ」と応対したようだ。
(相手をするとずっと相手をしなくてはならないので、次はK札に任せたかった。
 K札の相手をする方がまだマシであると、判断したのでしょう)


論理は大事です。
しかしそれを超える論理も存在する。
言ってる本人の判断力を超えた論理は本人の頭の中には存在しない。
上には上があるのです。

M氏は部下に「理屈じゃ無いんだよ」と指導するそうですが、いえ、理屈なんですよ。
ただ、
「今のオマエの判断力から導き出された理屈を超えた理屈があり、
オマエはそれを理解出来るまでに知恵(波動量)をつけなくてはならない」
ということなのです。
私は「理屈じゃないんだよ」という言い方では部下は理解出来ないと思いますね。

M氏にはそれが感覚的に分かっているが、言語化の点ではいまいち言葉(論理)が足りないと思います。
(※勿論この場合はM氏は職場の上司ですから部下はその指導に従う、という前提があるのでやれる)
(※そう考えると職場で論理や心のことを指導してもらえるということは、ありがたいですね)
(※日本中にM氏のような上司がいるといいですね)
<論理3・・・成り立たない>


思いつくまま書いているので、この記事(整序)自体が整序されていないことを御断りしておきますね。


中にはこういう考え方をする人がいます。

「AはBである
 AはCである
 ゆえにBはCである」


これは
論理としては成り立ちません
なのにこういう考え方を平気でする人がいます。

具体的に当てはめてみましょう。

「りんごは果物である
 りんごは赤い
 ゆえに果物は赤い」


実際は果物全部が赤いわけは無いので、成り立たない。

「バナナは果物である
 バナナは黄色い
 ゆえに果物は黄色い」


これも成り立ちません。

幼稚園児や小学校低学年の子供なら普通ですが、大人がこれをやったらおかしい、ということは
分かりますね?
上の例でいえば「果物は赤い」「果物は黄色い」という結論が正しくないということはすぐ分かりますが
一目(ひとめ)で分からない事象の場合は、目で見て比べることが出来ないので
やってしまっている人がいるのではないでしょうか。


ではそういうモデルを考えてみましょう。

「Aさんは日本人である
 Aさんは空手をやる
 ゆえに日本人は空手をやる」

これだと日本人全員が空手をやるみたいです。
日本人はこれがウソだとすぐ分かりますが、日本の事情を知らない外国人はこのような思考に陥っています。
”世界の常識”では「日本人の男は全員空手をやる」ことになっているそうです。
(※これが却って良い場合もあります。海外で必要な時に空手の型を見せると相手はビビるらしい)

「Aさんは会社員である
 Aさんは大卒である
 ゆえに会社員は大卒である」

これは成り立たないですね。

「Aさんはおばさんである
 Aさんはヨン様ファンである
 ゆえにおばさんはヨン様ファンである」

おばさん全員がヨン様ファンではありません。
氷川きよしファンだっています。
なので成り立ちません。


まだある。
「Aさんはオヤジである
 Aさんは脂ぎっている
 ゆえにオヤジは脂ぎっている」

この場合は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・言えてるかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ、でも、
「オヤジ全員が脂ぎっているわけではない」ので、或る程度までは言えてても完全には言えません。
なので、これも論理としては不完全です。
これなどはあまりにも普通に言えてしまうので、この思考に陥っている人も普通にいます。

もしこれを言いたいなら
「Aさんは一般的・平均的なオヤジである
 Aさんは脂ぎっている
 ゆえに一般的・平均的なオヤジは脂ぎっている(ただし例外もある)」

これなら論理としてより正しくなりました。
事例が嫌だけど。
考えたくないけど。

<感受性と相似象>(2009年10月4日)


ここでちょっと違う話題。


相似象で一番大事な感受性について。
何故人によって同じモノやコトに対して抱くイメージが違うのか。
それは感受性が違うからです。
人って外見はかなり違うが、中身はその10倍〜100倍は違う、というのが私の意見です。

人のオトナは身長145センチから185センチの間に大抵は収まるのではないでしょうか。
体重も40キロから100キロの間では?
人間の外見がいくら違ってもその間に収まる。
でも人間の中味は?

相似象の師匠(宇野多美恵女史・故人)が言うには
「上は聖人級から下は類人猿級までいる」そうです。
この差は「同じ人間とは思えないほど」です。
世間でも良く言われていますね。
「同じ人間とは思えない」と。
素晴らしい人を見れば「同じ人間とは思えない」し、
極悪人を見れば「同じ人間とは思えません」。

私達のような普通の平均的な人間が一番多いわけですが、
それでもその中身を精査すれば、差はあります。

と、こういうことを書くと「類人猿とは何だ!」と、
感情的になるレベル(次元・意識レベル)の人達もいるわけです。
相似象を書いた宇野女史は相似象が世に出るのをとても危ぐしていました。
相似象を読んでつまらない人の方が多いはずなので、もし本を買ってもつまらなかったら
すぐ返して欲しいと、本の中に何度も書いていました。
相似象を理解出来ないだけなら良いが、感情的になり敵対心を持つレベルの人がいることを分かっていたので
やたら世に出ることと、用の無い人に本が行くことを防ごうとしていたのです。

そして今。

インターネットの普及により、隠しておきたくても無理な時代になりました。
相似象は知識だけでは理解できないのですが、多くの人は知識だけの理解になってしまう。
宇野女史が存命中もそうだったので女史はそれらを片っ端から批判し、読者が誤解しないよう導いていた)
頭の先、知識だけの理解で相似象を基に本を書いた人が殆どでした)
しかし本にすることによって、何も知らない人に相似象と出会うチャンスを作った面もあるんだから、
私はそれはそれで良いと思うが女史は真面目なのと、相似象の読者の勉強のために敢えて批判したと思う)


それはともかく「感受性」についてです。
前フリが長かったですね。

上は聖人級から下は類人猿級までの人がいます。
それぞれの波動量の段階によって感じるものが全く違う
のです。
中途半端ですが、これがひとまずの結論です。

<波動量が上がって悟った話>(2009年10月5日)


「夢の話」→「夢で逢えたら」→<不合格の理由>を読んだAさんから。
私は忘れていましたが、Aさんは以前ブログをやっていて、私がリンクを切ったそうです。
その際、Aさんがいつか分かるようになったら悟れば良いと思って何か助言をしていたそうです。
全然覚えてないのが凄いです、私、とうとう・・・・ココまで・・・・(っが〜〜〜ん!)

まず話が分からないとならないので、基になった夢の記事をここに載せますね。



お久しぶりです。Wと申します。
いつもありがとうございます。

先日ifさんの夢を見ましたのでご報告致します。

夫と子育てについて話していて、
「『わたしならいい母親になれるはず』なんて
 根拠のない自信を持ってたけど、
 そんな変なプライドが粉々に打ち砕かれるのが
 子育てだよね」
……ということを話した日の夢でした。

======================================
ifさんと数人のグループがいます。
ifさんはグループのなかのひとが書いたものや、
言ったことに対して、
「これはよいことを言っているね。
 こういうことを考えられるのはよいね」
などと名前を挙げて話していきます。
名前が出たひとは「合格」のような感じで、
別のグループを作ります。

名前が出なかったひととifさんが残り、
ifさんは、
「なぜ自分たちが『よい』と言われなかったのか、
 考えて話してごらん」
と言います。
そこで残ったひとは自分の「よくないと思う」ところを
話していきます。

わたしも名前が出なかったグループのひとりでした。
わたしは、
「自分は他人が『よい』と言われることに対して、
 『わたしだってそのくらいできるはず』と思ったり、
 『そのひとだってよくないところはあるはず』と
 思ったり、嫉妬しています。
 そういうところを克服しなければならないと思います」
と発言します。

このときのわたしのこころのなかでは、
「こういうことを言ったらifさんは認めてくれるだろう。
 わたしは自分のことをよくわかっているんだから」
……などと考えている自分がいるのです。

するとifさんは、
「その通りだけど、それだけじゃダメ」
というようなことを言います。
(実際に何と言ったのかは忘れてしまいました)
======================================

夢は以上でした。

夢のなかでわたしが発言したことは自分でも気にしている、
抱き参らせなければならない「闇」の部分だったので
目が覚めて少し落ち込んでしまいました。

「それだけじゃダメ」って、
嫉妬心や虚栄心を持っていることのみならず、
つまりifさんの評価を気にしていること、
ひとに認められたいと思っていることも、
全部見抜かれているってことですよね。

去年謎の方の意識レベル判定を受けた際に、
「理性でマイナスの感情をコントロールするのではなく、
 生じたマイナスの感情そのものを変換してしまうの、
 そうしたものが人間にはあると思うのです。」
……と言われたことを思い出しました。

自分のなかの負の意識をどう変換していくか、
真剣に取り組みなさいと言われた気がしました。
「克服しよう! コントロールしよう!」と頑張ることは、
「それだけじゃダメ」なのかな、とも思いました。



ブログについては「私が読んで面白いもの」
「ほぼ毎日見に行くもの」をリンクページからリンクしています。
では私は何が面白いのかと言えば
◆個性的で
◆自立し(他人の評価を気にしないという意味です)
◆或る程度の判断力があり
◆文章が上手く(或る程度巧ければ良い)
◆読んで面白く(バカバカしいもの大歓迎)
◆たまにはためになる記事があるブログ
です。

自立していることが条件なんだから「他人の評価が気になる」ような
人が書いたものは面白くないわけです。
他人がどう思おうと私はコレで行く、という態度を歓迎します。

お店に関しては
◆仕事をすることによって判断力を高めていこうと決め、
◆常に商売を工夫し
◆客あしらいが上手い人(普通で良いのです)
の店をリンクしています。
ブログより基準が低いのです。
私は商売をしたい人を応援しているので、基準が甘くなります。
その代わり仕事のやり方がおかしければ容赦なくクレームつけます。
ブログの人が妙なことを書いていても通常クレームはつけません。
仕事では無いから。

どっちを選んでも厳しい道です。
(とはいえ、それほど厳密にやっているわけではありません。
  危ない人、ボーダーラインにいる人は多い。
  その場合は半年〜1年は様子を見ています。
  その間、全く悟ることがなく、常に他人の評価を気にしているようならまずいですね)



実は昨日の夜、寝る前に「リンク出来ないブログ」について考えていました。
記事にするためです。
PANDORAのリンクのページに「リンクする条件」を書いてあるのに
読んで無いか或いは読んでも理解出来ない人がいます。
こういう人のことはいつか自力で悟るまで放置(残酷な放置ではなく、
いつか悟ることを期待しての放置)をしていますが、
リンクページからのリンクを外され記事からリンクになるほどの人には
自力で悟るのは無理なようなので、見るに見かねてその方からメールが来れば
教えていますが、はっきり文章化して教えても「まだ分からない」人がいるのです。
こうなったらお手上げです。
言語で教えるしか教える方法は無いのに、それでも分からない場合はやりようがありません。

とはいえ、こういう人も考え続け、波動が上がればいつか理解するだろうから
決して見捨てたわけではありません。
ちゃんと記事からリンクしているし。
(リンクページからリンクするのはあくまでも私の事情からです)

分からない人は真っ直ぐ素直に分かって行けば良いのですが、
自分の我により途中でどこかに引っ掛かり袋小路に入り込む人もいます。
勘違いをする、という意味です。
それも経験なのでOKです。
早めにそこから出るもよし、時間をかけて出るもよし、その人の自由で良いと思う。

と、こういうことを考えて寝て、朝起きたらWさんから「夢の報告メール」が来ていたので
テレパシーかと驚きました。


先日「夢で逢えたら」に掲載していただいた件で、
聞いていただきたいことがあってメールしました。
続きのような夢を見たんです。

今回は短い夢です。
夢のなかで、
「ああ、つらいなぁ。これを乗り越えなきゃいけないのか。
 でも前に1回放棄してるから、今度は乗り越えなきゃ」
……と考えて鏡を見ていました。
それだけです。

この夢なんですが。
わたし、10年前にある気功のグループにいまして、
そこの先生に、
「あなたの課題はプライドが高すぎることです」
……と言われていたんですね。
そのときわたしは、
「頭を下げることはできるし、腰低くしてるし、
 プライドが高すぎるって言われても意味わからんな〜」
……なんて思って、理解できなかったんですね。

このとき言われていたのは、
「他人からどう見られるか、
 よく思われようとして自分を飾る虚栄心に気をつけなさい」
ということだったんじゃないかなと思うんです。

リーディングをしていたとき、よく、
「ひとの悩みを聞く仕事なんだから、
 自分は悩みを持っていてはいけない。
 悩みを持っていても、ほかのひとに相談してはいけない。
 悩みを持っていても、それを知られてはいけない。
 ほかのひとに相談したとしても、
 リーディングをしているviancaだと知られてはいけない」
……というようなことを考えていて、
自分のなかに勝手に「他人の目」を作っていて、
「よく見える自分」「立場にふさわしい自分」でいなければ
ならないと思っていました。

もちろんその当時は自分でそうとは意識してませんでしたが。

いまになって、わたしの人生ってなにかにつけ、
「自分のなかの他人の目」に自分がどう映るかばかりを
気にしてきた人生だったんだ、とようやく目が覚めたんです。
10年たってようやくあのとき言われた意味がわかったんです。

10年で一歩か〜。
長いなぁ〜。

一つの課題を悟るにはそのくらいの年数が必要です。
勿論全部の場合について10年掛かるというわけではありませんが。

長いと言えば、「文章が長すぎて要点がぼやける」というのも、
欠点のひとつですねw


前回の夢の印象でもそうでしたが、
ifさんのリンクを切られるということは「恩恵」だと思うんです。
「なぜ」を真剣に追求したら、自分のこころが見えてくる。
夢のなかで、ifさんが「合格したグループ」ではなく、
「不合格のグループ」と話していたのは、
そういう意味ではないかと。

そういうコトです。
優しくして悟りを遅らせたら、今はまずいのではないでしょうか。

ちなみに、
娘と過ごしていると、そういうことが次々に出てきます。
そういえばこの子を妊娠中姉からifさんの絵を
プレゼントされたんですが、
その絵についていたおみくじが「あなたは好かれている」と、
「ソウルメイト」でした。
わたしに「自分自身について」を教えてくれているんだと、
改めて子どもってすごいなと思いました。

なんと!
Wさんに絵をプレゼントしていたことをすっかり忘れています。
凄いのはおみくじです。
生まれて来る赤ちゃんのための絵のおみくじが
「あなたは好かれている」
「ソウルメイト」
とは、生まれて来る赤ちゃんがWさんのソウルメイトで当然、赤ちゃんから好かれている、
という意味ですね。

以上です。
今回も長々と書いてしまいましたが、すっきりしましたw
ありがとうございました。



Wさんは以前絵のリーディングをしてくれた方です。
赤ちゃんが出来たのでリーディングを終了しました。
Wさんはリーディングをしながら着実に波動量を上げていたようです。
そのことを私は全然知らなかったので、Wさんが今、こうして報告してくれて良かった。
Wさんの波動量が上がったのは、Wさんに絵のリーディングを依頼した御客さんの御蔭ですよ。
御客さんがWさんの波動を上げてくれたのです。

Wさんがリーディングするのは才能です。
才能を上回るものがあるのです。
それが才能を育ててくれたんですね。

と、いう記事を読んだAさんがメールをくれました。


以前にifさんに絵を描いていただいて、ブログをリンクしていただいたことがあります、
Aと申します。
意識レベルの記事内では、「最初はムカついたけど・・・」と確かこういうタイトルで
私のことを書いていただきました。

(※これは、Aさんが意識レベル判定に申し込んでくれたので、結果を送信したら
   その数値が低かったことに対して、Aさんがムカついたそうなので
   それを記事にしました。
   私から見たらAさんに出た数値は高いものでした。
   なのにここでムカつくというのが私から見たらおかしい。
   というよりは、それ以前からAさんの妙なプライドの高さが見えていたのです。
   メールのやり取りにそのおかしさが出ていた。
   
   当時、Aさんのブログをを見た方が居て「あのようなブログの記事は」と批判していました。
   私はAさんのブログはあまり見ていなかったので、そう指摘されたので見てみたら
   見ず知らずの人が批判したくなっても仕方ないほどヒドかったので
   このままにしておけば、Aさんはブログを読んだ方から賛同を得るどころか
   批判の対象になるだけだ・・・と判断し、リンクを切ったのです。
   当時、Aさんの他にもう一人同じ理由でリンクを切った方がいます)

あれから大変にご無沙汰しております。
以前は本当にお世話になりました。
パンドラはずっと読ませていただいております。

今日、心を強く動かされた記事がありまして、どうしてもメールしたくなりました。

夢で会えたら・・・の最新記事で、あれはWさんからのメールですよね。
Wさんとは何度かメールのやりとりがありまして、いろんな部分でかなり私と
似ているなぁと感じていたのが、今回また同じように感じると共に、
彼女の内観を通して私の問題についても、再び考えさせられるキッカケを
いただきました。

Wさんのブログは私から切ったのではなく
、Wさんがブログを辞めるというのでリンクを切ったんですけどね。

そして、私もifさんへ、感謝の気持ちをお伝えしたい!と思ったのです。

あの記事でWさんが書かれていたこの部分

>いまになって、わたしの人生ってなにかにつけ、
>「自分のなかの他人の目」に自分がどう映るかばかりを
>気にしてきた人生だったんだ、とようやく目が覚めたんです

これはまさに私にそっくりです。
文章全体も私のトーンに似ている気がしますし、まるで私が書いたかのように
私が思っていることとよく似ています。

同波長なのでメールのやり取りをしたのでしょうね。
所謂気が合う、ということです。
同波長同士だととても楽しいのです。


私も以前、ifさんにリンクしていただいてから、リンクを切られたのですが、
まさにあれは恩恵でした。
30をとっくに過ぎると、自分はもう立派な大人だと思ってましたし(苦笑)
自分の欠点をズバリ指摘されるようなことは超〜久々だったので、最初は
受け入れるのが本当に苦しかったのです。
そして恥ずかしくてたまらず、プライドは奈落の底だし、本当にもう
どうしよー!みたいにジタバタしてました。

が、その時期を越えて今、私は心からifさんに感謝しています。
私がどれだけ傲慢で、人からよく見られたくて、人の評価に依存していたか。
そして他者にアドバイスしながら相手の力を奪う行為をしてきたかに、直面
することができました。

AさんやWさんのように「他人から良く思われたい」人が多いですね。
それでもいいんですよ。
「悪く思われたい人」よりはマシだと思います。
ただし、無自覚ではいけない。
自分で「私は他人から良く思われたいのでこのような言動、行動をしているのだ」と自覚すれば良い。

と言っても、これが出来る人はこのような変な思考=他人から良く思われたい、という思考は持たない。
つまり、自分の問題点を分かった人は、そのレベルから抜け出せた人、ということなんです。
自分の何が問題かが分かった時点でそれはほぼ解決されたも同然なのです。
気付くことが大事。
そして難しい。
これが出来る人は殆どいません。
そのために相似象をここで紹介しているわけですが、
相似象を読めば分かるかといえば分からないのです。

さて。
他人から良く思われたい人がとても多い。
女性に多いかもしれない。
女性は自分で運命を切り開いて行くというよりは、
誰かに守られて行動したいという人が男性より多いのでは?
そういう歴史が長く、親世代は無意識にそう思っていて、そういう女になるように子育てします。
社会もそのようになっています。
なので生まれた時から「他人に好かれること」を無意識に頭の中にインプットしている。

それもいいかもしれない。

でも、私がPANDORAで何度も書いてるように

他人全員に
好かれることなど不可能


ってことです。
他人は皆意見が違う。
その全員に好かれることなど不可能なのです。
だから私はやらないだけです。
だって、不可能だから。
論理的でしょ?

他人から好かれようとか認められようとかいう気持ちが全く無いので、
他人の評価に一喜一憂しません。
褒められても嬉しくないし、貶されても堕ち込まない。
この両方の場合に、私はほぼ同じ感情です。
というか、感情が動かないのです。

たとえば私がPANDORAに「バカっ話」を書くのは「書きたいから」です。
書きながら自分で笑っています。
まぁ、これを読んだ方も笑ってくれるといいな、とは思ってます。
でも、自分が笑いたいから、というのが書く理由です。

また、PANDORAにくっだらない意見を書いてます。
これも他人から「if さんは利口だ!」と言われようとは思ってなくて、
やはり「(バカな意見でも)言いたいから」です。
利口しか意見を言ってはいけない・・・という決まりは無く、だから書きます。
というよりはもし「利口しか意見を述べてはいけない」という決まりがあろうと、
私はそのような決まりなど守らないので、やはり「書きたいから」書きます。

つまり私がPANDORAを運営するにあたり、
とっている心の姿勢は「他人に認められなくたっていい」というものです。
「やりたいからやる」それだけ。
得をしたいから、と言うのも無い。
損はしたくない、というのも無い。
何も考えて無いw
(※考えていることは「何を書くか」ということだけです。
  
 これを書くことによって、他人から好かれようとか嫌われようとか損とか得とか、
   は考えていない、という意味)




また、平気でリンクしたり切ったりしています。
これも「他人からどう思われようと構わないから」です。
別に感謝されたくないし、怨まれたくない、というか、怨まれても平気だからです。
当人の感情は当人のものであり、私の関知するところではありません。

また、私とリンク先の管理人さんとは対等であり、上下関係はありません。
別に私などに認められようと認められ無かろうと、
そのようなことは人生には何らの影響を与えないはずです。
もしリンクされないということを重大に考えているとしたら、その考え方が既におかしいのです。
他人からリンクされようがされなかろうが、自分は自分、何の影響も受けないはず。
もし、その人の心(感情)そうでないとしたらその意識が問題ですね。
ここを悟った方がいい。

これはifさんのような方と知り合ったからこそ、気づかせていただけたことです。

相変わらず私は、ふと気付けば人から認められようとした言動をしてるんです。
大分早く気づけるようになったのもifさんのおかげです。

意識化出来ても心の姿勢が「他人から認められたい」となっている人。
気付けただけでは解決しないんですね。
その心の癖を直した方がいい。
すぐには治りませんが不可能ではありません。
治そうと思わなければ可能性はゼロ。
でも、治そうと思えば可能性はゼロでは無い。

一度勇気を出して自分のソレを認めると、その後同じことを繰り返しても気づくのが
早くなるのかもしれません。

先日は、フラワーエッセンスのクラビィさんにカウンセリング&エッセンスの
処方をしていただいたのですが、まさにこの、私の「(自分の中の)他人の目を
気にする自分、本当は自立しておらず、強がっていたい、弱くて自信のない自分」
についてのカウンセリングをお願いしました。

これからエッセンスが届くのですが、とても楽しみです!

意志の力だけでは難しいのでBSWやフラワーエッセンスを使うのも良い方法です。
やれることは何でもやってみましょう。

私は、何かが理解できたり、悟った気がすると、その瞬間「傲慢」になります。
少し謙虚になれた次の瞬間に、鼻を高くして実は奈落の底・・・みたいな。
この悪を抱いて参ることを決して忘れてはならない、と常に言い聞かせなければ
なりません。

私は何か一つ悟ると嬉しくなります。
Aさんとは心の姿勢、思い癖が違うのでしょう。
どのようなコトに対しても感受性、波動量の違いが出ます。
だったら、自分が感受するもののレベルを一刻も早く上げる道を歩んだ方がいい。
自分のために。
そして自分のために波動量を上げることが周囲の人のためにもなるのです。

これに気づかせて下さったことに、心からお礼を伝えたいと思います。

Aさんは数年でここまで悟れて良かったですね。
荒療治が効いたようですw
Aさんの場合は気付けたので良かったが全員気付けるとは限らない。
気付くか気付かないかは本人の感受性と波動量にかかっている。

<アワ量は増えない>(2009年10月12日)


誤解している人がいるのでここに書きます。

アワ量は増えません

アワ量=潜在アワ量

です。

それは生まれつき持っているもので、増えません。

アワ量があるだけでは、ただ優しくおとなしい、受け身の人です。

増えるのは波動量。

潜在アワ量が経験によって、知恵になり、それが波動量化します。

<サヌキ人間だって何もしない>(2009年10月13日)


これも誤解している人がいるようなので書いておきます。
サヌキ人間は能動的活動的という傾向がある。
なので、何でもやるかと言うと違うのです。

低次のサヌキの人は
自分がやりたいことは率先して、他人を押しのけてでもやる

皆のためにやらなくてはならないこと、自己犠牲が必要なことはやらない
  その場合は、どのような手段を使ってでも逃れようとします。


たとえば、小学生のお子さんが居る方なら分かると思いますが、
PTAの役員や子供会の役員をどんな手を使ってでも逃れようとする人がいます。
以前、「子供が病気だから」という理由で子供会の役員を逃れた人がいました。
周囲の母親は重篤な病気、喘息、心臓病、脳腫瘍、小児癌などを想像していました。
実際は「風邪」だったのです。
それを知った周囲の母親達は驚いていました。
こういうことを平気でやるのが低次のサヌキ人間です。
   
また、このような母親に対して
◆低次のサヌキ母なら「怒って相手に文句を言う」「悪口を言いふらす」「意地悪」などします。
  感情は怒っている。
◆低次のアワ母なら、呆れても何も言わないか、愚痴めいたことを遠慮がちに他人に言います。
   これも怒っているが、怒り方がおとなしい。
◆アワ量の多い低次のサヌキ母(私など)なら、呆れるがそれは本人の問題である、と思う。
  そしてその人が他人の言葉を聞くようで、そのチャンスがあれば忠告してあげてもいいが、
  逃れようとするほどの人は他人の言うことなど聴かないし、理解も出来ないので放置します。
  腹は立たない、他人ごとだしw
  なのでこういう話を聞いた際の反応は「へえ。」だけです。

(※実際には、アワ量が多いう低次のサヌキ人間にもいろいろいるので、こういう反応だけではありません。
   低次のサヌキ人間に近い人もいれば、低次のアワに近い人もいる)



つまり、低次のサヌキ人間は「我良し」です。
アワ人間はたとえ低次元であろうと、我良しではありません。

低次のサヌキ人間は自分のためになることなら何でもするし、
低次のアワ人間は他人のためになることなら喜んでします。

ではアワ量の多い低次のサヌキ人間は?
「相手のためになることを考えます」
これはアワ人間と同じように思えますが、全く違う。


アワ人間は「〜〜してあげたい」気持ちが強く、相手がするべきことまでしてあげてしまう。
アワ量の多い低次のサヌキ人間は「相手のために、相手がするべきことをさせる」んです。

アワ人間が常に相手を甘やかしているのに対し、
アワ量の多い低次のサヌキ人間は「相手を向上させようとする」
つまり根本的に解決しようとするので鍛えます。

低次のサヌキ人間は「自分のことしか考えていません」。

<3つの分類と、さらにその中を細分>


と、説明しましたが、この三つのタイプがあるのではありません。
○×式では無い、という意味です。
おおまかに分けるとこの三つのタイプがありますよ、ということです。


実際にはそれぞれのタイプの中がピンからキリまであり、
サヌキ性の強い弱いがあり、レベルの高低があります。
感覚的に分かりますか?

サヌキ人間を赤とします。
レベルの高低を黒(低い)〜白(高い)とします。
するとサヌキ人間は
黒(低次のサヌキ人間=獣次元)〜赤黒い〜赤灰色〜赤と白が混じってピンク〜白(高次のサヌキ人間=聖人)
と、表すことが出来る。
(※サヌキ性の強さを赤い色の濃さ、とすることもできる)
(※持っている潜在アワ量を「量」で表すことが出来る)
(※なので、サヌキ性の強さとレベル、アワ量の違いによって、ひとは千差万別になります。
   同じ人は滅多にいません)


アワ人間を青とします。
レベルの高低を黒(低い)〜白(高い)とします。
するとアワ人間は
黒(低次のアワ人間=獣次元)〜青黒い〜青灰色〜青と白が混じって水色〜白(高次のアワ人間=聖人)
と、表すことができる。
(※上のサヌキと同様に、アワ人間もレベルとタイプと潜在アワ量の違いによって、様々な様相を呈します。
   同じのはあまりいない。
   殆どの人が他人と違う、ということです)


アワ量の多い低次元のサヌキ人間を紫で表す。
すると
黒(低次元のアワ量の多いサヌキ人間=獣次元)〜黒紫〜灰紫〜ラベンダー色〜
白(高次元のアワ量の多いサヌキ人間=聖人)
ただし、上の例で言うと聖人はあり得ませんね。
だって、「アワ量の多い
低次のサヌキ人間」なんだから。
もし、聖人級なら低次元では無いので、白(高次元のアワ量の多いサヌキ人間=聖人)はあり得ない。



人間は大きく三つに分けられるが、その一つ一つが細かく分かれる、と言えます。



「私は何もしないのでアワ人間だと思います」という方が多い。
今までの私の説明がまずかったせいですね、済みません。
最後まで読まないと途中では分かりません、ご注意。

<サヌキとアワ、或る程度直感で分かる>(2009年10月13日)


これは相似象には書いて無いので絶対ではありませんが、
私の経験から言うと低次元の人間に限っていえば
◆アワ人間=暖かい(人間味有り)
◆サヌキ人間=冷たい(人間味無し)

と、感じます。

高次元の人間は皆、暖かく感じます。
これは大きなアワ量のせいです。

同じく
◆アワ量の多い低次のサヌキ人間=暖かい
のは、アワ量が多いせいです。


暖かいのか冷たいのか分からない、というさらなる低次元もいます。
潜在アワ量が乏しく、波動量化されていない人です。
何も分かってない人。

反対に一見して暖かい人もいます。
アワ量が豊富な人で波動量化されていて、周囲を明るく出来る人です。
暖かさを周囲に放射している人です。

<低次元>(2009年11月14日)


低次元、思考力殆ど無し、の実例を発見したので記事にします。

パソコンをちょっと見ただけなのにお礼を要求されて困ってます

質問者Xさん

パソコンをちょっと見ただけなのにお礼を要求されて困ってます

パソコンをちょっと見ただけなのにお礼を要求されて困ってます。

パソコンの調子が悪くなったので、会社の同僚に見てもらいました
30分くらいで調子が戻ったのですが、その間最悪でした。
何もしていないのに調子が悪くなったのに、絶対何かしただろうと嫌味のように言い続けて地獄でした。
パソコンだって電気製品なのですから冷蔵庫やテレビのように調子が悪くなると思うのに
次の日、会社でお礼として食事を奢るように言われてまた腹が立ちました。
奢りというものは奢るほうから言うべきです
これはたかりに近いのではないでしょうか。
上司も同僚に注意しましたが、それなら交通費ぐらいよこせとしつこいです。
知り合いの家に遊びに来るのに交通費を払う人がいるでしょうか。
これ以上、会社に個人間の問題を持ち込みたくありません。
どうにか穏便に断る方法はないでしょうか。

補足
お金は絶対に払いたくありません。この先たかられ続ける可能性が高いからです。
上司は最初に詐欺のようなことをするなと注意してますし、私も詐欺だと思います。
(何か修理して部品とか減ったならわかりますが、同僚はずっとパソコンを見てただけです)


ベストアンサーに選ばれた回答

回答者Yさん

お礼を払うべきという意見が多いようですが、払わなくても結構です。
何故ならパソコンを趣味にしている人はお金がかかるので、
少しでも生活を楽にするためにたかろうとするからです。
私の同僚も上司に同じような事をしていましたが、上司が
「個人の趣味にかかった費用を払う義務はない」ときっぱり断っています。
上司ではなく同僚なのでこいつなら金を巻き上げることができると思われているのではないでしょうか。
前例を作ると、他の同僚も被害にあう可能性が高いので絶対に払ってはいけません。
これ以上会社に問題を持ち込みたくないという気持ちはわかりますが、被害者が増えたり
もしくは既に泣き寝入りしている可能性もあります。上司や他の同僚に相談してみてはいかがでしょうか。

また、パソコンを見てもらったことに対する礼はないのか、と意見もありますが、
パソコンが趣味な人は一日中パソコンを眺めていても飽きないと言います
ですから、その人が好きでやっているのにお金を払うなど必要のない行為です。
仕事でやっているならともかく、趣味にお金を払うなどありえません。
お菓子作りが趣味の人が周りに食べさせたお菓子の代金を請求するでしょうか?

穏便に断るというのは、おそらく無理でしょう。
先ほど述べましたとおり、他に被害者がいる可能性があります。
社内で問題を起こしたくない、というあなたの気持ちはわかりますが、
あまりそう言ってられない状況かもしれません。

個人的に思うのですが、できない人がいるから知識は役に立つのに
どうしてもったいぶるような事をしたがるのでしょうか。
できない人はできないんですから出来る人がやればいいと思います



質問者Xさん

ありがとうございます
いじわるな意見が多かったのですが、パソコンにお金がかかるから払わせようとしてたんですね。
私は自分のことばかり考えて、他に被害者がいるかもしれないことを忘れてました。
やっぱりただの趣味にお礼をするのはおかしいですよね。



質問者がが「意地悪」だとした方達の回答

>何もしていないのに調子が悪くなった
との事ですが、何もしていない=使っていないPCの調子が悪くなることは
有り得ません。
あなたに自覚が無いだけであなたの操作が調子が悪くなった原因である
可能性は非常に高いです。
普通にインターネットでいろんなサイトを見て回るだけでもウィルス感染の
可能性は否定し切れませんし、何か新しいソフトをインストールしただけでも
既存のソフトとの競合や相性によってPCの挙動が怪しくなるなんてのも
よく聞く話です。

>同僚はずっとパソコンを見てただけです
あなたにはそう見えたかもしれませんが、結果としてPCが復調したのなら
同僚の方はたった30分ほどの間に、状況の把握→原因の追究と切り分け
→対策の立案→対策実施をされたのです。

他の回答者の方もおっしゃっていますが、自分にできないことを他人に
やってもらったなら対価が発生するのは当たり前の常識です。
同僚の方をたかり扱いしているようですが、自分で治せないPCの不調を
直してもらったのにお礼をしないということは、あなたが同僚にPCに関する
知識をたかっているのと変わりないのだということをまず自覚してください。
PCに限らず知識や技術といった目に見えないものはタダで提供されて
当たり前なんて考え方は到底許容されるものではありません。

今回、何らかの方法でお礼をすることなく(表面上は)穏便に断れたとしても、
同僚の方のあなたに対する評価は"なにかしてもらってもお礼もできない
非常識な人"となる事は避けられないでしょう。



会社のパソコンではなく、個人宅のパソコンを見てくれたんですよね?
他の回答者さんでもあるとおりだと感じます。
質問者さんや上司が詐欺だ!と感じるくらいなので、
向こうは遊びに来たついで、好意で見てくれたのかもしれませんが、
その場で感謝の意を表しておけば、向こうもそんなにしつこく、お礼を要求はしなかったと思います。
もし、わざわざ、見に来てくれたのなら、交通費+お菓子くらいはだしたほうが懸命でした。
ご質問者さんの考え方に矛盾点はありませんかね。もう一度この文面を見直してください
電気製品だから他の家電と同じように調子が悪くなると考えてるのに、見てもらうなら、一般人に頼む。
他の家電だったら、電気屋さんとかに頼みますよね?なら、なんでパソコン屋さん?に頼まないのでしょうか?
見えないもの(この場合はソフトに不具合があるかどうかを同僚が見てくれた行為)に
お金(対価)を払うという気持ちが欠如していませんか?
時代錯誤です。
あと、上司もその話をしっているというのはなんででしょうか?
社に個人間の問題を持ちこんでいるのは、質問者さんのほうでは?



貴方の同僚は、貴方の要請に応じて、ワザワザ交通費を使って貴方の家に行き、
自分の得にもならない労働(この場合PCサポート)をさせられたのですか。

パソコンの調子が悪くなったのを元に戻すスキルを、貴方は持ち合わせていなかったのでしょう?
そのスキルを同僚はどうやって手に入れたのでしょう?
言うまでもなく努力と時間を費やして、です
貴方に便利に使われるために努力してスキルを身につけた訳ではないのですよ?

自分にないスキルを発揮して貰い、自分の生活をよくして貰う時は対価が発生するのは理解できますか?
世の中色んな専門家がいますし、その人達に仕事を頼めば当然お金を取られます。
何故パソコンのサポートのみ例外だと思うのですか?

上司も酷いことを言っていますね。詐欺ですか。
私にはあなた達の為さり様の方が詐欺に見えます。



白物家電が部品の経年劣化で調子が狂うのとパソコンの不調はわけが違います。
30分位で直ったということは、部品の故障ではなくシステム的な問題が生じていたのでしょう。
システム的に問題が生じるときは、絶対に"なにかしてる"んです
原因がシステムの潜在的なバグでなければ、これはほぼ間違いない。
同僚のPCスキルを信用して頼んだのでしょうから、一方的に「自分は何もしてない」と決め付けずに
何をした後に調子が悪くなったかもう一度思い出してみてください。
まず、あなたはPCの知識をタダだと思ってますね。大間違いです
そこら辺のPCショップに持ち込んだら技術料で数千円は軽く取られます。
同僚だから昼飯を1000円ちょい位で済みそうなものを、
あなたは強情に断って、職場で人間関係がこじれかかっているのです。
むしろ自分から昼飯を奢るくらいすれば、またPCがおかしくなった時に同僚も快く引き受けてくれそうなものを。
PCの有識者の視線であなたの質問内容を見てると、あなたが強情すぎるように思えます。
助けてもらってるんだから、腹を立てる前に思うことがあるはずです。
飯も奢りたくない、ビタ一文払わない!挙句の果てに詐欺だ!では同僚が不憫すぎます。
謝礼を要求するのはおかしいと思うあなたの気持ちもわかりますが
相手の非よりもまず自分の非に目線を移すべきです。
これは何にでも言えますね。

結論は、両方強情な態度になると、片方が折れない限り穏便に断るのは無理です。
ここは頼んだ側のあなたが折れて、素直に昼飯でもおごっておいたほうがいいです。
次から頼まなければいいだけなのだから。

少しキツい口調で長文すぎました。



交通費とお礼のお菓子くらいを渡してしまったほうが気楽だと思います。
私も以前同僚に来てもらいました。お弁当とお菓子を渡しました。
要求されたわけではないですが、それくらいは礼儀だと思いましたので・・・・。
会社に個人間の問題を先に持ち込んだのはあなただと思います。(個人のPC修理を依頼した)
そういう相手なのだと思って上記のようにしてはどうでしょうか。




低次元の人間は思考力が殆どありませんから、なんでも自分中心に考えます。
この質問者は「意地悪」な意見を言う人の回答を理解出来ないようです。
マットウな意見を遠ざけ、自分を甘やかしてくれる意見を尊重する。
質問者が「意地悪な意見」と書いたことで、真剣に回答してくれた方々はさぞかしガッカリしたことでしょう。
ここでも質問者は「相手の真心を踏みにじる「」という罪も犯しています。
こういう人を「箸にも棒にもかからない」と言います。

低次元の人間は自ら悟ること無く、他人の助言も理解しません。
すると運命は何事かを分からせる方向に動きますから、今ここで何かを理解しないと
次はさらに「一段下のヂゴク」に行くことでしょう。

現場を見ていないので、質問者の一方的な状況説明から判断するしかないので
事実と違うかもしれませんが、PC直した同僚がマットウな場合は、質問者が思考力が無く
PCを直したわけではない、ただ見ていただけだ、という非常識な態度を見て、ヘソを曲げたのではないか。
だから敢えて「お礼をしろ」と言ったのだと思います。
言われる前にお礼をするか、しなくてもよいから感謝の言葉をかけておけば済んだことです。
あくまでもPC直した同僚がマットウだ、という前提ですが。
PC直した同僚が敢えて「お礼をしろ」と言ったのは「自分はPCを見ていただけでは無く、
ちゃんと仕事をしていたのだ。貴重な時間を割いて遠いところからあなたの家まで来てあげたのだよ」と
言うことをこの質問者に教えたかったのでしょう。

もうひとつは、この同僚がマットウでは無い場合。
その場合でも家に来てくれた時に「来てくれたこと」に対してお礼をするべきでしたね。
それさえしていれば後で拗れることはありません。
全ては質問者の判断力が足りないために、拗らせたことです。
それなのに質問者は自分には非が無いと思っているようです。



この質問者Xさんのような人を
夜郎自大(やろうじだい)と言います。
http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/koji/kj052.html
ことばのレシピ語楽   http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/koji/kojimn.html

こういう人はさらにヒドい目に遭って何かを悟るか、もっとヒドい目に遭っても何も悟らず
さらにヒドい目に遭うか・・・・・・・・これを繰り返して行けば最後にはどのような境遇になるか
想像がつくと思いますが、職場には一人くらい必ずこのような人がいるもんですね。


Yさんは「他人の悟りを邪魔する人」です。

<女の思考回路地に堕ちたか>(2009年11月24日)


Yさんから。


世間を見渡しても、ニュースを見ても、なんて言うか、
女性が本性や本音を出してきたと強く感じます。

結婚詐欺とか権力をカサに着るとか。。
(以前は男性がすることでした)

ああ、我慢せず、欲望をストレートに出せば、女ってこうだよな…と思います。

先日ファミレスで子供が粗相をし、
「ママは悪くないのに、あなたの為にあやまらなくちゃならない!やだやだ!」
と、広い店内に響きわたる声で、
10分ほど検討ちがいな説教を続けてる母親がいました。
(母親たる発言ではない)

女の行動の根底にあるのは「お金の有無」だったりします。。
贅沢できれば手段は問わないとか、
夫の収入が減って財布と心に余裕が無いとか。。

つまりは「姫」でいたい。
「姫」でいられない境遇なんて、許せない。
ここから、どんな態度や行動をとるかは人それぞれですが。

婦人団体が「男尊女卑はイケマセン!」と長らく戦ってきたけれど、
「尊」たる男たちは所詮金づるではなかったかと、
あらためて思いました。

金がなければ愛も枯れる。
以上あくまで乱暴な一般論です。



Yさんはいい勘していると思いますよ。
Yさんが目撃したのは低次のサヌキ女です。
低次のサヌキ女なら当然の言動、行動です。

今から20年近く前にウチの主人が何かの会合に参加した。
そこに出席していた女どもの言動を聞いてすっかり嫌になったそうです。
思うに低次のサヌキ女が言いたい放題言っていたのではないか。
後で文章になったものを読んだら私まで心がウソ寒くなる思いでした。

ウチの長女が小学校6年生の頃、学校の体育の授業で赤白帽子を
自分のブルマに挟み、相手の帽子を取った方が勝ち、というゲームをしたそうです。
すると女子は自分の帽子を「帽子を自分のブルマに押し込み、取られないようにしている」のが多かった、と
言ってました。
それを見て長女は
(女ってズルいな)と思ったそうです。
我が家の女は私を筆頭にそのような卑怯至極な真似はしないので、
他の女子の行動にガッカリしたようです。
女子は小学校6年生になれば、母親とイコールになります。
母親がそうなら娘もそうなるんです。
そしてそういうコトは傍から見たら卑怯ですが、当人達にはそれが「普通」なのでまさか自分達が
「悪い」ことをしている自覚がありません。
これが恐いんです。

それに比べたら男子の方がバカバカしいが、単純で良い。

女子を思いやりのある普通の人間に育てるには、まず母親が普通の人間でなくてはならない。
でも敗戦によって
(ンナこと言っちゃあいられねえよ!)とばかり、一気に低波動化が促進したようです。
それから60数年・・・とうとう今のような有様になってしまいました。
一度低次元化したら、それを正常化させるのは殆ど不可能なくらい難しいそうです(相似象)。
60数年経っているのですから、このような有様であることは当然ですね。

私の元同僚が口を揃えて言うことにゃ
「男子が悪くなってもまだ改心の見込みがある。でも、女子が悪くなるとどうしようもない」そうです。
同感です。

女子の、男子に比べて豊富なアワ量が波動量化せず、低次元なままだとしたら
いっそアワの乏しい男子の方がまだマシです。
<娘の心作りは母親がやること>(2009年11月26日)


上の記事を読んだTさんから。

こんばんは、Tです。
「人間のはなし→相似象とは→女の思考回路地に墜ちたか」の記事、
母親が母親たり得なくなったのはもっと前から少しずつですね、私も新聞屋やってたときに
「うちの娘は雑巾もまともに洗えないのよ、やだわあ」っておばさんがいて
「いやそこアンタが仕込むとこー!!」と思ったことがあります。
なんでか学校で教えるもんだと思ってるんですな、あと子供は勝手に育つもので、
自分も一人で育って自然に今のようになったと思ってるくさい、という。

そんで最近の「姫」って言い方のイメージは、子供の妄想に近い気がします。
本当のお姫さまじゃないなー、と思います。

カッコイイ女性(男性も)は
有川浩氏の小説に最近よく見ます(嫌な人もちゃんと出ますけども)。
彼女はデビューした頃に当時の担当さんに「あんたの小説は読者に嫌われる」って
言ったらしいんですが、彼女の作品は読者大賞をとってほぼ全部がベストセラーなので、
まだまだ日本も捨てたもんじゃないと思っています(笑)



その編集者は小説は夢を描くから売れるとか、心地良いのが売れるとか思っているんでんしょうね。
でも、読者は「現実をバッサリ書いてあるモノ」を読むことが心地良いのでしょう。
編集者さんは遅れてますね。
どんどん読者に先を行かれてしまっている。
でもデビューさせたのだからいい勘していたと言えますが。
(他の社に持ち込んだこともあったのかな?だとしたら断った社は大損しましたねw)

マンガ雑誌の編集者も似たようなものですよ。
私の友人から聞いているけど、彼らへの対応が一番大変らしい。
彼らは物事、話が「分からない」んだそうで。
それでも勤まるんだなぁ。
マンガ一本売れれば社屋が建つので、その体験が尾を引くとかね・・・いろいろ。
あ、これは「仕事あれこれ」に記事にした方が良かったですね。

<レイキと波動量>(2009年12月18日)


臼井霊気(レイキ)というものがあって、創始者の臼井氏が直観(霊感)によって開発したもののようです。
臼井氏は高い波動の持ち主だったのでしょう。
彼は自分の霊気を学ぶ人の中から、波動量の多い人を選んで(この人なら)と、霊気を伝授しました。
なので、直伝の人は少ないはずです。
高波動の人には「誰にでも霊気を伝授することの危険」が分かっていた。

ところが、臼井氏が亡くなると、アメリカへ渡った霊気がレイキになり、アメリカ流に変化した。
アメリカ人に「或る程度の波動量を獲得した人だけに伝授する」という思考方法が無かったのではないかな。
人間は皆、平等にチャンスを与えられるべきだ、と理屈をつければ何にでもつく。
なので霊気はレイキに変質してしまいました。

臼井氏直伝の弟子は霊気ヒーラーをやたら増やすことはしません。
(もし、師が的確に弟子を見抜いていたら、の話)
ところがアメリカへ渡って変質したレイキは、金を出して一定の修行をすれば「誰でも伝授される」もの。
アメリカのスピリチュアル・ビジネスになった。
(レイキをモデルにした、その後のアメリカのこのようなビジネスは大変多いです。
 日本人はアメリカが精神世界の先進国だと思っているのか、白人から言われたら信じるのか分からないが
 このようなビジネスが大流行していて、花盛りです。
 私はこれらには全く興味が無く、こういうのを見るたびに、ビジネスだな、と思うだけですが)


なので、最初に臼井氏が霊気に耐えられるほどの波動量を持った相手だけに伝授していた場合と違って
どんどんレイキに耐えられない人にも伝授するようになってしまったようです。
勿論中にはマットウな人がいますから、全員ではありませんよ。
また、レイキをマスターしたい、と言う人は「人のために役に立ちたい」という真心で始めるのだと思います。

ところが、真心があっても波動量が無いのです。
ここが問題。
判断力が乏しいと異常なことを平気でやるようになりますが、本人にはその自覚がありません。
自分ではそれを「良い」と思ってやっているのです。
そして自分が思っているのとは違う世界と通じるようになる。
そう、幽界です。
明らかに幽界人と化しているレイキ・ヒーラーを何人も知っています。
こういう人はやってはいけなかった人ですが、もう遅い。
こうなると他人の話は聞かないし、聞いても理解出来ません。
自分はレイキ・ヒーラーであるという妙な自負心がある。
マットウなレイキ・ヒーラーなら妙な自負心は生じませんが、そのような境地を知らないので
「これが普通」だと思っているか、それすらも思っていません。

実にまずい状況ですね。

という状況が何故まずのか、「My Soul WIZ You」のオレさまが解説しています。

2009年12月17日の記事「迷いを越えて」をご覧ください。

<どんどん波長が合わなくなります>(2010年1月4日)


今、精神世界に「波動」「波長」という言葉が溢れていますが、物理の用語を精神に使ったのは
カタカムナの発見者、楢崎博士が最初だと思いますよ。
確認は取っていませんが戦後から使い始めたからです。
他の人は楢崎博士の情報か、その情報を誰かが引用したモノを使い始めたのではないかと思っています。

さて。

PANDORAの記事、特に「人間の話」を見ていたら数年経つうちに波動が上がった人が多い。
他の記事にも波動が上がるヒントを載せていますが、特に「人間の話」がダイレクトに上がるらしいです。
私が書いているのは普通の主婦である、私が分かっていること、です。
特別なことは何もありませんが、それでも若い人には役に立つようです。

波動が上がると、それまで同波長だった人とは異波長になるので、縁が切れることがあります。
この点については足立幸子さんや日本一の金持ちの斉藤一人氏が本に書いています。
「今までの縁が切れたら喜びなさい」と、いうようなことです。

ここに一つの例を挙げてみますね。

閲覧者の方からのメールです。


パンドラはずっと見ていて、今回のコメント

「最初から今日(こんにち)までずっとPANDORAを閲覧出来たというこ とは凄い。
多くの人が波動が合わなくなって去って行ったからです。」
(これは2009年12月31日に「お知らせ」に載せた文章です)
を見て、改めて、自分の成長について考えました。
眺めているだけで、何か初めても続いてないな〜〜〜と、ちょっと反省しつ つ・・・(汗

パンドラを見始めてから現在まで、かなり変化している事。


最大の変化は、10年近く大親友だった友達とサヨナラした事です。これは昨年 末。
「合わなく」なってしまったんです。
それまでツーカーの仲で、状況は多少違っても同じような時に同じような悩み を持ち
「私たち、何だか同じペースで試練が来て、クリアしていってるね」
なんて言い合っていた、そんな仲でした。
それが、昨年辺りから、ちょっとずつですがズレてきてました。
考え方もズレてきました。変だと思った事を指摘したら逆切れされました(笑)
一緒に成長する仲良しさんはもう居ないけれども、一人でも、もう充分大丈夫!


友達の事以外にも沢山の出来事があったんですが、どれにも共通しているのは
「最終的に手放した」という事実です。
必要なくなったモノ・人がたくさんあります。
同時に、新しく出会ったモノ・人・状況も沢山あります。
以前手放したものが、良いものになって戻ってきたりもしました。


今までの世界がどんどん変わっていっています。
これは、私も変わったからでしょうね。

この方と同じ報告をしてくれる方が大変多いのです。
今まで同波長で親しくしていた人と疎遠になったり、縁が切れるのはつらいが
今度は波長が上がった自分と同波長の人との出会いが待っているので
そちらに焦点を合わせ楽しみにして生きましょう。

<潜象勘>(2010年2月2日)


絵におみくじをつけています。
そのおみくじの言葉が受け取った方にドンピシャで合ってる場合が多いので驚かれます。
私も驚いてます。
その中の一人の方から
「ifさんはおみくじを潜象勘で選んでいるんですか?」と訊かれました。
全然違います。

潜象勘とは「目には見えない、相手の事情、状況、感情、思っていること」や
「目には見えない社会のこと、当たり前のこと」などが分かることです。
つまり本人はしっかりハッキリと「分かっている」のです。

おみくじにどんな言葉が書かれているのか、選んでいる私には全く分からないので
これは潜在意識の為せる技ですね。
なので、潜象勘とは違います。

◆潜象勘=分かっている
◆潜在意識=分かってない

<整序の方法1>(2010年2月10日)


「整序する」とは「考えを整理すること」です。
だから「整理」でも良いんだけど、それだと箪笥の引き出しの中を整理する、みたいな
物質の整理整頓を連想してしまうので、相似象の師匠(か、創始者)が整序という言葉を作ったのでしょうか。
言葉通り、整理して序列をつけることです。

よく「頭の中を整理しなさい」と言う言葉を聴いたり読んだりしますが、
では「どうやったら整理できるのか」ということをあまり教えないのではないでしょうか。

具体的な方法を教えろと言われても、ケースによってその都度ケースに合わせて
整序するのが普通なので、整序の方法はコレですと、一口には教えられない。
なのでタイトルは<整序の方法>としましたが、<整序出来てない事例>を挙げていくことにします。

Kさんから参考になるメールが来たので紹介します。


こんにちは。以前にメールをさせて頂きましたKと申します。
 いつもパンドラ拝見しています。
 (中略)
 随分話はずれるんですが、この判断力の低さというのはありとあらゆるところ
 に現れてまいりまして。私は接客業をしておりますがお客さんの言いたいことを
 上手く汲み取れず内容のズレた返答をしたり、同僚に何かを上手く説明する 
 ことができなかったりします。
 これは多分相手のことをちゃんと考えずに自分の伝えたいこと、思っていること
 だけを相手に分からせようとする結果なのかもしれません。
 パンドラを読んでいて考える判断力の私なりの解釈は自分が本当はなにを
 思っていて、自分が行ったことが自分に、周囲にどう影響するかを見越せる
 力のことだと思っているのですが、どうしてなかなか・・・です。
 
 なにが言いたかったのか自分でもさっぱり分からなくなって参りましたが・・・。
 (中略)
本当になに言ってんだかな文章になりましたがお付き合い頂き
 ありがとうございました。


Kさんの場合は心の中に言いたいことが沢山あって、それが思いつくまま
思い出されるままに出て来ています。
女性の場合、こういう語り方の人は大変多い。
一つ一つ論理を組み立てる、積み上げる、という(脳内)作業が出来ない。
これは女性としては普通のことなので、Kさんめげないでくださいね。
というかKさんはかなりマシな方です。
自分で「何を言いたいのか分からない」という自覚があるだけ、かなり良いのです。

とは言ってもKさんも接客業をやりながら、お客さんへ上手く説明できなかったり
お客さんの言葉が理解出来なかったりしているのは問題ですね。


@相手の言うことを聞いて理解し
Aそれに対して自分で良く考えて返答する


これも整序の方法です。

まず相手の言い分を理解しなくてはなりません。
そのためには良く聞き、分からない部分は質問するとかしてみましょう。

女性の中には「他人と上手くやる」やり方を、生まれてから毎日一日も欠かさず
周囲から学んだり、自分で適応したりして「他人の話を聞いてないのに返事をする」姿勢が
身についてしまった人がいます。
優しい人ですが、もしそれを職場でやったら困ったことになります。
ろくに相手の話を聞かず、それを自分で意識化せず、聞いてないのに聞いたような気になり
仕事をしたら他の社員は困るのです。

ところが、こういう人には「自分が間違っている」自覚がありません。
自分では生まれた時からそのように育てられて来て、一見平和主義者で他人受けが良いので
「他人の話を真剣に聞かない」という自覚が無いし、勿論まずいとも思ってない。

幸いなことにKさんは今、自分はまずい、という意識が生まれた。
なので解決の方向へ向かっています。
身体にしみこんだ癖(
ミの次元になってしまっている)なので、改善するのは大変苦しいと思いますが
到達度はともかく方向性だけでも決めたことは大きいと思いますよ。

<イマイマにキを入れる>(2010年2月23日)


「今今に気を入れる」という意味です。
当たり前過ぎて何のことか分からない方のために説明します。

何かをする時「考えなさい」という意味です。
「対象を良く見て」
「考える」
という意味。



実例を挙げると

冷蔵庫に食べ物が入った高さが低い器を入れるとする。
その時、何も考えない人は、中央扉の一番下、瓶類や牛乳パックなどの
背が高い品物が置いてある場所に平気で入れます。

これも、「冷蔵庫に入れる」という点では間違いない。

でも、ここに高さが低い器を入れたら、その上に空間が空く。
それって勿体無いのです。
高さが低い器はその上の段、高さが低いモノ専用の棚に入れた方が良い。


ということを「考えつつ」「仕事する」ことが望まれます。


主婦暦が長い人はそれを経験により難なくやれますが、
全員がやれるかといえばそうではありません。
主婦の能力にはピンからキリまであります。



洗濯物を干すのに使った洗濯ばさみを置く位置も、
使い易い位置と、後で面倒になる位置とがあります。
何も考えないで使っている主婦がたまに居て、
それがウチの旦那と同じやり方なのです。
(同波長同レベルの人は同じコトをします)
主婦なんだから、男と同じではいけないのですが、平気でそれをやり
その際何も考えていません。
無意識無自覚で仕事をしているのです。
(この人の子供は様々な問題を起こしていました)

そういうのを見て私は(あ〜〜〜あ)と、思います。
言ってあげようかな。
辞めようかな。
選択に一瞬迷います。
(大抵は、他人のことだし説明が面倒なので言いません)



イマイマにキを入れることは、当たり前のことなのですが、
これが出来てない人が多いし、私だって全ての場合にキを入れられるかというと
そうではありません。
難しいです。

<潜象勘が乏しいことによって起こる事故>(2010年3月4日)


子ども用ブーツで飾りひもが絡まり転倒するおそれ 
国民生活センターが注意呼びかけ

3月4日1時32分配信 フジテレビ

子ども用のブーツで、ひもについた飾りが絡まって転倒するおそれがあるとして、国民生活センターは注意を呼びかけている。
公開された再現映像では、歩いているうちに、ブーツのひもについた飾りがはねて、絡まり合ってしまうのがわかる。
2009年11月には、小学生の女の子が転倒し、ひざなどを打撲する事故が起きていて、
遊具や自転車などに飾りひもが挟まって、思わぬ事故につながるおそれもあることから、
国民生活センターは、事業者に安全性に配慮した商品開発を要望するとともに、消費者に注意を呼びかけている。

最終更新:3月4日1時32分



子供用ブーツ。女児用だと思うのですが、紐の先に大きめの毛糸で作ったような球体のものがついてます。
歩くとそれは揺れたり跳ね上がったりして可愛い。

しかしモノの分かった親ならこのようなブーツを我が子に履かせることはしません。
上の記事のようなことが「ブーツを見た瞬間に『分かる』から」です。
そんな当たり前のことすら分からない親が、子供に履かせます。

それ以前にメーカーが気づけば良いがメーカーは「売って儲けたい」ので気づきません。
或いは気づいていても、事故があったら親の責任と思っているか、
事故はあっても少ないと考えているか。
事故は少ないのは事実だと思いますが、想定は出来ますよね?
でも、「万が一」のことを想定していたら何も出来なくなるのと、自分にとって不都合な真実には気づかない
ようにしているのが多くの人間です。
だから製造して販売する。



車に子供を入れたまま夫婦でパチンコに熱中する親も潜象勘が無いし
世の中の事故は起こる前に良く考えれば防げるものが多い。
でも、事故を起こす人はそれに「気づかない」のです。
見ても「見えない」。
潜象勘が無い(乏しい)からです。

<潜象勘とは>(2010年3月9日)


潜象勘とは説明が難しいけど、一言で言うと「当たり前のことが分かる能力」です。

たとえば・・・

◆家の中がきれいになっている=誰かが掃除をしたから

とか、です。
家って掃除をしていなければ汚くなりますよね?
それがきれいなんだから、誰かが掃除をしてくれたのです。

◆掃除をしたのは多分お母さん(主婦)だろう。

お父さんは会社へ出かけています、この家の場合。
お母さんは専業主婦なので家に居る。
だから家がきれいなのは多分、いや90%はお母さんが掃除をしたからだ、と予想できるのです。
これが潜象勘。
(ただし100%ではありません。予想外の答えもあるのでね。だからこの場合「絶対お母さんだ」と
 決め付けるのはおかしいのです。あくまでも予想するだけ)

<潜象勘>(2010年4月13日)


潜象勘とは当たり前のことなので、説明するのが難しい。
表面には見えてないが、厳然として「有るもの」です。

具体的に言うとこういうコトです。
或るコトに隠された理由が分かること。

ところがこれは或る人には分かり、或る人には分かりません。
分からない場合、「自分には隠された事情は分からない」と分かれば良いのですが、
分からないのに「分かってしまう」ことが問題です。
この場合は、その人には潜象勘は無いのに、自分なりに「分かって」しまう。
つまり「誤解」「邪推」する。
でも当人にはそれを誤解である、邪推である、ということは分かりません。

誤解していることは潜象勘ではありません。
潜象勘とは厳然として「有るもの」ですから、誤解している場合は「無い」ので
潜象勘とは言いません。

誤解や邪推の類(たぐい)を潜象勘とは言いません。

<潜象勘2>(2010年4月14日)


潜象勘とは、何も難しいものではなく「当たり前」のことです。

たとえば雨の日にズブ濡れの人がいる。
それは傘をささなかったから、だと推理できますね?
傘を差していたのに、ズブ濡れの場合は、
雨が横殴りの雨だったので横から濡れてしまった、と推理できます。

あとはその場の空気を読む、とか。
これは普通の人なら普通に出来ますね。
でもクラスに一人くらい、これが全く無い生徒がいるものですw
職場にも一人くらいいますね。
そういう人は人並みの潜象勘が無い、と言っていいでしょう。

このように、当たり前のことを分かる能力が潜象勘、と言います。

<潜象勘3>


ところが、です。
上の例のように分かり易いものなら殆どの人に分かる。
でも、ちょっと難しい場合もあります。


私などは50歳を過ぎていますから、
それまで生きて来た時間が長いので、大抵のことは予想がつきます。

◆たとえばテレビのドラマで次に言う台詞が分かる、など。
  これも長年の経験からです。
  日本に生まれてずっと日本で暮らし、テレビを見続けて来てたまにはドラマも見た。
  意表を突く台詞もあるでしょうが、90%は予想がつくような台詞が出て来るものです。
  これは超能力ではなくて、通常能力なのですが。

◆PANDORAのお客さんが体験しているものは、私自身が体験したか、
  私の直接の知り合いが体験したか、私が今まで読んだり見たりしたものの中に
  似たようなものがあります。
  なので、そういう場合も予想がつくのです。
 
◆その上に知識や情報を得た上でないと判断できないことがあります。

潜象勘にも様々なレベルがあるのです。

<整序の方法>(2010年4月16日)


思いつくまま書いています。
整序の方法はこれだけではありません。
いろいろな方法がありますよ。
その一つを紹介しますね。

これは相似象には書いていません。
私の方法です。

この文に限らず、ここに書いてあることは私個人のサトリなので
本には書いてありません。
あくまでも私個人の意見です。
<理由を探す>


或ることをする。
その理由は自分なりに分かっている。
でも、それってあくまでも「自分なりに」ですよね?
その行動の裏に隠された理由があることを通常は意識しません。
その隠された理由を探すのも整序の一つの方法です。
<実際には>


一人でやれば良いのですが、思考力が乏しい人を相手にした場合
もう片方の人がどんどん理由を訊いて行く、というのも方法の一つです。

私「Aさん、何故それをしたの?」
A「それは〜〜だからです」
私「では何故〜〜なの?」
A「それは〜〜だからです」
私「では何故〜〜なの?」
A「それは・・・・・・・・〜〜だからです」


と、こんな感じに、どんどん核心に近づいて行く。

実際はこんな感じ。

私「Aさん、あなたは何故、他人のためにそこまでして動くんですか?」
A「・・・・・・・・・・・・」
私「相手の役に立ちたいんですね?」
A「はい」
私「では何故相手の役に立ちたいんですか?」
A「・・・・・・・・・・・」
私「相手に好かれたいんですか?」
A「違います」
私「私もそう思います。あなたは相手に好かれたいと思ってやっていません。
   ただ、相手が喜ぶのを見たいんです。」
A「そうだと思います」
私「では、何故あなたは相手が喜ぶのを見たいんですか?」
A「・・・・・・・・・・・・・・」
私「私には分かりますよ。あなたは魂が天使だからです」
A「(照)」
私「そのせいでまずいことが起きているのは分かりますね?」
(※この場合の魂が天使というのは、文字通り天使という意味もあるが、
   想念が明るく清らかで常に他人のしあわせを願っている人、というような意味です)

A「はい。」
私「天使が下界に下りると悪になる、という言葉があります。
   あなたがやっていることはコレなんですよ。」
A「・・・・・・・・・・・・!」
私「では何故善意で行っていることが悪になってしまうのか」
A「判断力が足りないからです」
私「その通りです」


こんな感じです。
刑事の取調べのようです。

これを一人で行えるのが良い。

相似象では「自分の中にもう一人の自分を持て」と言います。
自分を客観視する第三者の目を、自分の中に持ちなさい、という意味です。


この、第三者の目が無い人は、Aさんのように
たとえ善意であろうとなんだろうと、行動の結果は決して良いものにはなりません。
それを相似象では「徳二、三ならば動いて凶ならざる無し」と言います。
これは孔子の言葉か何かです。
徳二、三というのは、まず行動するにあたって最も重視されるのは「徳」です。
それが二番目三番目に来るようなら、つまり行動の基本に真っ先に徳が来ないようなら、
そのようなレベルで行動すれば(いくら善意でも)結果は凶(悪、失敗、混乱、間違い、罪)
です、ということです。

<向上心>(2010年5月18日)


通常で使う向上心と、相似象で使う向上心とは全く意味が違います。
それを良く説明している記事を発見したので、紹介します。
「**楽しく、賢く**」(2010年5月17日)のnonokaさんが分かり易く書いています。
土曜日、東京と大阪の友人が来福したので、一緒にランチに行った。


「彼氏もできたし、給料下がった(組織変更で手当が減った。
でも仕事も楽になったので私的にはOK。)けど、何の不満も大きな悩みもなく、いい感じだよ。」

という私の近況報告をきいた友人Kは、

「あ〜ダメだなぁ、それってダメだよ。もっと向上心を持たなくちゃ。
転職してもっと年収上げなよ。上を目指さなきゃ。」

と言っていた。


彼にとって 年収を上げる ⇒ いいこと(幸せ?)なんだろうなぁ、
と思いつつ反論しなかったけれど、現状に満足していちゃいけないんだろうか。

お金や環境は満足しているけれど、向上心がないわけではない。

私の向上心は、高収入を得るとかリッチな生活をするとか、そういうところではなく、
人間として、精神的なところの成長に対してあるものなので、
そういう部分以外のところで満足してても問題ないと思うけどなぁ。

もっとお金持ちになりたい、もっとステイタスを上げたい、という欲が全くないわけじゃないけれど、
それよりも大切なものは山ほどある。


今私はリッチではないけれど、食事、家、着るものには困ってないし、仕事もあるし、健康だ。
おまけに彼氏までいる。

感謝こそすれど、それで不満を持つなんて、もっともっとと欲張るなんて、私にはできないな。


お金をたくさん持ってて、セレブな生活をしてたって、必ずしも、心が満たされるわけじゃない。

お金はそんなになくても(そりゃ、あった方がいいけどね(笑))、普通の生活ができて、
彼氏と一緒に少しずつお金を貯めて(その過程も楽しいしね)時々少しリッチな旅行をしたり、
いろいろ工夫して自炊をしたり、人のためにちょっとだけお金を使ったり・・・っていう方が、
充実した人生って感じがする。

まぁ、人生や幸せに対する価値観は人それぞれなので、
年収やステイタスが上がることでその人が幸せと感じるのならば、
それを否定する権利は私にはないけどね。


物欲にはキリがない。

勝ち組負け組なんて、私は考えたくない。
 
幸せの判断基準は、お金やステイタスじゃない、と私は思う。

 

あ、超お金持ちになって世界の困っている人々を救うんだ!っていうのは大賛成(笑)
稼いだお金をどう使うのかっていうのは、重要なポイントだよね。

<サトリの実例1>(2010年7月19日)


日月ブログを数年間続けているふみ☆23さん。


「ひ☆ふみの詩」より。

黄金の巻 第52帖(p.595)

2010-07-16(Fri)

第二十四巻 黄金(コガネ)の巻
昨日より今日、今日より明日と一歩一歩弥栄えよ。
一足飛び、見ていても危ない。
早く判れば後戻りさせねばならず。
判らんで後押しせねばならず、少しの時の早し遅しはあるなれど、
何れは神示通りに出て来るぞ。
想念は形式をもって始めて力でるぞ。

-------------------------------------------------------------
一歩一歩で良いのです。
分っていても、私は我が子に、すぐできる子、さっとできる子を要求してしまいます。
(きっと、子供も辛いだろうな…)
5年前に比べたら、我が子は格段に成長してるはずなのに…、それに気づいて時々
びっくりはするんだけど、日々は、すっかり忘れています。

「神示を抜き出して、それと日常をリンクさせて記事を書く」という事が、まったく出来ませんでした。
まず、理解できない。日常と結びつかない。
出来ないと気づいて、それから2年以上経って、何度か読み返してみて、最近やっと
少しずつ書けるようになってきました。

要は、物事を考えていなかったし、絶対的な経験量が不足していたのです。
不平や不満や人との比較でエネルギーを使い果たしていた訳です。

一気ではなく、一歩一歩。(自分にも周りにも…)


日月ブログにも様々なレベルがあります。

最高なのはあっちゃんの「日月神示とともに」です。
その理由は「日常生活を生きて行く間に、ふと思ったことを、日月神示を用いて
サニワできるレベル」だから。
ここまで到達するには、
@日月神示を全部、ザッとでいいから、一度は読まなくてはならない
A次に考えながら読まなくてはならない
Bそれを数回繰り返せば、内容は理解出来なくても「どこにどんなことが書いてあるか」
  記憶できるようになる

C次に、日常生活を送る上で、気づかなくてはならない
Dその気づいたことに関連する記事が、神示のどこにあったのか、記憶を辿れる
Eそれを分かり易く文章化する。その際、文章量は最小限にする。


あっちゃんはそのレベルに達しているので、いつか記事にしようと思っていたのですが
アッという間に1年過ぎてしまいました。
すると、ふみ☆23さんもそのレベルに達したようで、都合の良いことに記事にしてくれたので
今、ここで取り上げています。

@〜Eまでを行うのは簡単では有りません。
フルタイムの仕事をしている人が空いた時間を使って本を読むということからして難しい。
それでも数年間続けていれば、このレベルに達することが出来る。
ただ神示を読んでいる次元から、事象から神示の文章を探せる次元に上がった、と言えます。
「継続は力也」と言いますが、本当にその通りですね。


神示を読み続けると、”ご利益”がある、と神も言ってますが(笑)
このようなご利益もあった、という話。

「悟る」という体験は得難いものです。
頭で覚えたものは年齢とともに消えてしまいますが、
心で悟ったものは一生消えないから。

(※ボケ老人は、若い頃から心を使ったことが無く、その結果、ああなるそうです。
   相似象に書いてありますが、世の中を見てみればその通りです。
   この場合の心とは波動量のことで、通常言われるところの心のことではありません。
   通常言われる心とは相似象では「獣次元」と呼んでいます。
   このような表現が嫌な人は相似象は読めません)


(※通常の心と相似象で言うところの心の違いが分かるのは
   相似象で言うところの心有る次元に達した人だけです。
   このような表現を差別的である、と感じる人は相似象は読まない方がいい。
   本当の理解が出来ないで、今の自分の理解力をもって勝手に判断し=誤解し、
    そして相手を断罪する人が多いので、相似象の師匠はそれを恐れ、
    一般公開はしなかったのです)

(※本来私のような生サトリの者が、ここでこのように解説する資格は有りませんが、
   分かる人には知っておいた方が良い情報なので、あえてここで記事にしています)

<サトリの実例2>(2010年7月20日〜21日)


「ありがとう♪見つけた!」のてらすさんの日記より。


「自覚せよ・・・私!」
  • 2010-07-13

お稽古の時の先生の言葉です。

「バーでレッスンしている時にじっくり気をつけていることが
センターレッスン(バーから離れて行う動き)で、全く活かされていない!!
これでは私がいくら教えても意味が無い。誰が教えたった同じ!
受け取る方が気付いてくれないとこっちはどうしようもない!!」

以前にも記事に書いたことと繋がる。
目指していることは
骨盤を傾けないとか、かかとをちょっとでもズラさないとか
とても細かいことだから簡単にはいかない。
でも、出来なくてもやろうとしていれば少しずつでもましになる。
間違ったままさっさと進んで、またスタート地点に修正に戻ってくるより
正しいことを意識した結果、見た目がヨレヨレでも確実なことを重ねていけばいい。
見栄はいらない。

頭でわかってやっていて、そうありたいと思っているのに
いつも冷静に客観的に体の隅々まで意識を行き届かせることが出来ていない。

思い込みやクセで表面的なとっさの動きをしてしまう自分がいる。
もっといつも自分に注意深くありたいのに。

そう考えているうちに
自分の心もそうなのだろうかと思った。
頭でこうなりたい、そうありたいと思っているのに
思っている以上に
とっさに、気付かずに低レベルなことをしたりしているんではないのか。

踊りがそうなのだから、きっとそうなのだと思う。
踊りを見れば性格がわかる!・・とは先生の言葉

ああ、ちっとも成長していない私・・。

まわりの人の良い部分を見ることはもちろんだけど
目に付いた思わしくない部分も、
もっと自分の中身と真剣に照らし合わせ
同じ部分を点検して修正していかないとマズイです。
踊りも心も。

いつも平常心で、もっと柔軟でまっすぐな、きれいな心へ変えていきたい。
今自分に出来ることをしっかりと腰を据えてやるしかない。
相似象をまたじっくり心の奥のほうを確認しながら読んでみようと思います。

先生、いつもはっきり言ってくださってありがとうございます。
ifさん、たくさんの記事や相似象を書いてくださってありがとうございます。


「分かろう」「悟ろう」という意識があれば、いつでもどんなコトからでも悟ることが出来ます
逆にその意識が無ければ何をしようと見ようと聞こうと、何も分かることが出来ません。
ただ、意識を変えるだけなのに。

毎日を悟ろうと決めた人はその日から変わり始めます。
ちょうど電車の分岐点のようです。
もし、何も変わらずに居たら多分不味いことになっていたであろう人生(この先脱線事故)を
歩まずに済む。
また分岐点は一箇所だけでは有りません。
沢山有ります。
というか、毎日毎時間が選択の連続であると言えます。

その都度意識を変えることによって(意識には何段階も有ります)
少しづつ軌道が修正され、目的地へ辿り着けるかもしれません。
(※辿り着けます、と言わないのは100%では無いからと、素質と個人差があるから、
   念のために)


道中長いので、一足飛びというわけには行かず、少しづつ軌道修正しながら
進むしかありません。
アタシはヘリコプターで行きたい、ってのは無しw
<後日談>(2010年7月21日)


あのブログ記事を書いてからまだ数日ですが
客観的に思考するクセが少しずつ付いてきているようです。

あまり思わしくないことを目にした時
相手がどうというより、まず、コレ私はどう?同じようなことしてない?
あ〜そういう部分あるかも。修正しなくちゃ。
と、感情より思考に忙しくなりました。

また、以前だったら情に流されて見えにくかった相手の自己中心的な考え方を
いい悪いではなく、事実として見る事ができ、
さらに自分はどうかと照らし合わせています。

手探りですが、一つ一つのことを流されないで思考して
軌道修正していきたいです。


お稽古場に新しく来るかたが、全然出来ないと焦り
どうしたら早く出来るようになるか方法が知りたいと
先生に質問することがあります。

答えは・・コツコツお稽古してください。一足飛びはありません。です。

ifさんの記事を読んで
つくづく、サトルことも踊りも一緒だと痛感です。



一緒ですね。
両方、身体で覚えなければなりません。
イ(頭)の次元ではダメで、ミ(身体)の次元で覚えないとならないから同じです。
なので時間が掛かります。
今、何でも簡単にインスタントに出来るのが流行っていますが、
それだと頭の理解で終わります。
頭で理解したものは、どんどん忘れていくので、最後にはただの情報が残るだけです。
勉強(理屈)は頭の次元での作業なので、どんどん忘れますね。
(ああ、あんなコトしたっけな?でも内容は覚えてないや・・・みたいな)
それに比べて身体の次元で覚えたもの、つまり潜在意識にまで到達したものは
ちゃんと身について
(だから、ミの次元と言いますが)一生自分のものになります。
たとえば、自転車に乗れる人は一生乗り方を忘れないのと同じです。

<高次のサヌキ人間>(2010年8月5日)


相似象をやっていて難しいのは概念を理解することです。
中でも「高次のサヌキ人間」は難しかった。

相似象を始めたばかりの頃、高次のサヌキ人間のことを、
サヌキ性の強い人と混同していました。

サヌキ性の強い人というのは、普通のサヌキ人間の中でも
特に行動的で能動的な人のことです。
たとえば・・・普通のサラリーマンでは飽き足らず起業する人とか。
これはマシな方ですが、低次元にもいろんな段階が有り、
他人の迷惑になることを平気でしてやりたい砲台の人とか。
かなり低次元ですね。

ではサラリーマンを辞めて起業する人は高次のサヌキ人間では無いのか。
無いです。
私はここらへんで悟れなくなってしまいました。
それから数年間、たまに考えていたらやっと分かって来ました。



高次低次というのは、サヌキとは関係無いのです。
アワなのです。
高次のアワを持ったサヌキ人間が高次のサヌキ人間です。

高次のアワとは、潜在アワ量が豊富なところへ持って来て、
アワが波動量化していることです。
つまり、もともと心が豊富だった。
でも、ただ心が有るだけで知恵になっていなかった。

それからここで言う知恵とは「心有る思いやり」「賢さ」のことです。
頭の先が働くことはアワでは有りません。
ましてや波動量では無い。



高次のサヌキ人間とは、サヌキですから、自分がこうしたい、という意思が有り、
それを行動力によって実現化する人です。
ただし、豊富なアワを持っていて、それが波動量化している人。
苦労する能力を持っている人です。

心が豊富でも、苦労出来ない人は高次では有りません。
アワでもサヌキでも高次では無い。



苦労出来る人とは、たとえば、明らかにその人は間違っている。
だから「それは間違いですよ」と指摘したい。
でも指摘をしたら、その人は怒ってしまった。

ここで、普通の人はそういう人を相手にすれば嫌になり
自分も感情的になってしまいますね。
ところが高次の方はそういう相手に対して謝れるのです。

具体的に言うと・・・

AさんがBさんに「●●をしておいて」と言った。
Bさんは●●をしました。
するとAさんは自分が出した指令を忘れて
「誰だ!●●をしたのは!」と怒鳴っています。
Bさんは「私です」と答える。
Aさんは烈火の如く怒ります。
Bさんは「済みませんでした」と謝りました。

この場合のBさんが高次の人間です。

どうです?
ちょっと出来ないでしょう?
私は出来ません。
だから私は低次のサヌキ人間なのです。



まぁ、必ず謝る決まりは有りませんよ。
相手に言っても無駄だな、と理解し自分は感情を動かさない、というのも高次です。
たとえばイエス・キリスト。
彼は磔(はりつけ)になりましたが、言っても無駄なので何も言いませんでした。
そして自分をそのような目に遭わせている宗教家や群集の罪を神に対して
「彼らを許してあげてくれ。彼らは自分が何をしているか分からないのだ」と言いました。

釈迦も自分に対して敵愾心を持っていろいろ言って来る相手に対しては
感情を動かさず対応していました。
この時相手に対して「そうだねそうだね、う〜〜ん、私が悪かった」とは言っていません。
ただ沈黙していただけです。
相手が言いがかりをつけたことに関して、釈迦が「自分が間違っていた」と
相手に迎合すれば、釈迦の弟子達が混乱するので、黙っていたのでしょう。
でも相手を説得するのは不可能なので黙っていたのです。

高次のサヌキ人間の事例が身近なところに無いので、
この概念を理解するのは大変でした。

<サトリの上にもサトリ>(2010年8月5日〜7日)


相似象で言うところのサトリには仏教で言うところの悟りのような意味はありません。
全く宗教的では有りません。
ただ、
「分かること」です。
サトリを考える際、○×思考ではいけません。
サトリには段階が有り、どの段階であろうと一応は悟っているんです。
ただ、サトリには上には上があるのだ、ということ。



事例を挙げましょう。

今から18年近く前のこと、或る女性心理学者が書いた本を読みました。
そこに事例が載っていました。



そのおばさん(学者)の体験談です。
或る時、二十歳過ぎの青年と、小学生がキャッチボールをしていた。
おばさんが見ていると、どうも青年の投げるボールがやけに強い。
小学生が受けるグローブの音がズバっと響いています。
小学生はお兄さんの剛速球を受けるのが大変そうです。
おばさんは小学生が可哀想になり、今度は自分がこのお兄さんの相手をすることにしました。

おばさんは青年にやんわりと忠告しました。
「あらあら(笑)ずいぶん強い球ねえ!」
「あら、凄い球!手が痛くなっちゃったわ(笑(笑(笑」


ところが青年はその後も、球の速さを弱めること無く
最後まで小学生に対しては無慈悲なほどの剛速球を浴びせていた・・・という話。
皆さん、どう思います?



私はこの話を読んでムカつきました。(はい、だからアタシは低次のサヌキ女)

何にムカついたのか?
それはこの婆あが、物事を相手に伝える際に「遠まわし」に言ったからですよ。
バッカじゃねえの?と、腹が立ったのです。
おいおいおいおい・・・婉曲に言うな、ハッキリ言えや!と、腹が立ったのです。



この婆さんが言いたいのは「この青年には小学生相手には弱い球を投げるべきだということが
分からないようだった」というのです。
それには私も賛成しますよ。
でも、そんな簡単なことが分からない青年が
「あらあら!(笑笑笑
ずいぶん強い球ねえ!」
なんて言われたって、(あ、そうか、じゃ球を弱くしよう)なんて
気づくわけが無いでしょう?


この本を読んで一気に気分が悪化した私が思ったことは
「学者もバカだな」でした。
(学者は頭が良いのでは無い。
  一般人より、専門分野での知識が有るだけ。
  それが必要条件。
  学者の中に、頭の良いひとと悪い人がいます。
  それはどの業界でも同様です)


でも、この青年が物事が分からないのは事実です。
それが長いこと頭にありました。



さて、この話を折りに触れ、思い出す私です。
それはこのクソ婆あの言動と考え方に、私には相容れないものが有り、それが気持ち悪いからです。
この「小学生に剛速球青年」については「バカ」という診断を下していました。
でも、最近さらに悟ったのでした。

この青年って、婆あが
「あらあら!凄く速い球ね!」と褒めたので、得意になったのだな、と。
だから、球の速度を遅くするどころか、もっと褒めてもらおう、もっと凄いなと思ってもらおうとして
ますます剛速球を投げた・・・と分かったのです。

以前のサトリは「この青年は小学生相手に速い球を投げるバカ」だと悟った。
今回のサトリは「この青年は自分が褒めてもらおうと思ってますます球を速くした」と分かった。


この間に15年以上有ります。
まぁ、その間、この問題を本気で考えたいたわけでは有りませんから、
悟るにも時間がかかったのです。

これからもこの件に関して悟ることがあるかもしれません。
サトリには「これでよし」「これが上限」ってのは、普通の人にはまず、無いと思います。
特殊な聖人級の人なら「人類が到達出来る悟りの上限」を悟れるかもしれませんが。
しかし、そういう人ほど、「これがオレのサトリの上限だ」とは思わないと思いますね。



サトリの上にもサトリが有るってこと、お分かりいただけましたか?
事例の挙げ方にいささか品が有りませんでしたが・・・

<越えてしまった人>(2010年8月17日〜18日)


人間の価値に上下は有りません。
しかし、判断力には上下の差が有ります。
今の社会の問題点は
「人間の価値と判断力とを分けずに、ごちゃ混ぜにしてワケが分からないようにしている」
ことです。

これは多分意図的に為されています。
何のために?
誰かが得をするためですね。


さて、本を出版したりしている人より、読者の方が判断力が有った場合。
読者は著者の主張に対して批判的にならざるを得ません。
明らかに「そうでは無い」という意見、説、に対して「そうです」と言うことは出来ない。
あ、言ってますかね。
それは職場とか家庭の場合ですかね。
しかし、本に書かれた内容については、違うと思えば「違う」と言って良いんですよ、
当然です。

本を書くくらいの人なので、著者の方は知性があるのでしょう。
しかし知性の上を行くものが、この世には有るのです。
それが悟性です。
「**楽しく、賢く**」の*nonoka*さんが記事を書いてますので、
参考にしてください。
きっと皆さんも*nonoka*さんと同じような体験が有るはずです。
<何故越えたのか?>


*nonoka*さんの場合を検証してみます。
この本は「方法」を書いた本ですよね。
ハウツー本です。

しかし*nonoka*さんが問題にしているのは「方法」では有りません。
むしろ「方法では解決しない」と言っているのです。
では何によって解決するのか?
判断力を高めれば良い。
単純でしょ?

世の中にはこのようなハウツー本が溢れています。
技術や方法を説いてる本です。
目新しい方法を記した本がどんどん出版されています。
しかし、*nonoka*さんのように「ハウツー本で技術を知っても何も解決しない」と
悟った人には、そういう本はつまらなく感じる、という話。

<パワースポット考>(2010年8月23日)


セイシンセカイでは相当前から言われていたパワースポットというものが
やっと一般人に認知されて来たようで、数年前から、関連書籍が出ていますね。
そういう場所へ行って写真を撮るのが好きな人がいます。
パワースポットは国内だけでなく、外国にもあります。
アメリカのセドナやハワイにもあります。
そういうのを紹介する人(E腹氏など)が居て、そこへ行く人も増えているようですよ。

私はわざわざ、そんな遠い場所へ行くのは面倒なのでやったことはないし、やろうとも思いません。
考えただけで疲れます。
友人のM氏などは、精神世界に入りたて(数年)なので、やはりそういう具体的なこと
(パワースポットへ行く、パワーグッズを買う、エネルギーを伝授してもらうなど)が好きなようで
精力的にあちこちの神社を回っていました。

セイシンセカイというのは「心のこと」を扱うものだ、と思うのですが、
その、心の扱い方が具体的、物質的である、ということです。
モノやコトの捉え方にはその人のレベルが出ます。
というか、誰でも自分のレベルを超えた感じ方、考え方、受け取り方は出来ない。
だから、セイシンセカイというのを良く分からない、入りたての人は皆さんこのように
具体的、物質的な迫り方をするのです。
これは普通なので悪いというのではありませんよ。

ただ、モノの本質を知った人、分かった人なら決して、物質そのものには興味が有りませんから
普通の人でも精神世界での学びが進めば、そのうち具体的なことや物質には興味を失って行く。
ただし、変化せずにその位置(心が属している位置、レベル)に留まれば、
何年経とうとその位置に居続ける。
@具体的なこと、物質に囚われていたが、そこから抜ける人
A具体的なこと、物質に囚われていたが、今も囚われている人=陶酔次元

   後者はおそらくそこから抜け出す能力も意志も無いでしょう。
精神世界が好きな人には二種類居るな、と思うんです。



相似象では具体的なこと、物質的なモノに囚われているレベル、
それを越えた世界を感受出来ないレベルを陶酔次元=低次元、と定義しています。
世の中にある流行などは、低次元の人達のためにあり低次元の人達が主役であり、
そういった人達にとっては流行を追うことが楽しく生きがいを感じるのです。
それはそれで良い。
(相似象は道徳では無いので、良い・悪いという価値判断をしません)
(理科だと思ってください)

ただ、そのレベルでは飽き足りない人、精神を高めたい人のために相似象が有ります。
この道は「自分の感受性そのものを高めたい」人には向いています。



さて、話をパワースポットに戻しますね。
E腹氏は霊能者なので、そういう人が紹介する場所は本物なんだ、と思う人が多い。
たしかにその土地にはパワーが有るのでしょう。
しかし、相似象ではそういう土地のことをイヤシロチと言って、超古代から感受していました。
そしてイヤシロチは単に地形的なものですから、そこに霊などは介在していません。
ただ単にパワーが有る、良い土地である、という意味です。

イヤシロチに行きたかったら、あなたが住んでいる町の、昔から有るお寺や神社に行けば良い。
また、明治時代に建てられた小学校もイヤシロチに建っているそうです。
昔の人は現代人のように感受性が麻痺して居なかったことと、
土地の多くが手付かずの森だったり田畑だったりしたため、イヤシロチに学校を建てることが出来たからです。

具体的に言うと「土地の高みと高みを繋いだ線」がイヤシロチです。
谷の部分はケカレチ(穢れ地)と言います。
Wikipediaでは
東京においては、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)において、
高台の武家地域を「山の手」と呼び、
低地にある商工業が盛んな町人町を「下町」と呼んだ。
山の手の代表的な地域は、番町・麹町・平河町・市谷・牛込・四谷・赤坂・麻布・本郷・小石川等である。
地理的には武蔵野台地の東端にあたる。
なお、東京における市街地としての「山の手」の成り立ちや下町との関係については
東京市街の変遷も参照と説明されています。


東京の地面にはかなり高低が有り、あちこちに「谷」がつく地名が有りますが、これはケカレチなのです。
若者に人気の渋谷は谷ですから、ケカレチなのでしょう。
江戸時代に山の手に大名屋敷が有ったのはそれはイヤシロチだったからでしょう。
江戸の中の良い土地を選んで侍が住んだのです。
庶民はそれ以外の残った土地、下町(低い土地)に住んだ・・・・のだと思われます。




相似象で言うパワースポットは単に「土地の高みを繋いだ線上に有る土地」です。
そこには霊的なことも不思議現象もありません。
単に「波動が高い」だけです。
しかし良い土地に居れば人間は土地から良い影響を受けます。
結果的にイヤシロチは人間に良い影響を与える、パワースポットである、と言えます。
高波動の土地と自分の波動が一致すれば、その人は高波動である、とも言えますね。

反対の低い土地、東京で言うなら渋谷は谷ですからケカレチなのでしょう。
なのでその土地の低波動は同じく低波動の人を呼びます。
低波動の人にとってはその土地は心地よい。
そして世の中には低波動の人の方が多いので、その土地は沢山の同波長の人を呼びます。
これが繁華街です。
(渋谷の中でも高い土地は有りますよ。そこはイヤシロチであると言えますね)



さて、いつもは自分と同波長のケカレチを散策、闊歩している人達(勿論低次元)も
今流行のパワースポットって所に行くわけです。
流行を追う、流行に飛びつくってのは低次元の特徴ですから、すぐさま飛びつく。
で、そういう人達は日本中、世界中の評判の、話題の、人気のパワースポットへ行くのです。
すると低次元の人達なのでこのような状態に↓「マリアノ工房便り」より。

2010-08-22

パワースポットと言うモノ

まりおさんが憤慨しているのは、殺到する低次のサヌキ(アワも)の人達が低次の行動を取っていることに対して。
低次の人達に対しては自発的な気づきを求めることは不可能なので、それで規則や法律が必要となります。
規則や法律はわからずや(低次元の人達)のために作られています。
規則や法律が無くても自力できちんと出来る、判断力の有る人には本当は必要無いのです。
しかし現実は殆どの人が低次元ですから、規則や法律が有り、それは増える一方なのです。


だから本当ならE腹氏はパワースポットというものに関しては関わらない方が良かった。
考えが深ければ、やらなかったはずなのです。
私はかなり前はE腹氏の著作も読んでみましたが、ここ数年は全く興味を無くしました。
(読んだ理由は、私が好きな高橋信次も霊能者だったからです。
  E腹氏が高橋師と比べてどうかな、という思いから読んでみたのです)

E腹氏が本当にモノの分かった人なら、有象無象が殺到するような、そういう世間の動きに
便乗することはしなかったろうと思います。
彼は霊能力は有るが物事は分からないのでしょう。
世の中に物事の分からない霊能者は沢山いますから、その他大勢と同じなのだな、と分かったので、
一気に興味を無くしました。
(余談ですが霊能者でもチャネラーでもヒーラーでも世の中には沢山いるのです。
  その中から最後まで残るのは判断力の有る人だけでしょう)


このようにパワースポットというものへの関り方にもいろいろ有るのです。
人は自分の思考力判断力(波動)を越えた感受も思考も出来ないので、
関り方には様々な段階が生じます。
だからまりおさんは
「御神体である山に何も考えずにただパワーが有るというだけで上る人達」
に憤慨しているのです。

しかし御神体であるその山には三次元的な意味と高次元的な意味が有る。
人は自分のレベルを超えては何も感受出来ませんから、
その神聖なる山へ上っても低次の人達が感受出来るのは三次元(物質)と四次元(幽界)どまり。
それを超えた次元のことは感受出来ない。
それを超えた次元(五次元以上)を感受出来るのは、五次元以上の意識を持った人に限られます。

まりおさんとその他の困った登山客とは、全く違う世界と感応しているわけです。
見た目では山はゴミなどで汚れるかもしれませんが、それは三次元でのこと。
同じ場所に居ながら、心が通じている世界は全く違うのだ、と思った方が良いでしょう。
御神体の山を管理する人達は入山料が欲しい。
ここでも金の問題が出て来ました。
今は良いものが金のために荒らされてしまう時代なのでしょう。



ついでに書くと日月神は「金で世をもたせて、金で(世を)潰す気ざ」「悪抱き参らせよ」
判断力の無い人のことは尻拭いしてやれ
、と言っています。
具体的に言うと、平気でゴミを散らかす人に「散らかすな」と言っても言うことを聞かないから
だったら「そのゴミを拾ってやれ」ってことで、日月の民は大変です。
<パワースポットとの関り方>(2010年8月23日)


上の記事を読んだEさんから。


ごたぶんに洩れず
私も、7〜8年前までは
「パワースポットで何かを得たい」
との気持ちでいました。
「クレクレ亡者」だったのです(恥
 
でも、その頃は、一向に そのような場所へ
行く機会が無かったのです
 
その後、4年程前に
沖縄の「S師」 の本に出会い
 
その中で
世界各地で 祈りを捧げる S師が
自分は、祈りを捧げる等々出来きないと悩む著者に対し
「傲慢だなぁ〜」
「ゴミひとつでも拾ってこよう」という気持ちになれないのか・・
と戒めた事が書いてありました
(言葉は正確ではないです。。。)
 
それが、強く耳に残り
心を動かされ・・・
それからは、スーパーの袋を折りたたんで
バックに入れています。
(いつでも、ゴミが拾えるように♪)
 
その直後から・・・
鹿島神宮やら伊勢神宮・・・・セドナ等
色々な「パワースポット」といわれる場所へ行く機会がポンポンと飛び込んできました。
 
意気込んで行く!という訳では無く
仕事で岡山へ行く→道中 伊勢神宮へ寄る時間が出来る
という風に・・・
 
そして、行く時は
「私にはなにも出来ないけれど・・・ゴミを拾って、綺麗にしてこよう〜」
という気持ちで行きます。
 
今でも、なにかにつけ 「傲慢だなぁ」というS師の言葉は
頭の中で響く事があり。
 
色々な面で、役立っています。

この方法が「正解」なのでは?
物事にはピンからキリまであります。
人の波動も同様です。
○×式では有りません。
「この場で何をするのが最も良いか?」と、各自で考える。
それに段階がある、という話です。


それにしてもEさんが(いつでもゴミを拾えるように)と決意してから
各地の霊的な場所へ行く機会が増えた、という事実は面白い。
多分「上」の方の存在がそれをさせているのでしょう。
日月神が「神の御用出来るのは百人に一人」と言ってます。
そのことです。

神の御用・・・と聞いて何か特殊なことをしようとか、しなくてはならないとか
考えるのが「陶酔次元」です。
そのようなことは神は求めていません。
<ひっそりとしたパワースポット>(2010年8月25日)


Mさんから。

パワースポットについて
E原さんについては以前メールしたように「おかしくなった」と思っていたのですが
とにかく観光地のようにお手軽すぎる案内の仕方をTVでしているのを見て「???」でした。
が、若者にパワースポットめぐりが流行っていることは知りませんでした。
 
以前、京都出身者の案内で京都観光をした時に、今までの観光では行ったことのない場所を
散策していたのですが、ある路地に入った瞬間に気が変わったことが分かりました。
左右の壁はとても高く、どんな家なのか分からず、景色も良いとは言えない路地でしたが
「ここすごく良いねー」と言うと「そうなんだよ。よく分かったね。ここは昔からの
お金持ちの邸宅や別荘があるエリア」
ということで、昔ながらの土地ではお金持ちエリアは気の良い場所だと妙に納得したことがあります。
京都の最高の場所は京都御所でしょうね。
 
多分そこは昔公家や武家の屋敷が有ったのでは?
そうだったらイヤシロチに間違い無いです。
古い町の場合、まず高い土地を身分の高い人が屋敷を構えて住んだ。
それ以外の場所に庶民が住んだのだと思います。


私のとっての最高のパワースポットは●●の或る場所です。
私がパワースポットという言葉を知る前から大好きな場所で、何度も訪れております。
E原さんの本にも、他のパワースポットの本にも紹介されていると思われます。
実際、何年か前から人が増えています。
 
で、私が大好きな場所(神社)はネットで検索すると、一部マニア!?は知っているようですが、
観光地化した場所ではありません。
そこは小さな神社なのですが、その町を訪れると必ずご挨拶に伺います。
 
その神社のことをその町のある宮司さん(パワースポット本に掲載されているような神社の方です)
とお話したことがあるのですが、観光のように遊び半分で土足で踏み入るようなことを
とても嫌がっている様子でした。
その宮司さんの神社が紹介されているパワースポット本にも私の大好きな神社は
紹介されていないようなので、E原さんとは異なり守っているのだなーと思っておりました。
というより、紹介することでどうなるのかが分かっているのでしょうね。
私も一部の人にしかその神社の話をしたことがありません。
 
お手軽スピビジネスもそうですが、自分が変化すること、成長することは棚に上げて
簡単に癒されて、簡単に成功するようなお手軽さばかりが前面にでているのが気になります。
 
そう言えば・・・私がE原さんを久しぶりにTVで見て「おかしくなったんだな」と
思った番組で三輪山と大神神社を紹介していました。
あの紹介の仕方なら、ミーハーな若者が増えるのも仕方がないかもです・・・。


テレビで東京某所のなんたらにお参りしたら、彼氏が結婚を申し込んでくれた、仕事が増えた、
とか、
現世利益のことを言ってました。
こういうモノに飛びつくのが
低次のサヌキ人間です。
世の中の殆どがこれなので、こういう人達によって流行が支えられています。
仕掛けるのはサヌキ性の強い商人(マスゴミや企業など)です。
流行に乗る人のことを「踊らされている」と称しますが、
本人は「踊りたい」ので、ここに利害関係が一致しているのです。

ところでMさんが無名のパワースポットについて書いてくれましたが、
私の家のそばにあるH神社は知る人ぞ知るパワースポットです。
フランスから夫婦で日本に来た人が、この際だからと日本中の寺社(パワースポット)を巡りました。
フランス人のご主人が最も気に入ったのがH神社だったそうです。

この神社に関しては霊的に敏感な人がとても気に入り、ブログやHPに書いています。
とにかくパワーが凄いそうです。
私は何も感じませんが、環境は良い。
ところが出版されているその手の本には、H神社のことは載っていません。
Mさんが一人でお参りしている●●に有る●●神社も載ってないし。
なので著者はパワースポットを全て調べたわけでは無いのだろう、と思います。
そして全て調べていないのに書かれた本には価値が有りませんから、全く興味も湧かないのです。

そんな本より、無料で読めるブログに「本当のパワースポット」のことが書いてある。
本当に価値有る情報はインターネットの中にしか無いのでは?と、思わされます。
ただ、ネットで検索しようにも固有名詞を知らないと不可能なので、
それを知るためには人と人との信頼関係が無いとなりません。
これだけ情報が溢れていても、本当に重要なことはおおっぴらにはなってはいない、ということです。
ましてや有象無象が知ることの出来るマスゴミなどには、本当に価値有る情報は載ってはいません。
そういう、本当に価値有る情報を得たかったら、自分がその情報に相応しい価値有る人間にならなくてはなりません。
これは道徳ではなく、単に波動の問題です。

<判断力と気づきについて>(2010年9月16日)


私が本サイトで判断力について度々(たびたび)話題にしているのを見て
ifはさぞかし判断力が有るのだろう、と思ったり
ifは判断力が有るはずなのに、ナンだ?この体たらくは?と思う人が中には居ると思います。
言っては悪いがこういう人は「ほぼ何も分からない人」であると、判断します。

私が判断力が大事である、判断力を増せと書くことと
自分が判断力が有ることとは別問題です。
その理屈が分からないレベルの人は残念ながら、分からずやであると判断する。
中には私に「おまえは全知全能なのか!」といきなり(メールで)怒り出した人もいます。
この人は魂が宇宙人だそうで、なんとか文明がどうたれ、というブログを運営しています。
(※ここからはトンデモですが、魂が宇宙人だなんて・・・全員そうですよ。
   中には「今、地球人として地球に生きるのが初めて」という人も居ますから
   魂の出自が宇宙にあるなんて当たり前のことを、主張されても困る)

こういう人は相当な分からずやで、もしこのレベルでチャネリングをしていたら
通じている世界はロクなものでは無いことを皆さんはご存知ですよね。


さて、これからは理屈の話です。


何かについて判断する時は、その前にその何かについて判断しようと思わなくては無理です。
なので、その何か、について「これについて考えよう」と思うのが先です。
その何かについて気づくことが先に来る。
それについて気づくことは感受性が無いと気づけません。
「気づかなければ考えない」「考えなければ悟れない」のです。

気づくことはアワの分野です。

気づき=アワ(心の分野)

まず気づき、次に「では、これについて考えよう」と考える時、自分が分かる範囲内で
判断しますが、その作業をサヌキで行います。

判断=サヌキ(頭の分野)

「アワはサヌキに前駆する」とはこういうことです。


或るモノを見て何も感じなければ、それについて考えることをしない、というのは分かるはず。
たとえば、最近「誰も気づかなかった」ので、それを放置したために「事故が起きた」という
事件が沢山あります。
ニュースを注意してみているとそういう事件や事故が多いことに気づきます。



人間なら誰でも考える前に「この件について考えてみる」ことに気づきますから
まず、気づくことが先に来る。

私もそうです。
その件について「考えてみよう」と気づかない限りは考えないので
従って判断も出来ません。
場合によっては「考えてみよう」と思うと即答えが出る場合があります。
それは今までの体験から答えを瞬時に呼び出せるからです。
だから年を取った人は若い人より判断力の点では勝っていると言えます。

が、自分が体験していないことについては頭の中に解答の在庫が有りませんから
考えないと判断はできません。
この場合、その件について「考えよう」と思わない限りは考えないので
(これははっきり頭の中で「考えよう」と言語化されるとは限らない。
  気づいたら自動的に考えるモードに入る方が普通です。
  細かくて申し訳ないが、一応言語化しておきます)

つまり「気づかない」場合は、私もそれについては考えないのです。


だからifなら何でも判断出来ると思うのは間違いです。

むしろ私は普段「何も考えてない」んです。
余計なことは考えないが必要なことも考えていません。
(※ここでいう「余計なこと」というのは、ありもしないことを思い煩(わずら)うとか
   悲観的なことを予想して苦しむとか、相手の言葉を疑って詮索する、とかです。
   くっだらない妄想はしょっちゅうしていますよ。
   「さあて、どこに彗星落とすかな」とかです)


一例を挙げてみますね。

今年の春、庭の葡萄の木に毛虫のようなものが大量に発生し葡萄の葉を食い
穴だらけにしました。
なので知り合いの庭師に電話して来てもらいました。
庭師はうちに来て葡萄の木を消毒(殺虫剤撒くこと)をしてくれました。
庭には沢山木が有るので続きはまた後日・・・ということでした。
その後庭師が来て他の木も消毒する、と言うので「お願いね」と頼んでしまった。

この時、気づけばよかったのですが、普段から何も考えてない私なので気づきません。

庭師は他の木を消毒して帰りました。
翌日全ての木を剪定しました。

で、私は気づいたのでした。
庭には月桂樹があり、剪定した枝について葉は料理に使える。
でも、前日消毒してしまったので洗わないとなりません。
剪定した後消毒すればいいのに・・・これは料理に使える葉であることを庭師は知っているはずなのに
何故安易に消毒したのか。

また、さらに思い出した。
庭には蝶の幼虫が居ることがあります。
幼虫にも殺虫剤がかかってしまったのだ・・・と、かなり後で気づいた。
あ〜〜〜あ!
後の祭りです。

庭師が「消毒するね」と言ったとき、私が気づいて「しないで」と言えば良かったのですが、
普段から何も考えないし、仕事はプロに任せてしまうので、さらに考えないことが災いした。
プロに仕事を任せて依頼者が考えなくてはならないというのは苦痛です。
私は普段から何も考えたく無いのでこういうことは苦痛なんです。
プロには全て最高の結果を、本人に考えていただいて私は何もしないで居るのが希望なのです。
ところがこの庭師の場合は、依頼者である私が代わりに考えなくてはならない。
庭師の仕事ぶりに対して監視の目を光らせ命令しなくてはならないとは・・・
はあああああ・・・面倒だ。考えただけで疲れる。
でも来年はちゃんと「消毒しないで」と言おう、と悟ったのでした。

周囲の人が安易に消毒(殺虫剤を撒くこと)をするので、蝶は我家に卵を産むらしく
以前は芋虫青虫が沢山いました。さなぎも有った。
最近それが少なくなりました。
消毒してしまったせいだと思います。
今年家の壁に青虫が張り付いてじっとしていました。
どうもさなぎになる直前のようです。
(へええ・・・)と思っていたら翌日さなぎになっていました。
(へええ・・・)と、思って数日放置していたら、昨日さなぎから蝶になって壁に張り付き羽を乾かしていました。
真っ黒でとても可愛い。
この蝶は生き延びたが他の虫は消毒で死んでしまったかもしれない。
気の毒に。

安易に消毒するとこのような可愛い虫を殺すことになるのです。
今年の夏は痛い目に遭って私は思い知ったのでした。

と、このような目に遭ってばかりいるので、賢くなりたい(気づくべき点に気づきたい)と
切に願っている私なのです。

<物理である>(2010年9月22日)


相似象は物理です。
なので「良い悪い」の価値判断はありません。

たとえば崖から人が落ちる。
これ、普通は「悪いこと」です。
ところが物理的に見れば重力の法則通りなので、当然のことです。
崖から人が落ちること自体は法則通り。
そこに「良いの悪いの」という価値判断がつくのです。

熱湯に手を入れれば通常焼けどします。
物理的に見ればそれは当たり前のことです。
しかし通常はやけどをすること=悪いこと
となっていますね。
だから、結果的にはやけどをするから熱湯に手を入れてはいけない、となります。
価値判断がつきます。

物理なので感情や価値判断はつきません。

「人が崖から落ちたら可哀想だろ!」というのは別の問題なのです。
ここらへんが理解できない人が大多数ではないでしょうか?
物事に必ず「良いの悪いの」「好きの嫌いの」という価値判断や感情がとりつくレベルの人。
それに対して「いや、そういうことを言っているのではありません」と説明することは
かなり危険です。
なので相似象は大っぴらには出来なかったのです。
(宇野女史は分かる人にだけ本を販売していました)

崖から落ちたら怪我するか死ぬ。
だから崖から落ちることは「悪いこと」に決まっている、という考えから抜け出せない人の方が多い。
それを相似象では悪いとも良いとも言いません。
ただ、「そのレベルである」と判断するだけです。
この判断はただの判断であり、価値判断は入っていません。

価値判断も感情も入らない物理。
それが相似象です。
それが好きな人は学べばいいし、嫌いならやらなければ良いだけの話。
やる・やらないは好みの問題。


ただし。
物事に価値判断がついたり感情がついたりするレベルより、
物事を冷静に判断出来る方が、脳の使い方としては「レベルが上である」と言っておきます。
と、書くと「レベルが上とはナンだ!オレ達は下ってことか!」と感情的になるレベルがいますが、
レベルが上であること、下であることについて、良いの悪いのという価値判断はありません。
物理ですから上や下に価値は無いのです。

たとえば「気温40度の方が気温33度より高い」と言っているようなものです。
どちらが良いの悪いのという話ではありません。
(しかし夏場の気温に関しては「今日はここが日本一でした」という報道があり
  「夏の暑さ日本一」を競っている自治体もありますねw
  高い方が良い、という考えの基にそういうコトになっています。
  一般的な人は物事の殆どが良い悪い、と受け止めるレベルにあるのだ、と言えます)
(レベルにある、と言っているだけなので、それが良いとか悪いとかの話ではありません)


良い悪いから脱却しない限り冷静な思考は出来ません。
本当の思考が出来ない。
という話です。

良い悪いのレベルに居る人が「良い悪いでは無い」と語るのを聞いたことがあります。
ところが本人の頭の中は「良い悪い」で充満しているのです。
しかしそれを自覚することが出来ない。
思考の落とし穴に陥っている状態。

自覚としては「良い悪いではない」「世の中に良い悪いは無い」と言いつつ
思考方法が「良いか悪いか」になってしまっている状態です。
ちょっと頭が働く程度の人に、このレベルの人がいますが、この状態では本当の思考は出来ません。
しかしこのレベルの人は、自分の思考が思考と呼べる代物では無い、ということを思考できません。
こういう人のことを理解出来るのはその人より上のレベルに達した人だけです。
(この場合の理解とは、文字通りただ理解することです。
  相手に賛同することを理解である、という意味で使う場合が多いと思いますが
  それでは有りません)


このレベルから脱却するには相当な苦労が要ると思いますが、
脱却するには今の自分の状態を「このレベルはまだ低いのだ」と理解することが前提。
しかし、そのレベルの人が自分の脳のレベルが低いのだ、と自覚することは殆ど無く、
従ってそのレベルから脱却することはほぼ不可能に近いでしょう。



相似象は道徳ではありませんから「良い悪い」とは無関係です。
判断力がつけば「良い人」になるということもありません。
例を挙げますと
小学生より母親の方が通常は判断力がありますが、
母親の方が良い人である、人間性が優れている、ということにはなりません。
小学生の方が心がきれいで良い人である場合があります。
若い女性よりおばさんの方が通常、平均値を比べれば判断力はありますが、
人間性を比べればどちらが良い人か、というのはまた別の問題になります。

波動量というのは、潜在しているアワ(心)に知恵(判断力)がつき、
「心ある知恵」が増した状態です。
心有る知恵が多い人を高次の人といいます。

判断力=波動量では有りません。

<知恵の有る人>(2010年10月8日)

賃貸マンションで水道代の請求が
大家さんからあります。
検針を大家さんがしている...

oyabakabanzai2004さん

賃貸マンションで水道代の請求が大家さんからあります。
検針を大家さんがしていると言われているのですが、
毎回同じ金額で不審に思って自分でメーターを確認していたら、
大家さんが言うメーター数よりずっと少なくて、大家さんが適当に請求しているらしいです。
水道代を多く請求するのって違法ではないのでしょうか?
詳しい方、教えてください。
ちなみに、マンションの管理会社などはなく、大家さんが管理しているようです。


ベストアンサーに選ばれた回答

sirocha41さん

多いですよー。こういうケース。友達の所もそうだったし、
うちも以前住んでいたマンションがそうでした。
まあ、大家と争うのもなんだったので最初は黙認してたんだけど、
ほぼ一ヶ月所用で留守にしていて水道をほとんど使わなかったにもかかわらず
水道代、月5千円請求された時は
さすがに我慢の限界でした。いくらなんでも度を越してる…
しかし苦情を言ったとしても、他の部屋のを今回間違って請求してしまったみたいで…
と謝られごまかされてしまうかも
しれないと思い、今後のことを考えて2度と不正請求できないように
大家に対して釘をさす方法はないかと
思いついたのが直接水道局へ連絡する方法でした。

水道局へ「家を一ヶ月留守にしてたのに水道代が月5千円だったのです。
全く使ってなければ普通は基本料金だけですよね?メーターが壊れているのではないですか?
そうじゃなければどこかで水漏れしているのは確実なので調べて欲しい」と電話しました。
水道局の人は留守にして全く使っていなくて月に5千円というのはありえない金額。
漏れてたらかなりの量になるので、大家さんに連絡して調査させて頂きますね。と。

その後、大家にも電話をし、
留守にしてたのに
月5千円はどこかで水が漏れてるとしか思えないので
水道局に調査の依頼をしましたので、
近いうちに水道局から連絡行くと思いますのでよろしくお願いしますと

そう、大家に電話で伝えた時、
あきらかに動揺してる様子で声が裏返ってしまってた(^^;
この件以降、水道代がうーんと安くなったのは言うまでもありません。

回答者の方、知恵が有りますね。
戦略が巧みです。素晴らしい。

<客観視>(2010年10月16日)


人は普通、何か失敗した時「後悔」しますね。
思考力の有るマトモな人は「反省」します。
でも、相似象では「客観視」を重視しています。
この三つの違いについて考えてみました。
広辞苑は引いていません、私なりの意見です。

●後悔=ああすれば良かった、あんなことしなければ良かったと
       自分の失敗について、後から悔やむこと。
       主に感情的な分野。

●反省=自分がした失敗や良くないことを頭を使って
       善悪を判断すること。
       主に頭、理性の分野だが、悪いことをしてしまったという思いがあり、
       感情的な反応も有る。
       主に自分で思う悪いことをした場合に行う。

●客観視=自分の思考言動行動について、ありのままに判断すること。
        善悪の基準は二の次になる。
        つまりコトの善悪は関係無い。
        完全に頭、理性の分野。

  

相似象では「自分の中にもう一人の自分を持て」
つまり「他人が見るように自分を客観視せよ」と言います。
そこには良い悪いの制限はありません。
ありのままに全てを見るのです。

例を挙げますと・・・

私はおばさんである。
私は中年である。
私は太っている。

これらが客観視です。
しかしちょっとマイナスな言葉が並びましたね。
ではこれはどうでしょう?

私は自由人である。
私は人生を楽しんでいる。
私は他人の意見を尊重する。

これはプラスな言葉になりました。

客観視は「ただ単に自分を客観視するだけ」なので
そこに良いも悪いもないのです。
善悪の基準とは別なところで思考します。


私は今、怒っている、それは●●が××したからだ。
では何故●●が××すると私は怒るのか?
それは・・・

と思考を続行してもよし、しなくてもよし。
必要なら続行してさらに思考を深めても良いでしょう。
それをする自分を

偉いとも情けないとも思わない。

と、いう自分を見るのです。

とことん、思考だけの作業です。


多くの人は「後悔」レベルに居ますね。
その中で思考と感情を別物に出来た人だけが「反省」できます。
その次に思考から善悪の基準を削除した人だけが
客観視出来ると思います。
これは私の意見で、相似象にはこういうことは書いてません(たしか)。



タチが良い人、頭も性格も良い人がいつまでも善悪の次元に留まっている。
当人はそれを「良い」と思っているのですが、善悪というものは
時代や国が違えば180度違ってしまうようなものです。

それを超えろ、と言ってます。

これが出来る人は本当に少ないのです。

<或るサトリ>(2010年11月6日)


サトリ方の事例を挙げます。


3月、ifさんのお宅に置かせていただいた際、
ifさんが私に

「掃除には段階があって、毎日する掃除はこの程度、
 一週間に一回する掃除はこの程度、一ヶ月に一回、一年に一回・・・
 というふうに分かれているんだよ。
 毎日1から10までやっていたら疲れてしまうだろう。」

と何回も言ってくれた意味が、最近やっとわかりました。

(※何事もにもバージョン、ランク、レベルが有るという話。
   たとえば、床掃除を例に挙げましょう。
   台所の床掃除にもレベルが有りますよ。

   一番簡単なレベルは、毎日台所の床をホウキで掃く。
   テーブルと椅子が置いてあるが、椅子はそのままにして動かさず
   今、見えている部分だけをホウキで掃く。
   これが
「とりあえず」「一応」「やらないよりマシ」というレベルの掃除の仕方です。
   
   その上は、掃いた後に拭き掃除をする。

   その上は椅子を動かしてテーブルの下をきれいに掃き、拭き掃除をする。
   
   その上は
   もう一つのテーブルの下の「ナマゴミの容器」「ゴミ箱」「危険物」などを
   どかして掃除する。

   その上は椅子の足についたゴミ、綿埃などをぞうきんで拭く。
   もう一つのテーブルの下も、モノをどかして拭き掃除をする。
  
   その上は
徹底的に拭き掃除をする。この際、洗剤も使う。
   床についた油汚れなどは、ヘラのようなものを使ってこすり落とす。
   これは年に一度くらいか。

   以上、毎日やるとりあえずレベルから年に一度やれば良いという徹底的レベルまで
   ざっと7段階有ります。
   もっと細分化できるかもしれないが、今はこれだけにしておきます)

   


正確に言うと、
言われたときも表面的には意味がわかったつもりだったのですが、
今は、もう少し深い意味も取れるようになったのだ・・・と思います。

それは、私があるところでバイトしたとき、「掃除を押し付けられる」とか、
「掃除が適当すぎる」とかで悩んでいたことの答えでした。


気づくまでのことを段階的に言うと

@自分が甘すぎて、何も知らない状態

Aその1つとして『掃除には段階がある(いろんな意味で)』と知らなかった

Bだからまずいことになった

Cifさん「掃除には段階があるよ」



8ヶ月後



Dあれは表面的には「掃除には段階がある」という言葉だったのだけれども、
 「『自分の基準で掃除をしたい』という我を折ること」や、
 「掃除にはifさんが言った期間的な段階もあるし、
  個人(又は集団)の意識レベルや判断力の段階もある」ということ、
 「掃除だけじゃなくて全てがそうなんだ」ということ、

(※そうです。
   掃除はあくまでもひとつの例です。
   全ての仕事には様々な段階が有り、その時、その場で最も相応しい方法を
   瞬時に選んで実行しなくてはならない。
  
   先日、こういうコトがありました。
   某ブックなんたらという古書店で本を買いました。
   店は混んでいてレジにいる私の後ろにあっという間に5人ほどお客が待っていました。
   それにも関わらず店員はおっとりと「家にある本を売ってください」というような
   内容の台詞をながながと喋っている。
   マニュアル通りに仕事をしているのです。
   そんなのは店内の張り紙を見れば分かることだし、初めて来たのでは無い客の方が多そうだし
   忙しい時には「早くお客を処理する」方が重要ではないだろうか?
   しかし、この店員は周囲の状況を見ないでマニュアル通りにやっているのです。
   
   モノの分からない店員には最低限の販売方法を実行させるのは良い。
   しかし周囲の状況を見て臨機応変に対処することを教えることが無いようだ。
   そしてこれは某ブックなんたらだけに限らず、殆どの店がこのような状況であるということ)


 「郷に入らば郷に従え」(そこのルールに従え)
 (ひいてはそれが自分を守ることにもなる)
 などなどの示唆だったんだなあ・・・。

(※そうです。
   上のブックなんたらについて書いたコトとは一見矛盾するかもしれませんが、
   その店の従業員になったら、どんなにバカな方法をやっていても、
   それがその店のやり方なのだから、その店から給料をもらう身であれば
   その店のやり方をするべきである、と思います。

   その店のやり方を変えるのは経営者側の仕事。
   ブックなんたらは経営者が●●なのだから、仕方ないとして受け入れるべきです。
   嫌なら本部に意見を述べるとか。
   その意見が採用されず、オマケにクビになったとしたらその人はその会社とは縁が無いのだ、と。
   また、そういうバカな店(会社)のやり方を体験し、自分はそういう方法はやらない、と決めれば良い。
   そして独立して自分のやりたいようにやれば良い。

   こういう例があります。
   私の友人は優しい性格で花が大好きでした。
   で、花屋に勤めた。
   ところが花屋を経営する人って優しい人は稀で、むしろキツイ人の方が多いのです。
   低次のサヌキって意味です。
   なんとか言う占いによれば、花を切る刃物と同様の性質を持った人だから
   花屋をやっているというケースが多いようで。
   全員ではないでしょうが、私が見たり聞いたりしたところ、どうもそれは言えているような気がします。
   で、私の友人はとても優しいので、お客さんの身になって販売するわけですよ。
   勤務先の花屋では「古い方の花から売りなさい」と決まっていた。
   でも友人が思うには「古い花はすぐダメになってしまうので、新しい方から売りたかった」
   店長に意見を言っても聞き入れてもらえない。
   なので私に愚痴っていました。

   で、問題なのは、店長と他の店員が見ていないところでは、友人は「新しい方の花」を売っていたのです。
   面従腹背ってことです。
   おとなしく、我が強い人がやります。
   問題ですね。
   勤務したいのならその店の方針に従い、従いたくないなら辞めるべきです。
   理性が無い(乏しい)人の行動はこのような屈折したものになります。
   その人はとても良い人ですが、感情が先立ち、考えることをしない。
   いや考えてはいるがその際自分の我を優先させているので、その結果
   「悪いのは店長と他の店員」となってしまう。
   善悪で判断、処断してしまうのです。
    善悪ではなく、その店の方針がそうなんだから従うべきである、と私が説得しても
   「古い花を売るのは悪」と思っているので、私が言うことを感情的にはねつけてしまい理解しません。

   
   
大変心優しくおとなしい良い人が「善悪」のレベルに居るとこういうコトになります。
   この人はどんな店に行っても自分の思いやりを周囲が理解してくれない、という状況でした。
   そして自分は何ひとつ理解しようとしなかったのです。
    
    花屋の件から数年後に、この人は自宅で足を骨折してしまいました。
    何か間違った想念が溜まりに溜まった結果であると思います。

    優しく、おとなしい人の中にはこのように大変我が強い人が居るのです。
    そして当然のことながら本人にはその自覚はありません。
    だって自分はいつも「正しい」ことをしているのだから。


Eものすごく変で過酷な環境だったけど、心の良い人もたしかにいた。
 底意地の悪いバカのバカな悪口も受け流してた。
 あそこの良い人達は皆、Dのような理屈はもう当たり前に知ってて、
 それでも夢のために一生懸命耐えて、頑張ってたんだろうな。
 その上で、私に優しくもしてくれた、良い人達だった。
 それが「強い善人」なんだ。
 自分って甘かったし、やっぱり何もわかってなかったな。

(※8ヶ月でここまで悟れたとは偉いです。素質が良い。
   自分の気持ちしか見えない人は、どのような環境に置かれてもそこを「ヂゴク」と思うでしょうね。
   だって、本当のヂゴクは、何も分かってない自分の心だからです。
   一生懸命やっている自分
   なのに誰も自分を認めてくれない
   私はこんなにやっているのに!
   あの人はヒドい、悪い。私は悪くない。
   そりゃ私も悪いかもしれない。でも、それよりもっと相手が悪い!
   
   これらの思いのどこにも、相手の心を理解する箇所が有りません。
   相手のこと、周囲のこと、環境、状況、などを理解しない人のことを「低次元」と言います。
   低次元の人は本当の意味で楽しいことも幸せになることも難しい。

   と、いうことを8ヶ月で悟ったようで良かったです)


F全部言わないでヒントを教えてくれたifさんはやっぱり親切だ! ←いまここ

(※そりゃ良かったw
   私がこの方に言ったのは「それじゃあ苛められるよ」だけでした。
   あははh!

  
 凄く短いです。
   しかしこの方は私のその短い言葉を真摯に受け止めた。
   だから、8ヵ月後にやっと真の意味が分かった。
   通常は、自分が職場でヒドい目に遭ったことに対して「それじゃあ苛められるよ」と言われたら
   (何を!)と、怒って泣いてお終い。思考はストップ。何年経っても同じ場所、となります)


ですから、私は8ヶ月でやっと1ミリ・・・0.1ミリ?くらい進歩したようです。


言われたときは「そうなんだ。」と思った程度でしたが、
最近風呂掃除をしていて、そのことにふと気づいたので、
これは報告しないと!と思いました。

(※余談ですが、風呂掃除にもレベルが有ります。
   @湯船を洗剤で洗うだけ。
とりあえずレベル
   A蓋を洗剤で洗い、干す
   B床を洗剤で洗う
   C風呂のガラス戸を洗剤で洗う
   Dタイルをたわしでこすって磨く
     洗面器や椅子、シャンプー容器他を全て洗う。
     カビを落とす。
    
 徹底レベル
   などです。
   
   毎日@はやっています。
   Dは年に数回ですかね、本当は月に一度やれれば良いのですが)




報告してくれてありがとう。
これはサトリの良い事例になります。
サトリとは自力で気づいて分かって行くのもあれば、他人の示唆や忠告を聞いて
つまり最初に「結論」を聞いた後、自力でその言葉を理解出来る位置まで自分を上げて行く作業とがあります。
どちらも難しいことです。

この方は幾つか悟れたようで、これからはそれをコト有るごとに実行すれば良い。
何度もサトリを繰り返して判断力そのものを上げて行けます。
この方はひとつ悟るのに8ヶ月掛かっていますが、大抵半年〜一年で悟れます。
(勿論数日という場合も、数年という場合も、数十年って場合も有りますよ)
長さは関係有りません。
「悟れる時は、その件について理解出来るほど判断力が増した時」と言えます。

<イの次元とミの次元>(2010年12月3日)


イとは「意」のことで、「イの次元のサトリ」とは頭での理解のことです。
ミとは「身」のことで、「ミの次元のサトリ」とは身体(心)での理解のことです。
(※サトリとは「分かること」=理解すること)


事例を挙げます。

「外国人を差別をしてはいけない」という考え方があります。
この文章を読んだり誰かが言うのを聞けば「外国人差別をしてはいけない」ということを「知る」ことができます。
子供を除く大人ならこの考え方は大抵の人は知っていると思います。

次に「外国人を差別をしてはいけない」という言葉を頭で理解する人も多いと思います。
だって、それはしてはいけないから。
なのであからさまに外国人を差別をする人は、多くの人から軽蔑される。
多くの人は「外国人を差別をしてはいけない」ということを知っているし、
言葉の内容を理解しているからです。

しかし、そのことと外国人を差別をしないこととは別物ではあることを知っている人は殆ど居ないのではないでしょうか?
してはいけないのは、よく分かっているさ。
でも、自分は
「外国人は嫌いだ」
「ガイジンはなんか嫌だ」
「●国人は嫌いだ」
と思っている。
そういう人達は外国人が嫌いなんです。
頭では「外国人を差別していはいけない」と理解しているが、
心(身体)では「外国人を差別している」のです。
イの次元では分かっているが、ミの次元で分かってない、という例です。


ミの次元で理解している人は「心でも外国人を差別しない」のです。
よく「腹から理解する」「腹で分かる」「腹に落とす」「納得する」と言いますが、
ミの次元での理解はこれらと似ていますが、さらに上を行っているような気がします。
「人を人種や国籍などで差別しないレベルに達している状態」をミの次元での理解、ミでのサトリと言います。

頭(イ)での理解と心・身体(ミ)での理解は、全く質が違う。
これを次元が違うと言って良いでしょう。



次の例。

昔のアメリカ映画「招かれざる客」(1967年)は、このことを皮肉を込めて描いた作品です。
古き良き時代のアメリカの中流家庭。
父親はインテリで奥さんは専業主婦。
二人は進歩的な考え方の持ち主で、黒人差別はいけない、と思っている。
或る日、娘が婚約者を連れて来る。
相手は黒人だった・・・という話。

「黒人差別はいけない」ということをイの次元でしか理解していない両親と
ミの次元から理解している娘の話です。

白人の母親の方は頭が柔らかいのか、すぐ理解し娘の味方になるが、
頭の固い父親はなかなか理解できない、という話。

娘は「人種差別はいけない」と理屈で考えるのではなく、
最初から差別意識が無いのです。
ここが大きな違い。


頭の固い、娘の父親は普段から黒人を差別してはいけないと理屈で分かっているが、
差別心を持っていた。
父親は最後に和解しますが、でも、頭での理解に留まっている。
心から理解すること(黒人差別の心を持たなくなること)には時間が掛かります。



次の例。

「最も大切なのは愛だ」と言う。
そういう考え方を今知りました。
これは知った状態です。
次にこの言葉の意味は分かりますか?

そんなの分かるさ、簡単だよ。
だって愛は大切だよ、一番大切だと思うね。

と、いう人は多いのではないでしょうか?
これはイの次元での理解です。
ではミの次元の理解とは?

簡単さ、それを心から分かることだろ。

で、分かっているんですかね?

「最も大切なのは愛だ」と言う言葉を理解している人が、
愛溢れた人ならこの言葉をミの次元で理解している、その境地に達している、
そのレベルに達している、その次元に達している、と言えます。

愛溢れた人が実は
●自分だけを愛している、愛は自己愛のことになっている
●自分と家族だけを愛している、これは自己愛の延長
●自分と家族と自分の友人、知人だけを愛している、これも自己愛の延長
●愛が恋愛という意味になっている
●愛が性愛という意味になっている
●知らない人のことは愛さない、だって知らないから
●自分に敵対する人のことは愛さない、だってムカつくから、当たり前だろ?
●自分の言うことを聞く人だけを愛す、反対する人は愛さない
●ガイジンは愛さない、◆国人は愛さない
●獣や虫などは愛さない、愛の対象は人間だけ
とか。

「いや、そうじゃないんですよ」と言ってもそれを「理解しない」のなら
「最も大切なのは愛だ」という言葉をイ(頭)の次元でしか理解していないのです。


次の例。

リンゴがあります。
リンゴについて知っている人がいます。
「ああ、あれはリンゴだね」と、知っている。
でもリンゴは食べたことが無い。

そしてイの次元で分かっている人がいます。
「リンゴとは果物で、秋に実が成り、美味しいんだよね。
 種類はいろいろある、コレコレがある。
 有名な産地はこことここかな。
 リンゴを使った料理にはアップルパイや焼きリンゴなどがある。
 リンゴって農薬を使わないと実がならないんだけど、最近無農薬で実を成らせた人がいるよね」
とかいう、情報を知っている人。
でもリンゴを食べたことが無い人。

あれはリンゴだ、と知っている人と、リンゴについての情報を沢山知っている人との差は殆ど無いように感じますが、
どうですか?

リンゴについてミの次元から分かって居る人は「リンゴを食べたことが有る人」です。
ミの次元から分かっている人が、イの次元でしか分かってない(知らない)人と、
分かり方に大きな質の違いがあることがこれで分かると思います。
勿論、リンゴは日本人なら誰でも知っている果物ですから、このたとえで言うと
「皆、リンゴについてはミの次元で分かっている」と言えます。

では、それがリンゴでは無いとしましょう。
リンゴをミの次元で分かるのは簡単ですが、簡単では無いものだったら?

リンゴの味ですら言葉にして伝えるのは至難の技です。
かなり、難しい。
そして受け取る側が言葉を正確に理解しても、それは頭(イ)での理解(サトリ)でしかない。
一回でもリンゴを食べれば言葉など要らないのですが、その境地(リンゴを食べること)に達していない人には
想像すら出来ないのです。

イの次元での理解とミの次元での理解の間には、簡単には超えられない壁があります。



次の例。
具体的な例。

数年前にM氏がウチへ来始めた頃、M氏がこんなことを言いました。
M氏のお嬢さんの体験談です。
大学の同級生の女子が男子学生にしつこくつきまとわれていたので






言葉というものは受け取る側のレベル相当しか受け取れません。
物事が分からない人はどんな言葉も事象もイの次元での理解に留まり、
本当には理解していないし、ましてやその言葉が意味する境地には達していない、と言えます。

物事が分かれば分かるほど受け取る能力が上がります。
大昔の日本人は生きている間にその境地を上げるよう、育てられたそうです。
その伝統は江戸時代までは有ったらしい。
明治維新から次第に伝統が薄れて行き、とうとう今日(こんにち)の事態に成り下がりました。
現在はミで理解する方法を会得し本当に充実した人生を送りたいと思っている人は殆ど居ないという状況です。

<感受性と言葉>(2010年12月5日)


感受性と言葉について、書かなくちゃなぁ・・・・と思い続けて一年以上経ってしまいました。
すると「red−earth’s Diary」でちょうど良い記事を見つけました。


2010-12-05

ことば

言葉について考えた。

先日、ある人と話していて(メールで)ある言葉に対する感覚が相当違うことに驚いた。
私がメールに書いた「奥様」という言葉がある。
この「奥様」は私にとっては〇〇氏の配偶者を指す丁寧語でしかない。
それ以上の意味を全く持たない言葉なのだ。ところがそれを聞いた(読んだ)その人は
「奥様」というのは社会的な地位のある男性の配偶者のことである、と言う。
そうではない職業を持つ人の配偶者に使う場合には
そういう言い方をする会話自体を「冷たい」と感じるそうなのだ。
営業マンのような人が、何かの意図があって使う言葉であるとも。
その時の話の本質にあまり関係しない「奥様」という言葉に
これほど色々な感情がくっついてくることに驚いた。

言葉は人それぞれの使い方をすることは解っていたつもりだったが
実際に、これほど違う認識で使っている会話を経験すると
実は何も解っていなかったと改めて考えさせられる。
「奥様」を私は本当に単純な意味しか持たない言葉として使っている。

それを聞いた人は
その人の価値観「社会的な地位」という皆に共通ではない曖昧な意味を持たせている。
しかも「冷たい」言い方に聞こえる、と言う。

私にとっては、ただの〇〇氏の配偶者という意味でしかないと伝えた。
書き言葉だから「奥様」と書いたが、話したら多分「奥さん」だろうとも。

このように話の本質に関係のない言葉の認識の違いには
特に触れないまま済ます会話のほうが多いだろうと思う。

今回は、たまたま「奥様」の違いを知ったが
他にも、こんなふうに異なった感覚で使っている言葉があることだろう。
共通ではない考えを基にした感情をくっつけてしまうと
会話が成り立たないことになると思った。

「社会的地位」というのは人によって何を指すのか全く違うし
世間は…普通は…などと同じような曖昧な言葉だし
そのようなものに関心がなければ何の意味も持たないし
その言葉を聞いて「冷たい」と感じるのは
言葉の本質とは違う意味をくっつけ過ぎているからでそれは感じる人の問題である。

本来の意味は、もっと簡単で単純で…と思う私も
私自身の使う言葉を確認してみる必要があるなと思った。

人の使う言葉の持つ意味を訊くのは、その人の価値観を聞くことになる。
知っても仕方ないと思うけれど会話を成り立たせようとする場合には
その人が言葉に持たせている意味を知るのが必要な時がある。
話の本筋と違うところでさえ言葉に対する感覚が相当違うということは
言葉を単純に使っていない人には、会話はストレスなことだろう。
様々な感情をくっつけて話を聞いてしまうのだろうから。
そのストレスは本筋の話を聞くことにも大きく影響を与えることだろう。

つまり会話が成り立たない方向に進みがちである傾向を持つと言えるだろう。

ことばって面白い。
使う人の数だけの意味を持つ、と思ってもいいような気がする。

自分の発する言葉の意味に思いを馳せてみるのも面白いかも知れない。
もしかしたら私自身も思わぬ感情のくっついた言葉を隠し持っているかも知れないのだから。

<分からせること>(2011年1月28日)


他人を分からせることは不可能です。

「分かる」ということはあくまでも「本人が」分かることなので、
他人はその人に分からせることは出来ません。

他人が出来るのはその人が分かるお手伝いです。
しかし
「分かる」ことはあくまでも本人が分かることなのです。
これ、分かりますか?
その分からない人に対して、他人がいくら言語で説得しようと
分かることは本人の作業ですよね?

なので他人を分からせてやる、と思っている人が居たとしたら
その人自身が「分からない人」です。

<先生/自力と他力>(2011年1月30日)


相似象の本を読む。
本を読むことは独学です。
書いてあることを一応頭に入れます。
そのことと、理解することとは別ものです。

本に書いてあることは自分なりにしか理解できません。
自分の思考力を超えた理解は出来ない。
だからそこに落とし穴があります。
つまり理解ではなくて誤解してしまう危険性がある。
まぁ、危険と言っても死ぬようなことは無いのですが。

基本は独学。
でも、
独学だけだと多かれ少なかれ一人よがりになってしまうのです。
私もこんなことがありました。


今から15年ほど前「高次のサヌキ人間」のサトリを勘違いしていました。
高次のサヌキ人間とは、生まれもったタチがサヌキの人で
潜在アワ量を鍛え、それを波動量化した人、のことです。
人間は皆、最初は低次なのです。
心(アワ)を鍛えて(体験によって学び)波動量化(知恵に転換する)ことをしない限りは
低次のまま。

私はそれを最初、サヌキ性の強い人のことだと勘違いしていました。
サヌキ性が強い人とはアワ(心)は関係無くて、
ひたすら行動的能動的(男性的)な人のことだと思っていた。
それは間違いですが、自力ではその間違いに気づけなかった。

或る時、相似象を読んでいる友人に
「オタクの御主人、高次のサヌキ人間だよね」と言ったら
「違うよ。ウチの旦那は高次のサヌキ人間じゃないよ」と答えが返って来た。
え?と、思ってさらに会話をしたら、やっと自分が勘違いをしていたことを分かった(悟った)。
この時分かっておいて良かったです。
自力でコレを分かるには数年〜十数年掛かったと思います。

(※ちなみに、「ノーベル賞受賞者といえども、低次の人間である」と本にあり、
   これを理解するまで数年かかっています。
   頭の良さ=勉強や学問を理解する能力と、
   心の賢さ=波動量との違いがなかなか分からなかったからです。
   知識を得るのは簡単です。
   「ノーベル賞受賞者と言えども低次の人間」と読めば、へえ、と理解します。
   そうなんだ・・・
   でも、この言葉の意味を本当に理解するには数年掛かる、という話)




当時、私と友人の相似象の読み込みは同程度。
どちらが先生、というわけでもありません。
同じくらい分からない二人です。
でも同じ程度ではあっても、片方が片方に教えることは可能です。
自分が分かっていることを相手に教えれば良いのだから。
友人が分かってないことで私が分かっていることがあれば、
私も友人に教えることが出来ます。
相似象は秘儀では無く当たり前のことなので
相似象を知らない人でも体験と知恵があり、心が大きく豊かなら答えは出せます。

自分より悟っている人から教わる場合、相手が何を言っているのか
さっぱり分からない場合がありますが、その場合は
「自分がそれを分かるレベルになって居る必要」があります。
そうじゃないといくら言葉を尽くしてもらっても、分かることが出来ません。


「red-earth’s Diary」の記事「講評会」に参考になることが書いてありました。

写真の講評会で、先生が生徒の作品を一つづつ評価していくというもので、
参加したレッドさんはとても勉強になった、みたいなことが書いてあります。
勉強の基本は独学なので全て独学でやってもいいが、それだと捗(はかどら)ない。
自力で努力したところで、生徒には分からない点を指摘してもらうことは
自力だけでやるよりも効率が良い。
自力では数年〜数十年掛かる場合もあります。
それよりも先達(せんだつ=先輩のこと)にちょっとしたコツを教えてもらえば
時間の節約になります。
とはいえ、先達が教えるコツなどを、聴いただけで分かるレベルになっておくことが
前提です。だからそこまでは自力で達して無いとなりません。
つまり、自力と他力を巧く使って行くしかありません。

(※ウロ覚えなのですが、中学校の教師をしている人の投書を読んだことがあります。
  この先生の教え子の中に数学が出来る生徒がいたそうです。
  ところがこの生徒は家庭の事情で高校進学が出来なかった。
  先生はとても残念に思いました。

  生徒が中学校を卒業してから10年以上経ってから生徒から先生に手紙が来た。
  数学の夢を捨てきれず毎日数学を勉強していたんですと。
  そして最近数学の定理を発見した、と言うのです。
  それは今の高校生なら誰でも習う、ナントカの定理でした。
  この先生は、生徒のことを思うと運命とは惨(むご)いものだ、と思ったそうです。
  私もこの生徒さんは気の毒だと思いました。
  高校〜大学へ行っていれば、きっと数学者になったことでしょう。

  この生徒ですが、独学でなんとかの定理を発見したが
  それが今の高校の教科書に載っているものだ、と知らなかったのでしょう。
  そうなる前に誰かが「今の高校の教科書を勉強してごらん」と
  一言アドバイスするだけでもだいぶ事情が違ってきたのではないかな。
  生徒さんは数学の頭は良いが、生活の知恵が無かったのでしょう。
  勿論この生徒の努力は無駄では無い。
  でも、勿体無い。
  
  これが独学の限界です。
  
  独学だけでもダメ、誰かが教えてくれるのを受身で待っているのもダメ。
  自力の努力をしてから自分に足りない部分を指摘してもらい、
  また自力で努力をする、ということの繰り返しが良いのではないかな)


また、自分よりモノゴトが分からない人が相手の場合でも
その分からなさを見て、自分は何かを学ぶことが出来るし、
自分より分かってない人でも今までして来た体験が自分とは違うので
そういう人から学ぶことが出来ます。
趣味興味得意分野は違うのでね。
その場合、自分よりモノゴトが分からない人であってもその人は自分の先生です。

つまり
●自分と同程度
●自分より分かって居る人
●自分より分からない人
の全てから学ぶことが出来る
のです。

そしてこのことは秘密でもなんでもなくてちょっとモノを考える人なら分かっていることです。
「我以外皆我が師」という言葉が有りますね。
剣豪の宮元武蔵が残した言葉だそうです。

(※この言葉も「そりゃそうだよ」と安直に分かってしまう場合と、
   きちんと考えて分かる場合とがあります。
   分かり方は読み手の能力が限界です。
   なので様々な段階の理解の仕方があります)

(※私は自分以外の人は皆、先生だと思っています、と言いつつ
  じつはそうでは無い人はいます。
  自分が語っている言葉の意味も分かってない人です。
  どういうコトかと言うと・・・
  自分より「上」だと思う相手のことは先生だと思っているが、
  自分より「下」だと思う相手のことは先生だと思ってないのです。
  なのに口では「自分以外は皆先生」と言う。
  え?
  自分以外は皆先生と言うなら、そのように行動すればいいんだし、
  そのように行動していない場合は、自分以外は皆先生と言わなければ良いのです。
  言ってることとやっていることがちぐはぐなのですが、
  それを他人に指摘されてもすぐには分からず、
  この件については何度も説明しなくてはなりませんでした)



つまり
「常に先生である」人など居ない、「教える一方の人」など居ない、ということ。

或る場面ではAさんが先生、或る場面ではBさんが先生です。
お互いに教えあうのが普通ではないですかね。
人にモノを教える職業の人が居ますが、そういう人も
学校や大学を出れば他人からモノを教わることが殆どのはずです。
(※ところがこういう当たり前のことを知らない、低次の教師がいます。
   いつでもどこでも自分は他人にモノを教える人だ、と
   ハッキリ言語で自覚はしていないが、無意識にそういう考えで生きている人。
   周囲の人間からは呆れられていますが、そういう人は周囲の人間の考えなど
   分からないので気づきません。
   ここでは具体例は挙げませんが私の親戚にも居ます)

<50の坂>


私は相手が自分の子供くらいの年齢だろうといつでも喜んで教わっています。
反対に自分より年上だろうと、相手が分かってない部分については教えています。
多くの人は無意識無自覚に「自分には知らないことは無い」と思っているので
それ以上分かっていくことは出来ない。
今が最高の状態でこれ以上伸びません。
頭ウチです。
(※こういうのを「頭が固い」と言います)

頭を柔らかくしておかないと今は良いが50過ぎた時、
頭がガッチガチになり
「50の坂を越えられなくなる」のです。
(※50の坂を越えられない人というのは、
  年齢を重ねてもトシ相応の知恵が無い人のことです。
  体験による知恵が無い。
  なのに無意識に自分には知らないことは無い、分からないことは無いと思っている人)


50歳になるまでは若さと体力でなんとかやっていける。
若い人の場合は、無知でも周囲が大目に見る場合がある。
だからまだ良いが50歳になって無知蒙昧な上に「自分は間違って無い」と
無意識に思っていたら不味いです。
そうならないようにするためには若いうちから自分の頭と心を訓練しておくことしかない。
(※一見頑固に見えない人も数十年生きているうちに、
   無意識に「自分は正しい」と思い込んでいるものです。
   ぱとりさんのブログにそういうおばさんが登場しているのでご覧ください)



50歳になった途端、急に頭がガッチガチに固くなるのではないんですよ。
50歳までに徐々に頭がガッチガチになっていくのです。

若い頃からどんどん頭が固くなって行きます。
私が思うに思春期過ぎたら頭が固くなって行く。
少しづつ頭(心)が老化して行くのです。

(※25歳ってお肌の曲がり角だそうですね。
  でも本当は25歳は曲がり終えた頃なんだそうです。
   肌は多分赤ちゃんの頃が最高で徐々に低下していくのではないかな。
   見えないほど緩やかな変化なので分からないだけだと思います。
   これと同様、心=頭の方も見えないほど緩やかに固くなって行くのだと思う)


個人差は有ると思いますが、意識しないと頭は固くなるんです。
どんなに温厚で柔和な人でも頭は固くなります。
そしてそれを自覚できる人は殆どいないのです。
だって、モノを考えている自分の頭そのものがまさか、ダメだなんて思わないからですよ。
自分の考えが不味いなと思うそれ以前に
頭自体に問題があるなどとは、通常は思わないのです。
思考の落とし穴です。

<興味が有る人だけ読んでください>(2011年2月1日)


さて、心の姿勢を「自分には何か分からないことが有る」として生きている私です。
誤解する人がたまにいます。
「ifは自分が何でも分かっているつもりか」
「ifさんは何でも分かるんでしょうね」
と皮肉を言う人がいます。
こういうのを低次のサヌキ人間、と言います。
世の中で起こる事件や事故などの当事者や、
得意になって流行に乗る人など、です。
相似象の執筆者はそういう人から攻撃されることを恐れて
「通じる人、分かる人だけに本を販売して」いました。

なので本当は誰でも読める、こういうサイトで公にすることは不味いのですが
でもこういう時代なのでそうも言っていられません。
通じる人だけに通じれば良い、と思って記事を書いています。
興味の無い人や理解できない人は読まない方がいいです。

<イの次元、ミの次元>


イで分かるとは、意識の次元で分かること、頭で分かることです。
ミで分かるとは、身体で分かること、本当に分かること、腹に落ちること、です。

と、いうことをイの次元で分かっていた私は、最近ミの次元で分かる体験をしました。
(今までミの次元で悟ったことは何度も有るんですよ。
  今回悟ったことは「イの次元で分かることとミの次元で分かることの違い」を悟ったのです)

<中高年の頭の固さ>


皆さんの周囲にいる中高年の人について。
数人の方から「おばさんはどうしようもない」というメールをもらいます。
私もそう思います。
(※しかし、個人差というものがあり、30代でもどうしようもないのがたまに居ます。
     皆さんが50代60代のおばさんがどうしようもない、というのはそういう年代の人達に
     或る傾向がありますよ、ということであると理解しています)


相似象の先生(女性、高齢)は、
「私は若者にしか期待しない」と本に書いています。
本を書いたのが数十年前からなので、当時の若者は今中高年になっているのです。
当時、この先生から期待された若者も、年齢を重ねると、頭の固いただのおじさんおばさんになってしまうのか・・・

というのでは無いのではないか。
この先生は、当時の若者の中の、モノを分かっていける素質の有る人達だけに期待していたのでしょう。

頭が固くなる人は若いうちから頭が固くなるような心で生きているんですね。
だから中高年になった時に今までの生き方の結果として頭が固くなった、というわけです。



エジプトの情報を送ってくれるあやにゃんさんから。

今後エジプトがどうなっていくのか気になるところですね。
やはり行ったことのある国、友達が居る国というのは気になる度合いが違います。

先日、地元の公民館で集まっていた60代の男女10名ほどに向かって
エジプト情勢についてちょっと話してみたのですが、
誰もが対岸の火事としてとらえているようで興味がなさそうでした。
「エジプトってイスラム教でしょ、やっぱりイスラム教って怖いわね」
と、頓珍漢な反応が返ってきて、ずっこけました。


自分のことしか考えて無い人達ですね。
勿論その自覚は有りません。

「ひとりごと ぶつぶつ」の管理人さんは50代だと思いますが、こういう日記を書いています。
http://satoru99.exblog.jp/14641263/
中高年は自分達が知っている範囲内でのことしか受け付けません。
それを老化と言います。
普通の人は普通に老化しますから、殆どの人は中高年になると、こうなってしまいます。
自分達に理解出来ないことを言う人のことはとりあえず、バカにしたり無視したり敵意を持ったりします。

精神の老化は中高年になっていきなり始まるのではありません。
若い頃から徐々に精神が劣化した結果です。

<想念の転換>(2011年2月7日〜8日)


ウチの長女が小学生の頃言いました。
「考えないでおこうと思ってもどうしても考えちゃう。考えないでいることが出来ないよ」
賢いです。
小学生でこのようなことに気づくのは天才児に違いないと思いましたが
その後は特に優秀でもなく拍子抜けしました。
あの天才ぶりはどこへ行ってしまったのでしょう?

それはともかく、人間は目覚めている間、大抵何か考えています。
特に何も考えないでぼ===っとしている時もありますが、
意識してぼ===っとするのは簡単では無い。

映画「インセプション」の中で「何かを考えるな、と言うのは難しいことは分かるだろ?」
「たとえば『象を思うな』と言われたら頭の中に何が浮かんだ?」という台詞が出て来ます。
その通りで「考えるな」という指令に対して「はい」と、無念無想になれる人は滅多に居ない。




さて、目覚めている間、自分が考えていることの質がそのまま自分、だそうで。
(人は考えていること、そのものである、みたいな格言が有ります)
で、一日中何かしら考えているのなら、良いことを考えた方が良いです。
でも、そうはいかないのが人間です。
私がしょっちゅう「自分は想念が悪い」と書いてますが、事実だからです。
その想念とは・・・


いろいろ不味い想念を抱いていますが、たとえば「親が悪い」というのがあります。
私の親が大変な分からずやと普通の分からずやだったので、とても苦労しました。
そして今日(こんにち)の状況も親が原因で有る、と考えるからです。

今日の状況とは、この場所に住んでこういう暮らしをしている、ということ。
それ自体は特に問題はありませんが、
私が若い頃、親は子供を自分の思い通りにしたかったので、
子供達はすんなり生きることが出来ませんでした。
最低限のことは子供自身に選択させて欲しかったのですが、
あの年代の人は「子供は親の命令に従うのが当たり前」という意識だったので
自分達が間違っているとは夢にも思わない。

親がそのような人間であることから派生する様々な問題について「親が悪い」とつい、考えてしまう。
一日に何回も何十回も考えてしまうなぁ・・・と、気づいたのが去年の暮れか、
その前か忘れましたが、とにかくそのような状態です。
これは不味いです。




すると先日、ふと思いついて行ったぶっくナントカという店で105円で売っていた本。
そこに良いことが書いてありました。
そこには
「不味いことを考えてしまったら、右腕を斜め45度上げて
手首をくるくる回し、『キャンセル、キャンセル』と唱える」
とか、書いてありました。

想念の悪い私としては非常に参考になる文章です。
で、それを意識して生活してみたら一日の大半を「親が悪い」他
もっとヤバいことを考えている私は、一日中右腕を斜め45度上げて
手首をくるくる回し「キャンセル、キャンセル」と唱えなくてはなりません。
下手をすると腕を下ろす暇も無いくらいじゃありませんか。
それでは生活にも支障をきたします。
困りました。
<想念の転換方法>


悪想念を抱いてしまうのは習慣のようなものです。
なので気がつけば悪想念を抱いている。
(あくまでも私の場合ですよ。皆さんは想念がきれいなので大丈夫です)
「親が悪い」と思ったら即、そこに言葉を付け加える。

●親が悪い・・・ということは無いな。
●親が悪い・・・ような気もするが、良いこともしてくれた。
●親が悪い・・・だけじゃないな、自分も悪い。
●親が悪い・・・のは、ああいう世代だから仕方ない。
          あの世代にしたら良い方ではないか?
●親が悪い・・・と言えば悪いのだが、自分を育ててくれたことはありがたい。
          大きな病気もしなかったし大きな怪我もしなかった。
          かなり大雑把ではあるが、こうしてちゃんと大人になれたことは
          親が育ててくれたおかげである。
          その恩を思えば多少分からずやで意地悪でも、それはたいしたことでは無い。
          お父さんお母さんありがとう。
          感謝します。


と、無理やり転換する。
まぁ、無理やりでも無くて、考えてみれば当然のことばかり書いていますが。




皆さんの中にも親に対して忸怩(じくじ)たる思いを抱いている人がいますね。
悪想念が湧いたら即座に言葉を付け加え、他の意味に転換してしまったら如何でしょう?

「お母さんはちっとも分かってくれない・・・と、思ったが
自分も分かってあげて無いのだった(てへっ♪」
とか。

悪想念を対戦相手と見なすと、相手(悪想念)の力を利用して(言葉は打ち消さず)
良い方に転換してしまう・・・言葉の合気道とでも申しましょうか、そんな感じ。
言葉を打ち消すのは効果が無いのではないかな。
「お母さんはちっとも分かってくれなかった」「あ、ダメ!こんなこと思っちゃ!」とか。

と、いうことを思いついたので、ここに書いておきますね。
<意見が来ました>(2011年2月8日)


PANDORAの<想念の転換>の話、ちょうど私も同じような事を最近考えてました。
私もボンヤリしてたら1日のうちに8時間は腕をグルグルまわさないと
いけません。悪想念だらけです。
観察すると、自分の変な思い込み・思いグセがほとんど原因ですね。
ハッと気付いて転換・訂正するのに結構忙しいというか、悪想念パトロールしてます。

で、やっぱり「こんなことを思ってはいけない!」と自責の念(私はダメな人)
を持つことも悪想念のひとつなんですよね。逆効果。

 

例えば「親がこうこうこうだからイケない、何で分からないのだ、ちくしょう」
と思ってしまったら、無理して「親・感謝」と訂正せず、
自分の中に「高い次元の賢く優しいもう一人の自分」の意識を呼び、
怒っている自分と対話します。
すると、高次の私はいつも愛情たっぷりにニコニコ笑っています。
否定も肯定もせず、ただ聞いているだけ。
すると、怒っている私は怒っているのが馬鹿らしくなり、気が済んでしまうんです。

 

それから、元の自分に戻り、「なぜそう思うのか?」を分析し始めます。
そして、親の良い所や今まで育ててもらったこと、何だかんだ言って愛されていること、
などを冷静に考えます。ポジティブな面をひたすら思う。
そうすると無理なく感謝の念があふれてくるんですよ。
間違っている所もまるごと「有り」だと。

 

我流ですけど、私はこんな事やってます。
面白いのは、高次の自分と低次の自分の両方の意識を
同時に感じられることです。
イライラする自分も賢者の自分も、間違いなく同じ私なんだ、と思えます。
イライラしてもOK!だって怒ってるんだもん。
ただし、その感情を置き去りにせず、
味わいつくして大事に扱おう、と考えられるようになりました。

以前は

「イライラ」
  
「これじゃイカン。私って最低…」
  ↓
「問題から逃げる、堂々巡り」
  ↓
「最初に戻る。」

になってましたから、ちょっとは成長したかな…

なるほど、自分(心、想念)の中にいる、高次元の存在と対話するんですね。
それは良い考えです。

誰でも良いから自分以外の人に分かってもらえば、気が済むという面があります。
(なので他人に愚痴を言う、というのも効果があります。
  人間だもの、たまには愚痴が出ますよ。
  ただし、愚痴ばかり言っていると、今度は愚痴を言うことが快感になったり
  他人とのコミュニケーションの手段になってしまうので、
  そこは気をつけましょう)


現実の人間に居ない場合は(居る場合でも)
自分の中の高次元の存在と会話すれば、気が済み、心が晴れやかになるでしょう。
とりあえず心を晴れやかにしておいて、毎日の生活の中で
悪想念が沸かないよう、自分でもモノゴトを分かっていくことや
思考力(判断力)をつけていけば良いと思います。