相似象の考え方 5


思いつくまま書いています。
ここに書いてあることは私なりのサトリに基づいているので決定されたものではありません。
あくまでも一意見として参考にしてください。

記事は下に追加されます

相似象学会誌「サヌキ・アワのサトリ」を抜書きしているブログ

<レベルに達するということ>(2011年2月10日)


これから語ることは私の頭では無理、という気がしてならないのですが、
書いておかないとならないので、仕方なく書きますね。


或るモノゴトを分かるレベルというものがあります。
そのレベルに達している人には分かり、達して無い人には分からない。
当たり前のことです。

相似象は特殊な思想ではなくて、当たり前過ぎて
意識すらされないことを言語化(文章化)しただけのものです。
ところがこの「当たり前」には様々なレベルがあり、
或る人にとっての当たり前が、或る人にとっては当たり前ではなく
全く知らない、分からない、想像を絶するものなのです。

たとえば・・・真夏の炎天下、
駐車場に車を止めて窓を締めきり、中に幼児を入れておく。
寝ていたので起こしたら可哀想だ、という理由です。
そのまま両親はパチンコを数時間。
当然子供は死にますが、親はそれを予想することが出来なかった、、、、、、
と言う事件が毎年起こっている。
この件に関しては
「炎天下に車の中に幼児を数時間放置したら命に関わる」ということを
「知っている人」と「知らない人」とがいます。
或るレベルのことが当たり前に分かる人と、
全く分からない人とが居るのだ、ということです。
多分皆さんは上に書いたことは当たり前のように分かると思います。

<「差」という言葉に感情的に反応するレベル>


会社員に例をとると
入社一年の人と、入社十年の人とでは
仕事に関することの判断力に差が有ることは分かりますね?
個人差は有るが、いくら素質と頭が良くても十年の人と比較すれば、
仕事に関することは分からない。
当たり前ですよね。
それを一年も十年も同じだ、と言ったらおかしい。


判断力は人によって高い低いの差は有ります。
これは厳然とした事実です。
ところが、そう書くとそれを「悪い」と感じる人がいるようです。
これがレベルの差です。

或る人は「判断力に差が有るのは当たり前だ」と思っています。
しかし或る人は「判断力に差が有るということを言うことは差別だ」と思っています。

前者の人は事実をありのままに受け止めていますが、
後者の人は事実を自分の価値観や感情で曲解していることは分かりますか?
これが分かる人と分からない人とが居るのです。


後者の人は多分多くのことを「良い、悪い」と価値判断をつけているのではないか。
さらに、自分が判断力の乏しい人を前にすると差別するのでは?
自分が他人を差別するので他人も他人を差別すると思っている。
確認も無しに、です。
これを
「鏡の法則」と言います。
(※「鏡の法則」は相似象の言葉では有りません)
自分がそうだから他人もそうなのだ、という大変低次元の自己中心な思いです。

ところが世の多くの人はこのレベルに居る。
と、書くと「ホラ!差別した!」となるのが普通です。
しかし世の多くの人が言葉を正しく理解せず、自分の思い(価値判断)のままに
世の中や相手を見ては断罪するレベルにあることは事実ですね。
いえ、日本人全員を調べたわけではなくて、
体験や他人の体験、世の中の情報から考えています。


相手の判断力が低い場合、バカにして差別する人は、
「判断力に差が有ります」という当然の言葉に感情的に反応する。

ところがモノの分かった人は、相手が判断力が乏しい場合は
「相手に分かるよう、噛み砕いて説明する」
「相手が分かるようになるまで待つ」
「相手が分かることは諦めて、お守りをするか、人知れず苦労を背負い込む」
「相手の判断力では理解は無理であると、容赦をする」
とかの反応をするものです。

しかしこのレベルに達して無い人は上のようなコトを想像することが出来ません。
そのレベルの人は相手をバカにして終わり・・・なのではないか?
だから、「判断力が低い人がいます」というのを聞いたり読んだりすると、
自分と同様、その人も相手をバカにするのだ、と思い込んでしまう。

と、書きましたが、実はこれ、相似象の先生もそう書いてます。
自分に理解出来ないことを攻撃する人は居るから、
危険なので相似象を公にはしませんでした。
理解できないなら離れていれば良いのですが、自分が理解出来ないのに
近寄り、理解した気になる人。
理解できないので攻撃に転ずる人の方が多い。
だったら離れていればいいのにねw


と、いうことを分かる人と分からない人とがいます。
もし、この文章を読んで分からなければ読まなければ良いのです。
と、いうことを分かりますよね?

<勝手に理解する人>(2011年2月16日)


モノゴトを理解出来ないならそれで良いのですが、
困ったことに自分なりに理解してしまうのです。
このことは相似象の中で何度も警告されています。

どういうことかと言いますと・・・

或る言葉を発する。
それを聞いた人はその言葉を自分なりに理解してしまう。
もとの言葉は日本語で、しかも平易な文章なので、それを聞いた人は
まさか自分がそれを理解できないなどとは思わない。
本当は理解していないのに、理解したのだと思ってしまうのです。
(日月神が「慢心と取り違え、いっとう怖いのぞ」と言っているのはこのコトです)

最初の言葉が外国語なら、それを聞いた人は「分かる」とは思いません。
外国語なので分からない、と思います。
でも、最初の言葉が日本語なら?
そして平易なら?
分からないとは思えないのです。

だから人は、まさか自分がその言葉を理解していない、理解できないなどとは思わず
勝手に自分なりに「理解」してしまう。
全然理解していなくてもそう「思って」しまうのです。
だから厄介なのです。

<大人と子供の理解の仕方について>


子供の場合は、基礎知識が無いので、初めて知る言葉(文章)に対して
(あ、それ知ってる〜)とは思わない。
いや、ちょっとは思うかもしれないが、新しい意味付けに対して(オレが知っているのと違う)と
思う度合いは、大人より少ない。
だから子供は大人に比べてモノゴトを勝手に理解する度合いが低いと言えます。
でも、大人の場合は、或る言葉を聞けばそれは既に自分の経験の中に有る場合が多く
既に自分なりの意味づけなどが有るので、新しい意味づけを受け入れる度合いが
子供より少ないのです。

だから大人は新しい概念を理解することが子供に比べて苦手なのです。
年齢が上がれば上がるほど、新しい概念、言葉の意味を受け入れる能力が下がるのは
仕方ない現象ですね。
既に頭の中に情報があるのだから、それをまっさらにするのは大変難しいのです。
(※映画「アバター」にはこれについての言葉が何度も出て来ます。
   これがこの映画のテーマであると言っても良いでしょう。
   「器がいっぱいになっているので、もう入らない」とか言う、ナビの言葉です)


大抵の人は無意識に「自分は何でも知っている」「自分は大抵のことは知っている」
「自分には知らないことは無い」と思っています。
意識して思えば良いのですが、不味いことに無意識に思っています。
「自分は何でも分かっている」「自分は大抵のことは分かる」「自分に分からないことは無い」
こういうことを無意識に思っています。

お子さんを登校拒否にする人は特にここらへんを確認してみましょう。
そういう人は大抵、良い人です。
とても善良で常に世のため人のため、或いはもっと狭く家族のためにと生きています。
でも、それだけではいけないのだ、ということを知らない。
だからそれを分からせようとして、お子さんが無意識に学校へ行かないのです。

<論理のこと>(2011年2月22日)


論理について思いつくまま書いてみます。
<理詰め>

相似象を学ぶ主な目的の一つに「理詰めでものを考えられるようになる」というのが有ります。
頭の中が整理されておらず、ごちゃごちゃしていたら、ものは考えられない。

いや、それだって考えているんだよ。

というのが大方の考えですが、相似象ではそれを「低次元」「動物次元」であるとしています。

筋道を立ててモノゴトを考え、整理する(整序する)ことが出来るようになること、
これが目的の一つです。
<詭弁方便>


元総理大臣が「あれは方便だった」と言って、物議をかもしていますが、
政治家って詭弁と方便しか言わない人種だな、と私には分かったので
不思議でも何でもありません。

詭弁とは・・・



たとえば「国民に一人当たり一個づつ、メロンのような果物を配ります」と公約します。
さて、その政治家が当選すると国民一人当たり一個づつ、ミカンを配りました。
国民が「メロンじゃないじゃないか!」と怒ると
「いや、私はウソは言ってません。
 私はメロンの『ような』果物と言ったんです。
 メロンを配るとは言ってません」とか。



たとえば「国民一人当たり一個づつ、メロンを配る」と公約します。
さて、その政治家が当選すると国民一人当たり一個づつ、メロンの薄切りを配りました。
国民が「薄切りじゃないか!」と怒ると
「私はウソは言ってません。
 だって、メロンは配っているでしょ?
 私はメロンを配るとは言ったが『メロンを丸ごと一個配る』とは言ってません。
 薄切りだって立派にメロンです。
 それとも何?薄切りにしたらメロンではないと?」



たとえば「国民一人当たり一個づつ、メロンを配る」と公約します。
さて、その政治家が当選すると国民一人当たり一個づつ、「メロン交換券」を配りました。
国民が「メロン交換券じゃないか!」と怒ると
「いえ、私はウソは言ってません。
 まさか、私が国民一人一人にメロンを持参するとでも思ったのですか?
 そんなこと出来るわけが無いでしょう?
 常識で考えてみてくださいよ。」と言います。
国民は「それもそうだな。まぁ、しょうがない」と受け入れると

そのメロン交換券をメロンに交換するのは、様々な書類に記入したり
役所に出向いたりしなくてはならない。
国民が怒ると
「メロンが確実に一人一個行くようにするために、必要な手続きです」と言います。
国民が「それもそうだな。まぁ、しょうがない」と受け入れると
メロン交換は●月●日から●月●日までの短期間なのです。
それを過ぎたらもうメロンはもらえません。

国民が怒ると
「役所に長期間メロンを置いておくと腐ってしまいますから、短期集中で配りたいのです。
 どうか、そこのとこ、ご理解のほどを」と言って、面倒な仕事は地方に任せます。
下手をすると、メロン代を地方に出させようとします。
地方が怒ると「言うことを聞かないとオマエんとこには交付税は無し」と脅します。
地方がさらに怒って「やれるモンならやってみろ」と言うと、
逆らった地方自治体を晒し者にして抱腹措置を計画します。

政治家のことを893より悪いと看破する人が激増していますが、
国民がマトモにものを考えられるようになったからです。
政治家の質も堕ちているでしょうが、国民が賢くなった(論理的になった)のです。



こんな者を選んだ私達が悪いのです。
<差を分かること>


AさんがBさんの或る発言について「ウソをついた」と言いました。
それを聞いて私は「違う」と答えました。

Bさんはウソは言ってません。
ただ、本当のことを言ってないだけです。

ウソをつく≠本当のことを言わない

ですよね?

ウソをつく=本当のことを言わない

と、考えてしまうAさんの判断力は乏しいです。
この場合、Aさんはウソをつくことと本当のことを言わないことは別物であると
悟らなくてはなりません。
それで一つ学んだことになります。




AとBは違うと分かる人、分からない人

天気と晴れの違い
もみじとカエデの違い
時間と時刻の違い
ソフトとマイルドの違い
ソースとドレッシングの違い
(これらは言葉を正確に使わない人が混同して使っていますね)
(主人の母はこれらの違いが分かりませんが、大方の人もこのようなものです)


腕白と元気の違い
腕白と野放図の違い
おとなしい人と暗い人の違い
おとなしい人と弱い人の違い
良い人と弱い人の違い
自信に満ちた人と図々しい人の違い

願望と計画の違い
計画と予想の違い
心配と予想の違い
(たとえば、或ることについて、将来不味いことになることが予想される。
 それに対して何ら手を打たず、心が不安になって心配する人がいます。
 ちゃんと手を打てる人もいます。
 同じ事態に対して一方は予想するだけで心を動かさず頭を使いますが
 一方は頭を使わないで心がどんどん不安と心配で暗くなります。
 そういう人は予想=心配になってしまっています。
 それを超える境地に達して無いからです)


モノゴトが殆ど一緒くたになっている人がいます。
頭の中を整理することが出来ず、思考することが困難な人。
常に頭の中は混乱し、その結果言動行動も混乱(辻褄合わない、理屈に合わない)しています。
<抽象化>


相似象で「抽象化する能力を持て」と説いています。

「リンゴが3個、ミカンが5個有ります。
 では果物は何個あるでしょう?」

という小学校の算数の問題を例に挙げてみます。
ここでこの文章を抽象化出来る子供と出来ない子供が出て来ます。

抽象化出来る子供は「リンゴもミカンも果物だ」と考えることが出来ます。
果物という大きな集合の中に、個々の果物、
リンゴ、ミカン、メロン、バナナなどが有ると分かります。

ところが抽象化できない子供は「リンゴとミカンは足し算できない」と思ってしまう。
「リンゴも果物、ミカンも果物だけど、リンゴとミカンを足せない」のです。
そういう子供は抽象化できないのです。

集合、分類、カテゴリーの概念が頭の中に無い子供。
その概念を習得するのが困難な子供。
モノを考える際には具体的なこと、具象、実物を基にして考えることしかできないので
抽象的な思考が出来ません。


これは子供だけの話ではなく、大人の半数、いや殆どがこのレベルにあると思います。

リンゴとミカンを果物というカテゴリーに入れてなんなく足せる人と、
果物というカテゴリーに入れるという抽象的なことが出来ない人がいます。
そしてそれは既に子供時代から分かれているのです。
ちなみに私の兄弟で言えば
私とすぐ下の弟と末の弟は抽象的思考が出来ます。
私以外の二名は数学が得意です。
中の弟と妹は抽象的思考が出来ず、
妹は小学生時代にはリンゴとミカンの足し算が出来ませんでした。


私の中の弟は、婿入り先で、家族(奥さんの姉)の批判をし、
義父(奥さんの父)に
「家族の批判をするものでは無い」とたしなめられた。
次に弟は、他の家族の批判をしました。
それも義父にたしなめられた。
次に弟は他の・・・
弟は最初の一件で「家族の批判をするものではない」ことを
悟らなくてはならなかったのですが、
モノゴトを抽象化できない頭なので、それが分からないのです。
「家族」というカテゴリー分けが出来ないからでしょう。


抽象化がなんなく出来る人から見ると、理解し難い行動ですがそういうレベルの人は存在します。
抽象的な助言を聞いても理解できない人がいる。
抽象的な命令を聞いても理解できない人がいる。

その反対に抽象的な命令を理解する人がいます。
仕事をする場合、こっちの人の方が使い安い。
上司としては大変ありがたい、こういう部下に居て欲しい。

と、書いたがこれはあくまでも「抽象化」に限った話です。
論理には抽象化以外のこともあるので、抽象化だけが出来ることが
その人が論理的にモノゴトを考えられるというコトではありません。
従って抽象化は出来ても他のことができない、わからない部下は上司も使いづらい。



相似象が読める人は少ないが、面白いと感じる人はもっと少なく、
理解出来る人はもっと少ない。
相似象で
「陶酔してはいけない」と説いていても、相似象自体を陶酔して捉える人がいます。
相似象は論理と抽象能力を鍛える本です。

と言っても別に難しい学問の本ではありません。
当たり前のことが書かれているだけです。
<余計な情報が付いてしまう人>


これも大変多い。

たとえば・・・

お姉さん=優しい

とかね。

何の根拠があってお姉さん=優しい、になるのか?
そりゃ世の中には優しい姉もいるでしょうよ。
でも、優しくない姉だって居ますよ。
お姉さんが優しいのは、単なる属性です。
姉と優しさが不即不離のものではありません。
お姉さんが必ず優しいわけがありません。

お姉さん=優しい

と言うなら

お姉さん=怖い
お姉さん=厳しい
お姉さん=意地が悪い
お姉さん=すぐ苛める
お姉さん=他人行儀
お姉さん=残酷
お姉さん=無関心
お姉さん=彼のことしか頭に無い
お姉さん=弟妹をコキ使うことしか頭に無い
お姉さん=隙あらば妹の彼を狙っている
お姉さん=自分だけが得をしようと企んでいる
お姉さん=親の介護を他の兄弟に押し付け、自分は遠い所に住み、
       遺産だけはしっかりもらおうと計画している


というのも有ります。

お姉さんと優しさの間には、何の関係も無いのです。
優しいお姉さんはたまたま優しいだけで、全てのお姉さんが優しくありません。
お姉さんと、優しさを切り離して考える必要が有ります。


本体と属性を切り離して考えることが必要です。


モノや人を見て、受けるイメージはあります。
しかし、そういうイメージが湧くことと、その対象が本当にそうなのか、というのは
また別の問題ですよね?

本体=イメージ

になっている人が殆どではないか?
だから、マスゴミがまるでA氏が犯人としか言いようが無いような報道をしても
そのことと、本当にA氏が犯人であることとは別ものです。

本体≠イメージ

です。

しかしこの差が分からない人が殆どなので、マスゴミやK札県札が
まるでA氏が犯人であるとでも言うような報道をして国民の目を欺き世論を誘導します。
最近の例ではオザワ氏などがそういう目に遭っています。

某国だけでは無いと思うが、国の本当の支配者は決して表には出てこない。
政治家などはオレがオレがの連中であって、本当の権力よりも
自己顕示欲の方を取った(選択した)連中です。
選択するしか無かったとも言える。
だって本当の支配者が見えないし、見えたとしても他人がその地位につくわけにはいかない。
同族でやっているのでね、他人は入れないのです。
だから次善の策として政治家をやり、自己顕示欲を満たすしかないのかな・・・と思いますが。


上というか奥というか陰というか、そういうところに居る人達は
国民がバカで一生懸命働いてくれることだけが望みですね。
そのためにはありとあらゆる方便詭弁を使います。
日月神が「学と知」と言ってますが、そういう人達はそういう方面において
非常に賢いのです。
国民がそういう方面においては苦手なのです。
だからやられ放題ですね。



方便詭弁を見抜くには、自分がそれ(方便詭弁)を理解し使えなくてはならない。
それが出来る人が増えています。
相手を理解しようと思ったら、相手より下に居ては無理。
この場合の下というのは、相手の詭弁・方便の能力よりも、
自分の詭弁・方便能力が下、という意味ですよ。
良い悪いの価値観の話では無い。




ところが最近はネット社会のお陰であちらこちらにポツンポツンと存在している
「陰の連中の方便詭弁を見抜ける人」が登場しています。


昔、ロシアの皇帝ニコライUが大学(ロシア一番の大学)の前を
馬車で通りかかった際
「狼の群れが居る」と言ったそうです。
帝政に対する脅威である、という意味です。
学生達は普通のロシア人と違って論理を身につけていますから
為政者側にとっては脅威以外の何者でもなく、従って学生を狼と形容したニコライは賢い。
しかしこれほど賢いニコライUもその後革命が起こり、本当に狼に襲われたように
一家全員惨殺されてしまいました。
<仮定の話が分からない人と、仮定の話を延々とする人>


仮定の話というのが有ります。
「もし〜〜だったら、〜〜だ」という話。
私は仮定の話は誰でも分かるものだと思って数十年生きて来て
今住んでいる町に引っ越して来ました。
するとそこには「仮定の話を理解しない人」が何人も居たので驚きました。
多分、世間では仮定の話というのは、主婦はしないのでしょうかね。
全員調べたわけでは無いので分からないが。

このようにこんなに簡単なことだと、私が思うことが理解困難な人がいます。
別にバカにしてはいません。
そういう人は私が苦手な分野で大変有能だ(と、思う)からです。
たとえばとても働き者、家事をきちんとしている、毎日食事を作るとかです。
私にはそういうことが出来ません。


また、仮定の話を延々とする人がいます。
こちらはネットのお客さんの中に居ます。
最初に「もし〜〜だったら」ということから始めて、延々と語るのですが、
これって無駄ではないでしょうか?
だって、前提が事実ではなくて仮定の話だからです。
仮定の話なのに、どんどん話を膨らませて行って語るという点は、
私には時間の無駄に思えるのです。

勿論本人が「これは仮定の話なのだ」と自覚していれば良いです。
でも仮定の話だったのに途中からそれを忘れて、元が事実であるかのように
なってしまう人。
不味いと思います。

私も仮定の話はしますが、最初から最後まで仮定の話として語ります。

<一つ分かると二つ問題が発生>(2011年2月25日)


私がここで相似象について私が分かっていることを語ろうと思ったのは
個別に教えるのが面倒だからです。
本当は相似象はこのように大っぴらにするものでは無い、というのが
宇野女史の言葉。
でも、もうそういうことは言ってられないので、開始しました。
聞く耳を持たない人、素質的に無理な人に相似象を語るのは無謀です。
そういう意味で大っぴらにしない方が良いのです。

もう一つは、一つ分かると、分からなくてはならないことが二つ発生するのです。
これは私が友人の相手をしていて痛感しました。
たとえば・・・



子供を全員登校拒否にしてしまった母親がいます。
私の友人です。

最初その人に会った時、子供は1歳半くらいでした。
でもその人は物事が殆ど分からない人で
価値判断も出来ない、というか、しない。
自分の頭の中に価値観が無い。
分からない。

その子供は長ずるに従って同じ年齢の子に苛められるようになりました。
それではいけないでしょ、母親のあなたがしっかりしなさい、とアドバイスしましたが、
しっかりするってどうやればいいのか、分からないのだそうです。
通常なら叱る場面でも叱らない。
きちんと対処できない。
思考力が殆ど無い。
しかし頭は良いし成績も良いのです。

頭の良さ、成績、知能指数と、分かることとは全く別物です。




苛め仲間外れ登校拒否非行とどんどんエスカレートして行きますが
私が何を言っても理解しないので、記憶も出来ないようでした。
たった一つ、その人が分かったことは「自分の育ち方に問題が有る」ということ。
ああ、良かった、一つ分かった・・・と思ったら、事態は悪化。
今度は「自分の親が自分をきちんと育ててくれなかったので、自分はこうなってしまった」
という思いから一歩も出られなくなった。
手放せない。
何故ならそれは過去のことで今から解決など出来ないからです。
解決できないんだから、それを理解しなくてはいけないが、
頭で分かっても心が分からない、納得できない、認められない、悲しい・・・という状態。

さらに私に対しては「私の気持ちなんか分からないでしょ」となってしまった。
その通りです。
他人の気持ちは想像するだけで、同じ気持ちにはなれません。
今度はふてくされるというか、心の状態が悪化。

この状態で数年〜十数年過ぎたと思います。




今ではその人は思考力もつき普通になりましたが、途中は暗闇の中に居るかのようでした。
一つ何かを分かると分からないこと、分からなくてはならないことが二つ以上出て来ます。
だから「分かり方を分かる生き方」は大変困難です。
でも学校の勉強だってちょっと難しい問題を解けた時が楽しいので
普段から頭を使わず、何も考えないで生きていてもそれは楽しくない、と思います。
また、そういう人のために用意されているのが相似象です。




もしこの人が相似象を知らないで生きていたら・・・悲惨なことになっていたと思いますよ。
一時は家庭崩壊寸前でしたから。
私はといえば別に感謝されてないし、謝罪もされていませんw
でも、まぁ、いいや、と思います。
とても良い人なのでモノゴトが分かるようになり、無難に生きられたことが良かったです。


バシャールも似たようなことを言っていました。
「一つ疑問が解けると二つ疑問が発生する」みたいな言葉です。
そんなもんなんだろうと思います。

<整序/分類>(2011年3月3日)


これは相似象の本には載っていません。私の意見です。


分類することも整序の一つです。

私のサイトは分類をしてあります。
大きく「人間の話」「パンドラの壷」「あなただけの絵」などに分けていて、
それぞれをさらに細分化しています。

ここまではいい。

「パンドラの壷」の中がさらに細かく分類されていますが、
分類することが難しい記事も沢山あります。
それは幾つかのカテゴリーにまたがっている記事のことです。

先日ホラリー占星術のrindenさんから「不思議なサインの話が有ります」とメールがありました。
で、話を聞いてみたら、rindenさんは「これは日常の異次元の話でしたね」と言うのです。
「いや、サインでいいでしょう」と答えておきました。

起こった現象は異次元っぽいんです。
でも、それが意味することはサインなのです。
だからこの場合は日常の異次元とサイン、両方にまたがっているのですが
現実的には両方のカテゴリーに記事として載せるわけにはいきませんから
どちらの意味を優先させるか、ということが問題です。
この場合は「サイン」としました。

また、先日私が書いた記事。
江戸時代の浮世絵師が描いた「隅田川の向こうにスカイツリーのようなものが描かれている絵」
は、「直感について」に記事にしましたが、これは「日常の異次元」でも良いのです。
この場合は絵師の直感ということを優先させたので「直感について」に載せました。

このようなことが沢山あってその都度(悪い)頭を悩ませているのです。
ブログも同様ではないですかね?
ブログでもカテゴリー分けを細かくすれば、どちらに入れるか悩むところですね。
カテゴリー分けが大雑把で全てを「不思議話」とすれば、楽になりますが。

対象をカテゴリー分けすること。
これも整序の一つであり、非常に頭を使う作業です。

(なのでなかなか分類は進みません。リンクページの分類はまだ未完成です)


日常生活においては分類に関してはここまで厳密に頭を使いませんが
それに近いことは多々あります。
モノの管理や収納などに、この能力を使うことがあります。
主婦は慣れでやってのけますが。

家事なら特別なことはしなくて良いので簡単ですが、
頭の中を分類するのは難しいですね。
でも、それをするのが整序です。

主婦の中には頭の中を整序出来ない人が多いように思えます。
思考がごちゃごちゃしているのです。
これではマトモな思考が出来ませんね。
でも本人はそれを自覚できないのです。

<分かるには時間がかかる〜その時々の判断力>(2011年3月5日)


私がよく「分かるには最低半年はかかる」とか、書いてます。
具体的な疑問に対する答えは早くて半年後くらいにならないと来ない、というほどの意味です。
あくまでも目安なので、必ず半年後ですよ、という意味ではありません。
それより早く分かることもあります。
でも半年だって実は早いのであって、一年くらい経たないと人は判断力を増せないと思います。



簡単なことなら半年くらいで分かるかもしれません。
でも実際は「それ」を分かるにはかなりの長い年月が掛かるのです。
事例を挙げますと・・・

私が若い頃、たしか二十代でした。
新聞の投稿欄だったと思うのですが、そこにこんなコトが書いてありました。
投稿者は中年女性です。

或る日役所から係員が来て、その家のお祖母ちゃん(中年女性の実母か姑)について
書類を作成することになった。
その係員が言うにはお祖母ちゃんが病気だということにすれば、
お金の面で優遇されます、病気ってことにしたら?と言った。
それに対して中年女性は憤慨しているのです。
「良いことは願っても来ないが、悪いことは思えばすぐ来ると言う。
 それなのにこの係員の人の言い方はヒドイ」と怒って投書していました。


それを読んで私は「それって係員の冗談だと思う。
或いはその家の人が本当に優遇されるよう、知恵を出してくれたのだと思う。
どっちにしろこのおばさんは憤慨する必要は無い」と思いました。


折りに触れその件を思い出します。
最近も思い出したのですが、その係員は嫌な思いをしただろうな、とは思っていたが、
そのことについてさらに深く考えることが出来ました。
つまり、
冗談や思いやりが通じない家庭に来て、うっかり不味いことを喋ってしまった、
そのことについて後悔したろうな・・・と、分かったのです。
さらにこの係員はこの件を役所に通報されるかもしれないと気が気じゃなかったろうな、
と思いました。
毎日ビクビクしていたのではないか。
気の毒に・・・


それまで係員の気持ちをここまで思いやることは、私にはありませんでした。
ひたすら「このおばさん、変」「このおばさん、冗談通じない」「このおばさん、心が狭い」と思うだけ。
約三十年、主におばさんのことしか考えてなかったこと、
係り員についてはさらっとしか考えてなかったことに気付いたのです。

また、このおばさんの家の老婆が姑の場合と実母の場合でも、事情は違ってくるな、と。
おばさんが正直なのか、そうではなくて恣意的にそのような態度をしたのか、
いろいろあると思います。

またこのおばさんは「良いことは願っても来ない」「悪いことは思えばすぐ来る」と
思い込んで生きている世代なのだ、と分かった。
このような意識で生きていたら、他人のちょっとした言動にいきり立つでしょうな。
自ら不幸になるタイプだな、しかし、このタイプというか、レベルの人ってこの世代には多いのではないか、

とか、気付いたことが幾つもありました。


ここまで分かる判断力が付くまで三十年かかっています。
毎日この件について考えてはいませんから、そのくらいかかってしまったとも言えるが
では毎日考えればすぐ回答が出たか、というと違うのです。
答えが分かるには「答えが分かるまでの判断力を身につけない限り不可能」です。
また「答えには様々な段階(レベル)が有り、どの段階の答えでも一応答えである」なのです。
このように、人生の途中で出会った「問題」に対して答えが出るのにはとても時間が掛かりますが
判断力を上げることはそのくらい時間が掛かるものなのですよ、という例でした。
長丁場なんです。


そしてこの問題はこれで終わりではありません。
まだまだ思考は続きます。

この問題に関しては「この係員は軽口叩かないで事務的に仕事をすればよかったのでは」とも思います。
思うけどやはりそのくらいのことで感情的になるおばさんの方が悪いと今のところは思っています。

そのうち私にもっと知恵がついたら、答えが違ってくるかもしれません。

<サトリとは>(2011年3月7日)

上の記事<分かるには時間がかかる〜その時々の判断力>のように
サトルこととは何の変哲も無い、面白くもなんとも無い、素晴らしくも無いことです。

上に書いたことを既に分かっている人が読んだら
(そんなコト当たり前だろ)(今頃分かったの?)と、思うようなことなのです。
特殊でも何でもありません。



相似象の師匠宇野多美恵女史の本の中に
女性達が相似象を勉強していたら、そこに男性がやって来て
相似象の本を一冊手に取ってちらっと見て
「なんだ、女の読む本かっ」と言ってその本を放り投げた、と書いてあります。
宇野女史は生きていれば90歳以上なので、この男性は今では70歳以上ではないかと思いますが
この年代にはその程度の男性が普通だった、ということではないでしょうか?

だから日本がダメになったのだとも言えますねw

<整序/基準>(2011年3月10日)


これは私の意見です。相似象にはこのようなことは書かれていません。



分類と関係が有るのですが、分類する際に何を基準にするかという問題が生じます。
たとえば
「絵の不思議話」のコーナーで絵をリーディングする人の場合は
「先着順」にしています。
古い人が上の方になっています。
特に意味はなく、他のところでこのような基準を当てはめていないので
ここだけはそうしています、
様々な基準を使い分けているのです。
(とは言ってもまだまだリンクのコーナーは分類が進んでいませんが)

友人ブログの並び方は
「アイウエオ順」にしています。
これもある程度更新が頻繁なブログを集めているので更新が少ない場合は
下の方の「更新少ない」コーナーに移動させています。
そうすれば更新したかな、と無駄な期待をせずに済みます。

これらは基準が一つの場合です。



古本屋に行くのも好きで、ブックなんたら、にもよく行きます。
するとそこには「定価の約半額コーナー」がありますが、
そこに置いておいても売れない場合、一定の時間が過ぎるとなんでしょうかね?
「105円コーナー」に移動しているようです。
ウチの主人がブックなんたらを知らないので先日教えてあげました。
すると、その店へ行った主人が帰宅して言うことには
「本を値段で分類しているw」ってことでした。
本を値段で分けて陳列しているなんて・・・と言いたいようですが、
ブックなんたらだって値段だけで分類しているわけではありませんよね?
半額コーナーと105円コーナー、それぞれをさらにカテゴリー分けして陳列していますよ。

普通の本屋の場合はカテゴリー分けするだけで良いのですが
新しいタイプの古本屋の場合は、値段と内容との二つの分け方を同時にやっているのです。
普通の本屋より大変ですよね。

二つの基準を基に分類するというのは良くあることです。



PANDORAのリンクページの「リンク2」。

「日月ブログ」は更新が多いのを優先させて上に置いてあります。
しかしそれだけではなく、日月神示をそのまま載せているのより、
自分なりに意見などを載せているのも上に方に持って来る要素にしています。
また「ありがとうブログ」も更新が頻繁なのを上に持って来ていますが、
内容も重視しています。
つまり
◆更新の度合い
◆内容

の二つの基準によってあのような順番にしています。
このような基準を設けた理由は・・・
更新が頻繁な人と殆ど更新しない人とが発生したからです。
なので仕方なく、という感じです。



私はサヌキ人間なのでどうしても分類や仕分けや区切ることをしたくなってしまう。
それがなされてないと整理されてない、混乱している、乱雑である、と感じます。
(ただしコレはサイトに限定していますよ。
  生活そのものには興味が無いので、家庭内のことを必死になって整理するということはありません)

サイトの整理は心の赴くままに実行しています。

そして基準そのものを様々な方法にしているのは
偏った基準から発生する不公平を減らしたいからです。

不公平を減らす努力をしてもまだ不公平は存在しますが、
最初から不公平を減らす努力をしないのよりは
「やらないよりはマシ」だと思うからで、実行しているのです。
(こういうところが天秤座ですかね)
(何事にも偏らないのです)

(家事が大嫌いってのも天秤座の特徴だそうです)
(これらは相似象には関係ありませんが)



また、上も下も無いのだ、とは思います。
しかし物理的に「全てのモノを同じ場所に置く」ことは不可能ですよね?
なので分類すること、そのために基準を設けることは別に差別では有りません。
と、いうことを不必要に感情的になるような人
もいるでしょうが
そういうことでは無いのだ、ということです。




以前勤務したいた高校で聞いた話。
組合の力が強い高校の場合、職員名簿を男女混合で作ったところもあるそうで。
それは平等を念頭に置き、男も女も無いのだ、という観点からだということは分かるのですが
いかんせん、使いづらい。
名簿は使い易いことが重要なのに、そこに男女平等という、この場合それほど重要では無いことを
基準に持って来たのでコトが却って複雑面倒になっている高校が有った、と職員が言ってました。


これは基準の設定がおかしいと思いますね。
基準というのは意外と難しいのです。



このように「分類する場合は何を基準にするか」という問題が生じるのです。
その基準が無い人、頭の中に価値観などが無い人は普通にいますよ。
いや、そういう人は
「皆が言っているから」「皆がそうしているから」という
実態の無いモノが基準になっているのです。

皆って誰でしょう?
全員ですか?
100%の人ですか?
そんなコト有るわけ無いでしょう。


という根本的なことには思い至らないレベルです。


自分の頭の中に基準となるものが無い場合は、当然基準がありませんから
従って整序もできなくて、常に混乱するしかありません。

<ジタバタ運動>(2011年3月24日)


これは相似象の言葉です。
(ジタバタ行動、かもしれません。誰か調べて教えてください)

低次元の人が思考をせずに、ワケも分からず行動することです。

思考しないと言っても本人なりには思考しているのです。
たとえそれが思考と呼べない代物であっても。

或るコトをする場合、完璧な思考を100とします。
そのコトをするのに必要な思考力を60とします。
これはそのコトをするのに必要最低限な思考力です。
学校で言えば合格点です。
完璧な思考は満点です。
(これは仮定の話です)

或るコトをするのに60の思考力が求められるのに30しか無いとしましょう。
これではマットウな行動が出来ません。
思考力が足りないのだから。
そういう人が取る行動をジタバタ運動と、相似象では言います。

整理しますと
或るコトが起こったとして、それに対して行動する必要が出来た時、
思考力100の人=理想的な行動ができる
思考力60以上の人=理想とまでは行かないが、妥当な行動ができる
思考力が60未満の人=ジタバタ運動をする



たとえば今回の大地震後に人が取った行動は大きく三つに分けられます。
@=最適な行動を取る
A=普通の行動を取る
B=ジタバタ運動をする


@は地震後に津波が来ることを即座に予想して避難するなど
Aは被災地のことを考え自分の消費を最低限に抑えるなど
Bは買いだめに走る、パニックになる、放射能が出たと聞けば自分だけ逃げるなど


相似象の先生曰く
「世の中で事件や事故、話題になることは殆ど(全てか?)
 低次のサヌキ人間がやらかす」というような文を書いてます。
アワな人はそこまでの行動力が無いか、
或いはアワな人でも行動はサヌキですから
(アワは心、サヌキは行動です)
アワな人が低次のサヌキを発揮する。



事例を挙げます。
私の近所に実家が有る人がいます。
今は都内に住んでいます。
地震後の原発事故の後、怖くなって一人で関西に逃げたそうです。
これがジタバタ運動です。
このような行動をしても意味が有りません。
何故なら
1 関西に住居は無いのだから、一時的に逃げてもそこには長い間居られない、
   と、いうことが分からない
2 家族は放射能の害が及ぶ範囲内に住んでいるが
   家族が被曝したとして、自分ひとりで助かっても後が困ると考えない
   (いや、被曝した家族の面倒を見る予定かもしれない)
3 関西に留まるお金を充分に持っているのだろうか?
  金が尽きたら帰らなくてはならないが、それをしたら元の木阿弥では?
  逃げるなら一生逃げていないと。
  それとも一番危ない時期だけ逃げておけば
  少しでも放射能の害から守られると思ったのか。
  それも一理有る。
4 そもそも関東地方の放射能の害ですが、逃げるほどだろうか?
   一説によれば害どころか効能すら有るらしいし、
   放射能より西日本の黄砂の方が危ないそうです。


この人は途中で自分の愚に気付いたそうです。
出来ることなら行動する前に気付けば良かったな、と思います。
気付けるほど、心が落ち着いていなかったようです。
つまりパニックになっていた。

ジタバタ運動とはパニックになることも含まれます。
軽いパニックである、と言えます。
低次元の人間はこのように無駄な思考、言動、行動が多い。
必要な思考言動行動が殆ど有りません。

そしてこのような次元に居る人が多いのです。

<気付くって難しい1>(2011年4月13日)


精神世界の人がよく「気付きましょう」と言います(書きます)ね?
ちゃんと分かって言ってる人も居るでしょうが、
分かってないで言っている人が多いのではないかと、思っています。

私の経験では、そう言っている人で、
自力で気付ける人をまだ見たことが有りません。
たとえば今から8年ほど前かな?
精神世界の片端に居る人と出会いました。
その人は口癖のように
「気付きましょう」「気付いてください」と言って(書いて)ましたが
本人は気付いていたかと言うと、これが全く気付いていませんで
普通の一般の当たり前の人ですら分かることを本人は感受出来ないようでした。

では何故、このような分からずや
(感受性が鈍く、判断力が乏しい者)
いとも簡単に他人に
「気付いてください」「気付きましょう」などと言うのか?
こういう人は気づくということを陶酔次元で捉えている。
気付くということについて、きちんと理詰めで考えることは無く
自分が感じた通り陶酔次元で捉え、神秘思想に陥り、それを自覚していない。
自分が何かに気付いているのだと錯覚している。
だったら黙っておれば良いものを当人にはその自覚が無いので
平気で他人に
「気づきましょう」などと言えるのです。



この人は勤務先の会社の社長の奥さんから毛嫌いされていたそうですが
その理由を本人は分からないのです。
(※これを読んでいる皆さんはその理由が分かりますか?
   考えてみてくださいね)

この時点でこの人は気づくべきなのですが、このような日常の当たり前のことから
気付ける能力を持っていないので、気付かない。

こういう人に対してどこから説明していいものやら・・・途方に暮れますから
説明はしませんが、それこそこの人は
「自分が何も気づいて無い」ということに
早めに気付くことが必要ですね。

しかし自分の意識としては自分は気付いているのだから、
そういう人はこれから先、気付けるでしょうか?
気付けない可能性のほうが高いですね。
気付いていないのに気付いていると思っていれば
%で言えば99%は気付けないのではないか。
何かトンデモ無いことが起こり、今までの自分の感じ方、考え方を根本から
揺るがされるような事態になれば可能性は高まるかもしれないが、
なんとも言えません。

<気付くって難しい2>(2011年4月13日)


気付くというのは本当に難しいのです。
ウルトラC、トリプルA、★5つ、金賞受賞、世界No.1くらい難しい。
上のことを実行するのが難しいのは分かると思います。
そのくらい難しく、滅多にあることではありません。

何故気付かないのか?

盲点だからです。

対象をいくら見ても見えないからです。



MONO→「ネットのお店」
<麻紐1>(2011年4月9日)<麻紐2>(2011年4月12日)に関連させて
気付くことの難しさを書いてみますね。


@germaniaで麻緒さん製作の麻紐「玉の緒」を販売していた

Aしかし「玉の緒」を作るのは大変な労力が要るので月に1〜2本くらいしか作れない。
 
 (麻緒さんの作品は市販の材料ではなくて、特別に良いものを取り寄せて
    一本一本手でしごいて表面を滑らかにして作っています。
    なので凄く時間が掛かる。

    
麻緒さんはそれで儲ける気はないので価格は最小限に抑えてあります)

B毎月、麻緒さんの麻紐「玉の緒」を買えない人が出て来た

Cそれを知った私は(困ったな)(買えない人は気の毒だな)と思った。

Dその状態で数ヶ月経過し、「玉の緒」が買えない人が多数発生


それとは別に

(1)nicoさんは麻紐を加工して販売していた。それを私は知っている。

(2)nicoさんに麻紐を作ってもらう


私はCの時点で(1)を思い出せば素直に(2)に進めた。
ところが信じられないことに思い出しませんでした。
これが「気付かない」ということです。



麻緒さんの「玉の緒」




nicoさんの麻紐


ifの思考
C→(1)→(2)で問題解決

この図で言えば私が左と右とを突き合わせれば、一目瞭然、すぐ分かったことなのです。
Cの時点ですぐ(1)を思い出せばDは無かったのです。
気付かないばかりにDが発生し、しかも数ヶ月経ってしまいました。
その間、買えない人達には大変申し訳ないことをしました。




Cの時点で私が本気でなんとかしよう、この事態を改善しようと思えば
(1)nicoさんのことを思い出せたのですが、その時私は
ちょっと(困ったな)と思っただけで、真剣にならなかったので思い出さなかった。

思う≠考える

気付くまで、その時お客さんのことを考えればよかったのですが、
気付くための真剣さや本気度が足りなかった。


気付くために必要な真剣さ、本気さを発揮すれば気付けるのだと思います。
(※これがイマイマにキを入れる、ということ)
(※分かっちゃいるけど実行は難しい)


気付くってそんな特殊なことではなく、当たり前のことです。
気付く以前に当たり前過ぎて意識すらされないようなことです。
この玉の緒、麻紐の件で言えば
○分かる人にとっては当たり前過ぎて、気付くの気付かないのというレベルのものではない
●分からない人にとっては、想像を絶している

<気付くって難しい3>(2011年4月13日)


「ネットのお店」をやっている管理人さん達のHPやブログを見ていて
(ああ、気付かないんだな)と思うことが有ります。
そして(いつか気付くだろう)とか(いつ、気付くかな?)と思って待って(放置して)いると
全く気付かないようなんです。

なので数ヶ月間様子を見た上で管理人さんに改善するようメールします。
その時、管理人さんは全く気付いてなかったようですが、
提案の意味はすぐ了解する場合が多い。

こういう管理人さんは分からずやでは無いのです。
ただ気付かないだけ。

分からずやの場合は、指摘された言葉の意味が理解できない。

気付かない人と分からずやとは違います。



よほど頭が良い人は違うでしょうが、普通の人なら
自分が気付かないことが沢山有ります。
気付くことの大切さ、重要さを知っていても、そのことと
自分が気付けるか否かとは違うのです。

<気付くって難しい1>に登場した気付けない人について。
この人がやるべきことは「気付くという体験」ですね。
それを自分がやってみて初めて他人に気づくことの必要性を説くのが良いと思います。


その前にこういう人は陶酔次元を自覚し、まずはそこから抜け出たほうがいいです。
(※陶酔次元に居たことは悪いことでは有りません。
   そういう境地を体験したことは学びになるので)

<悟るって痛い>(2011年5月23日)


Pさんという人がいます。
性格は最高によく、本当に良い人です。
でも、物事がいまいち分からないようでした。

メールをやりとりすると、相手がどのくらい分かっているか、分からずやであるか、
私には分かります。
誰でも相手より判断力や思考力が上なら、分かります。
その時(ああ、この人は分からずやだな)と意識するか、
何となく感じるかの違いはあるだろうけど。

Pさんはとても良い人ですが、物事の分かり方が中途半端でした。
勿体無いです。
そしてこういう人は何年経とうと「同じ場所に居る」のです。
物理的な場所ではないですよ。
心の位置の話です。

○心がきれい、性格が良い
○判断力に乏しい

こういう人は沢山います。
いや、心がきれいなだけ良い。
殆どの人は心がきれいでは無いからね。

Pさんのような良い人が何年経っても変化が無いのは気の毒です。
何も言わないで放置していても良い。
私には実害は有りません。
でも、出来るなら自力で物事を分かる方向に向けてあげたいな、と思いつつ
数年過ぎました。
○このまま放置
○分かるようになる切っ掛けを作ってあげる

さて、どちらを選ぼうか・・・
と、あまり深刻にならずにいたら、アッという間に数年過ぎたのです。



ところが或る日或る時、何かの拍子にというか、ついでにというか、
何か切っ掛けが有ったと思うが忘れてしまったが
いつものように単なる思い付きでPさんに言いました。(メールで)
「しずさんとメールのやりとりをして、
自分が気付かない点を指導(教えて)もらってください」

と勧めた。
「つれづれなるまま」のしずさんにも
「Pさんが物事が分かるようになるよう、相手をしてあげておくれ」と頼んだ。
Pさんには申し訳ないが、しずさんのヂゴクの特訓を受けてもらいました。
(しずさんが怖いからでは無いんです。
  今まで生きてきて考えたことが無い人に、考えろということはその人にとってヂゴク、
   という意味です)

Pさんのように心はきれいなのに素直過ぎて心が何にも引っかからない人は
悟ることが非常に難しいからです。
こういう人は私の周囲にも沢山います。
(心がきれいなだけ、素晴らしいんですよ。殆どの人は心がきれいじゃないからねw)

期間はどのくらいか分かりませんがPさんは素直なので実行しました。

その後、Pさんが書く文章が以前とは見違えるほどしっかりしたものになっていました。
頭の中が整序(整理)されてないと書けない文章になっていた。
それで数年過ぎたのか、一年経ってないのか分からないが凄いな、と感心していました。



最近そのPさんが或る人を検索したが全然見付からないと言って来ました。
「その人なら○○というキーワードで簡単に見付かるよ」と教えました。
するとPさんは○○という言葉が浮ばなかったようで、
その頭の固さに自分でショックを受けました。

○○という言葉を思いつかない=頭が固い

と、いうことに気付くこと、これが悟りです。



以前のPさんなら何を言っても聞いても、受け取り方がぼやああんとしていて
分かっているんだか居ないんだか全然分からなかったから
もし、この場合、以前のPさんなら
自分が頭が固いから、そのキーワードが浮ばなかったのだ、ということには
気付けなかったと思います。
そして何がなんだか分からず、通り過ぎていたはず。
私の最小限の言葉で自分の性格の盲点に気付くことが出来るまでになっていたので
凄い進歩に私は驚きました。

素晴らしいです。

私は感心して
「凄いよPさん!」と褒めました。
するとPさんは
「いえ、ショックです。悟るって痛いですね」と返事。
そうなんですよ。
悟る(分かる、盲点に気付く)ことは心に打撃(痛い)を与えます。
かなりキツイ。
私だって気づかないことが沢山有り、その都度
あああああ!なんてアタシはバカなんだ!!!
と、痛〜い悟り方をしています。
暗くなります。



こんな痛い(嫌な、暗くなる)体験をするくらいなら、いっそ何も悟らない方が良い、
と無意識に「何も悟らない生きかた」を選んでいるのが多くの人ではないか。
悟らなくても生きていけますからね。
物事
(周囲のこと、他人の気持ち、状況、環境、事情、理由、原因、当たり前のこと)
分からないで誤解しまくって生きることは可能です。
こういう生きかたをすると不味いことが起きて来ますが
そういう時も「自分が何も考えないからだ」と思わなければ良いのだし。

どちらを選ぶのも自由です。




さて、Pさんは今回自力で悟ることが出来ました。
あとは同じように気付ける時気付いていけば良いだけです。
気付かなくてはならないことは本人にとっては盲点なので見えないのです。
「そこ」はどうしても見えない。
そのために第三者の目が必要です。
自分の心の中にもう一人の自分=第三者を持つこと。
自分を客観視することです。
(相似象でも提唱しています)

自力でやれるまでには時間が掛かるか、いくら時間を掛けても
一生できないかもしれない。
そのためにそのお手伝いということでしずさんが今、相談相手をしていますから
手伝ってもらうのも良い手です。




また、自力でやる方法として「書く行」があります。
これはもともとは「モーニング・ページ」という多分アメリカ発祥のやり方です。
ところがこの方法だとかなりの努力が必要となる。
様々な条件、制約があり、これが出来るくらいなら何でもやれる、と思えるほど
困難です。
私のような怠け者で適当な人間には出来ないので
私はこれをアレンジして簡単にしました。
私に出来ることは95%の主婦には出来ると思うのでぜひ、やってみてください。
「ありがとう♪見つけた!」のてらすさんが実行したら一ヶ月で効果があったそうです。




「しずさんに相談」と「書く行」を同時期にやっても良いと思います。
とにかく、自分を変えたいとか、願いを叶えたい人は三ヶ月間
集中してやってみたらいかがでしょう?
(しずさんに相談、の方の期間は自由で良いと思います)
その間は「自分は気付く人になる」と決めて、そういう意識で生きてみる。
心の姿勢を「私は分かる人間になる」と決めるのです。

Pさんのように悟る時は痛い思いをしますが、
○何も分からないで楽しく生きる
○痛い思いをしながら分かって行く

どちらの生きかたを選ぶのも自由です。

<ハイツーではありません>(2011年5月28日)


以前「人間のいろいろ」に<バカ遠慮>という記事を書いたが
理解出来る人と出来ない人がいるようです。
本当はそれに限定せずに、様々な記事を「理解出来る人」と「出来ない人」がいるようです。
理解できない人の、記事の受け取り方は多分「ハウツーもの」になっているのではないかと
思います。




バカ遠慮はするな、と書くと今度は「どんな状況下でも決して遠慮してはいけないのだ」
と受け取る人が居る、ということを知り、愕然としました。
自分が要らないものを「あげます」と言われても要らないですよね?
なのに何故それを断ることがバカ遠慮になりますか?
要らないのなら要らないのでは?

自分なりに考えないでただ字面を追って丸暗記するとそうなります。
また私の説明も短く、それを理解出来る人なら理解出来るでしょうが
理解できない人は理解できないでしょう。
(※だったら理解出来るよう、説明しろよ、と思う人がいるかもしれませんが
   理解する、しないはあくまでも受け取る側にかかっています。
   いくら懇々と説明しようと、分からないものは分からないのです。
   反対に分かる人はいわれなくても分かるのです)


バカ遠慮をするな、という言葉の意味を、
「いつ、いかなる場合でも決して遠慮してはいけないのだ」
と解釈した人は、他の記事も同様に勘違いをしている可能性が高い。
そういう人は相似象をハウツーものと受け取っている可能性が高いから
多分相似象は理解できないと思います。

だから自分なりに理解してしまう恐れが有るので、
そういう人には相似象の記事を読むことは勧めません。




ハウツーものとして捉えている限り、
判断力を上げるという「人間の話」の目的から外れます。


個々で判断力を上げる材料を提供しているだけなので
「こういうときはこうするモンだ」という記事も中には有りますが
(※これは、考え方の一例として挙げています。
   様々な場合において、短絡するのではなく、
   そこでひと考えせよ、という事例です)

そういう受け取り方をするのは相応しくない記事まで
「こういう時はこうするモンだ」と受け取ることは
害にはなるが益にはなりませんよ、と書いておきます。




ハウツーものでは無いのです。
こういう場合はこう考えます、という事例を記事にしているだけ。
この通りにやれとか、これが正解というのでもない。
ただ「考えなさい」と言っているだけなんです。

<向上心>(2011年7月4日)


相似象でも「向上心」と言ってます。
が、この向上心は一般的に言われるところの向上心とは意味が違う。




二十代の長女がテレビを見ていたら(?)四十代の男性アナウンサーだかコメンテーターだかが
「今の若者にはより良いモノを所有するとかの向上心が無い」と発言していたそうで
それを聴いて「違うな」と思ったそうです。




一般的な「向上心」=目に見えるコトやモノ。
              たとえばコトなら学歴、成績、
              モノなら金銭、所有物など。
相似象の「向上心」=心の豊かさ、波動、波動量、意識の高さ
               (上のことを可能にするための判断力、思考力)




テレビで働く人(テレビ局の社員でもタレントでも)達には
目に見えないコトを向上させる、という概念が無いのだろう。
勿論全員では有りません。
たまたまこの四十代男性がそうだった、という話ですがね。


とは言え。
この男性が世間一般からかけ離れているとも思えず、
多くの人はこの男性のような感じ方をしているのだろうと思います。
今の若い人は今の四十代以上の人達の考え方をしない。
中には大人に洗脳されて頑張って金銭獲得にいそしんでいるのがいるかもしれないが
若い人達は年齢の高い人達に比べれば、目に見えるものに関しての
「向上心」は無いか少ないようで、良いことです。


何故、そうなのか・・・原因は有るはずですね。

<動物次元>(2011年7月24日)


少数者向けの相似象なので世のなかの大多数の人には理解出来ず
頭で理解するものではなくて心(波動量)で理解するものなので
世の多くの人から誤解されるために、宇野女史は本を出版しても
一般向けに販売しませんでした。


その中でも最も誤解されて、そして攻撃される原因になりそうなのが
「動物次元」という概念です。

相似象を心で理解できない次元(精神レベル)の人がけもの次元なので
@相似象を理解できない=動物次元
A誤解して攻撃する=動物次元の人が

ということになります。




「動物次元」と聞いて
a:人をバカにするな!と怒る人は動物次元です
b:人を差別してはいけないと思う、とやんわりと反論する人も動物次元です


aのタイプが動物次元というのは、世のなかの常識から言っても
すぐ分かるのではないか。
野獣のような狼のようなライオンのような人を見て
(獣のようだ)と思うことは有りますね。

でも、bのタイプ、おとなしくて優しく思いやりに満ちた
羊のような山羊のようなウサギのような人を見て
動物次元であるとはあまり思わないかもしれない。
でもいくら大人しい草食動物でも「動物」なんです。



或る若い男性が掲示板に書き込んでいたか、ブログに書いていたのですが
「この世で心を持って生きているのは少数だ。
  その他の人は意識はあるが(目が覚めているが、寝ているわけではないが)
  心が無い」
と書いていました。
これは
「この世には心(潜在アワ量を波動量化した人、波動量化出来る人)を持った人は
 少なく(少数者であり)、その他の多くの人は心(波動量)が無く、
  動物並みの心(本能や物理的に反応するしかない)しか持って無い」

言いたいのだと思う。

この若い男性が世のなかの人を見て、考えて出した結論です。
良く見ているな、と感心しました。

こういう書き込みを見て「ヒドい!」と感情的に反応するなら
その人は動物次元です。
「良い/悪い」で判断するのも動物次元です。




電通やиHKが「B層」と呼ぶ人達は多分
「動物次元」の人達ではないか。
彼らも何かの目的があって人間を観察した結果、出した結論だと思います。
(電通、иHK怪しからん!と、いう善悪論はまた別問題です)
(怒ったり悲しんだり恨んだり・・・動物次元です。
  電通とиHKがB層という定義をつけているのなら
  なるほど、とそれを理解すれば良い。
  そしてその後「では私達はどうすれば良いか」を考えれば良いし
  「なるほど」で終了しても良い)



先日、M氏が「職場にいる人の多くがまるでロボットのようだ」
と語っていました。

上司の命令であれば部下である自分は命令に関しては
何も考えず従うだけ、という人が殆どだ、という話。
自分なりに考えない。

なので無茶な命令が来てもそれに対して反論せず
意見も言わず、ただ従うだけなのです。
そんな中でM氏一人、孤軍奮闘しているのですが
同じ部署にM氏の言うことを理解し興味を示し響く若者が二人いるそうです。
M氏の部署の人数を知らないが30人とすればそのうちの3人なので
1/10の人間には通じる、ということになる。
多分そんなもんです。




M氏が言うところのロボット人間は相似象で言うところの動物次元です。

○周囲の状況に本能的に反応する
○潜象勘が無いので目に見えることしか感受出来ないから
  目に見えることにしか反応しない
 
 (地位、数字、モノなど)
  隠れた意味や事情、状況が分からず、大局的な見方はできない
○したがって自己中心
  
(自分のことしか考えない。
   自分のこととは主に、自分の利益や安全など。
   他人のことも考えているよ!という場合は
   あくまでも「自分が勝手に考えた、他人のこと、利益」であって
   それが本当に他人のためになるのか、とは考えない。
   とことん自己中心だが自覚はしていない)

○一応考えはしても、それ以上は考えない
  
(考えることは自分の利益になるか、ならないかだけ。
   勿論その自覚無し)

○ロボット人間といえども喜怒哀楽はあり、一応は思考しているので
  本人にはロボットの自覚無しであるばかりか
  自分は世のなかによく適応しているとすら、無意識に思っている
○人間として求められる
「心(波動量)」が無い
  有るのは動物次元の本能。

M氏が言うロボット人間とは相似象で言うところの動物次元です。
最先端のロボットと動物が同じ、ということです。
両者は同じもので言い回しが違うだけです。




ネットで見つけた若い男性、M氏、私、年代性別住んでいる場所は違いますが
世のなかを見ていてそれぞれが感受したことは「同じ」です。
別に相似象を知らないと不味いとか、
相似象にしか真理は書かれて無いというわけではなく
むしろ、相似象は
「当たり前のことを言語化しただけ」のものなので
良く観察すれば、悟る人は悟ります。

<アワと潜在アワ量と波動量>(2011年7月24日)


生まれつきアワなタチとサヌキのタチの人とがいます。
生まれたばかり〜子供の場合、知恵が無いのでアワは波動量化されていません。
それを潜在アワ量と言います。
これは生まれつき量が決まっています。

波動量化されたアワを「心」と言います。
この場合の「心」とは知恵の有る大きな(懐の大きな、人間性の大きな)心のことです。




閲覧者の方がよく理解していないのに、自分勝手に定義をしていたので注意しました。
こういう、生半かなことをやらかすのが低次のサヌキです
(相似象にも書いてあります)

<分かることと、変わること>(2011年8月17日)


或ることを分かるためには、それが分かるまでの波動(レベル)を獲得しなくてはならない。
なのに、多くの人はそれが出来ません。

分かりたいと言いつつ、分からないでいる人は
分かることが「知識を入れること」だと、思っているのです。

知識をいくら仕入れても丸暗記しても、それは分かることとは関係が無い。
ただ、知識が増えるだけ、です。



分かるためには、分かるまでの波動を獲得しなくてはならないのです。




つまり、「それが分かる波動」にまで、自分を高めれば良い。
それは「自分が変わること」です。
自分がそれを分からないレベルに居たのなら、そこから向上して
分かるレベルにまで「変わる必要」が有ります。

<潜在アワ量と波動量>(2011年9月5日)


潜在アワ量とは生まれつきその人が持っているアワの量です。
多い少ないがあります。

波動量とは潜在アワ量が鍛えられて波動量化したものです。




生まれつき潜在アワ量が多い人を少数者と言います。
出生人口の7%生まれて来るそうです。

この、少数者の中で、自分の潜在アワ量を鍛えて波動量化
(波動を高め)した人をヲサと言います。
少数者に生まれただけでは、ただの少数者として一生を送ります。
別にヲサではありません。




分かりにくいのでたとえ話をしますね。

潜在アワ量を水にたとえましょう。

潜在アワ量が少ない一般の人の水を家庭用の鍋に入った水だとします。
大きさは普通サイズで味噌汁やインスタント・ラーメンを作るくらいの鍋です。

潜在アワ量が多い少数者の水を家庭の風呂の湯船に入った水だとします。

両方を弱火で温めてみます。

鍋の水は弱火なら30分で温まりますね。
でも、同じ弱火で湯船を温めたらどうでしょうか。
やる人は居ないが何日も掛かるのではないでしょうか。


温まった水、つまりお湯を「波動量」とします。



よく「大器晩成」と言いますが、このことです。
大きな器に入った水を温めてお湯にするには時間が掛かる。
小さい器ならすぐ温まる。

人間の場合は
潜在アワ量が少ない人は湯船の人より波動量化するのが早いかもしれないが
規模が小さい。
潜在アワ量が多い人は波動量化するには途方も無い時間が掛かるが
その間諦めることなく、負けることなく、温め続ければ
つまり、毎日少しづつでいいから、体験を積み知恵に転換して心を大きくしていく
作業を続ければ最後にはさしもの湯船も温まり、つまりやっと波動量化され
人を温めるという偉業を成し遂げることが出来る、と喩えても良いかもしれない。



アワはそれを見る目のある人にしか見えない。
(潜象)
なので潜在アワ量の多い人はなかなか知恵もつかず
(湯船が温まらず)低次の人達にはバカにされる傾向があります。
(低次の人とは潜象勘の無い人のことです)

この世界がどんどん低次のサヌキ社会になってしまったので
アワ量が多い人には生きにくいが、それでも
生まれついたタチとしてそのように生きるしかなく
周囲に話の分かる、というか、潜象が見える人(潜象勘の有る人)が居れば良いが
そういう人も少ないので、生きるのが大変なのです。

なので少数者に生まれた、7%の人の中で自分の潜在アワ量を鍛えて
波動量化してヲサになれる人は1%くらいだそうです。
他の人は「どう生きたら良いか」が分からず社会や低次の人達に負けてしまい
精神を病んでしまうそうです。




幸いなことに私は少数者には生まれませんでした。
少数者なんて冗談じゃないとすら思います。
(少数者とは自ら進んで苦労を背負い込み、そのことで満足する人です)

それでもこの社会の低次元さは放置しておけないと思っています。
が、孤軍奮闘しても何にもならないですね。
なのでこうして潜在アワ量が多く生まれた少数者の人が
生き易くなるよう、そういう人達を叱咤激励し、援護射撃をしているのです。
(援護射撃をするってところが既に低次元のサヌキなんですけどね)
(あ、アワ量の多い低次のサヌキねw)

<サヌキ、アワ>(2011年11月16日)


私は幼稚園の頃から「自分で考えていました」。
先生が「○○です」と言っても、鵜呑みにしないで
幼稚な頭で(でも××ではないのか)とか
多くのお友達が○○をしても、それを真似しないで自分は××をしていました。
(こういう人間は「協調性が無い」と見なされます。
  学校や職場でも扱いづらい人間という烙印を押されます。
  それでも落ち込まないのが低次のサヌキです)




私は常に自分で考えていましたが、
知識が足りないので思考力が乏しかった。
思考力が乏しいので、もっとちゃんと考えたい(判断したい)のですが
それが出来ないことが歯がゆかったです。
幼稚園の頃から大人になるまで
「何か違う」「自分には何か分からないが分からないことがある」と思って来ました。
なので相似象と出会ってからは考える力をつけられるようになったので
「こりゃあ良い方法を発見した」面白いと感じました。
(これが32歳の時です)

私はたとえ頭は悪くても頭人間(サヌキ人間)です。
アワ人間は相似象と出会うと心の満足を得るようですが
私はこれで頭の満足(思考することが出来るようになるという満足)を得ました。



10月30日に行われたPANDORAのお話し会(OFF会)で
鏡作家のiさんの話を聞いて泣いていた人が多かったようですが
そういう人はアワ人間であり、心に響いた(感動)したのです。
私はiさんの話はとても面白く興味深かったです。
頭(知識、情報、判断力など)が満足しました。

<整序/優先順位1>(2011年11月16日)


思考力が乏しい人は頭の中がごちゃごちゃと整理されておらず
だから思考できない。
何をどう考えて良いのか分からない。
いろんな考えが脈絡もなく浮ぶ・・・のではないかな。




ごちゃごちゃになっている頭の中を整理するためには
幾つかの手段がありますが、その一つに
「優先順位」をつけることがあります。


その優先順位の付け方にもいろいろありまして
たとえば・・・
○こっちの服は気に入っているから保存しておくが
  こっちの服はもう要らない
○同じ日にAさんの結婚式とBさんの結婚式が重なった。
  Aさんの方が好きだがBさんには義理があるので
  困った、どちらを優先させよう。

とかいう事物に即した単純なものがあります。
これはこれでその都度判断していただくことにして(わらい)
そうでは無い、もっと基本的な優先順位の話をします。

<整序/優先順位2>(2011年11月16日)


思考や行動の基準の優先順位の話です。

人はそれぞれ意識的、無意識に優先順位を作って生きています。
これが無い人もいるでしょうが数は少ないのではないか。

事例を挙げてみますね。
私は「自分の気持ちが良い」のと「他人に認められる」ことなら
迷わず「自分が気持ち良い」方を選びます。
自分が気持ち良い>他人に認められる

これ、
自分が気持ち良い=他人に認められる
になっている人が居ます。
他人に認められることが、自分にとって気持ち良いことなのです。

しかし私は
自分が気持ち良い≠他人に認められる
です。
他人に認められることは自分にとって気持ち良いことでは無いし
気持ち悪いことでもない、両者には何の関係も無い、という
レベルになっています。



何故ここで「レベル」という言葉を持ち出したか、説明します。

他人に認められることが自分にとって気持ちが良い人は
自分が持ち良くなるためには、まず他人に認められる必要が有りますが
他人とは皆、同じ意見感想感覚であることはまず有りませんから
他人の一人に認められたとしても、
その他もっと多くの他人からは認められないことになり
そうすれば、その人は他人から認められないという苦痛を味わうことでしょう。


そういう人はここでひと考えすれば良い。
他人に認められようと思っても、他人は同じ意見では無いのだから
他人の一部から認められても、大部分の他人からは認められない。
だから他人から認められることが、自分の満足、気持ちの良いことで
あったとしたら、決してその満足は得られない。
と、思考すれば良い。




他人から認められること=自分が気持ち良い
になっている人はこのような思考回路でいる限り
決して気持ち良くなることは有りません。
このような思考回路そのものが低次元であると分かります。
なので「レベル」という言葉を使いました。


上のような思考回路になっている人は
その上のレベルである
他人に認められること≠自分が気持ち良い
を悟る必要がありますが、これが出来る人(悟れる人)と
出来ない人(悟れない人)とは出て来ます。
頭で分かっていても、心(境地)がそこまで上がらない人がいる。

その境地に達することが出来た人を
ミ(身)の次元で分かった人(悟った人)と言います。

頭に知識を入れるのは簡単ですが心が納得しその境地に達するのは
非常に困難です。

<「生きかたを変えろ」が陶酔なわけ>(2011年11月16日)


311の東日本大震災後に「生きかたを変えること」
「生きかたを変えろ」という声が出て来ました。
まぁ、それ以前から出ていましたが、震災後にそれが際立ったと言える。



では「生きかたを変える」とはどういう意味でしょう?



多くの人は「生きかたを変えろ」と言われても
○何を
○どう
変えれば良いのか分からないはずです。
分かっているのなら話は単純で
「ああ、変えればいいんだな」となって後は実行するだけですが
「何をどう変えれば良いのか」分からないんだから
いくら声高に「生きかたを変えろ」と言っても、多くの人には通じない。

通じないが多くの人は通じることなど望んでいないので
それで良いとも言える。




なのであちこちのサイトに
「生きかたを変えよう」「生きかたを変える必要がある」
「本当に生きかたを変えなくちゃダメだ」と書いてあるのを見るたびに
(ああ、この管理人さんには思考力が無い、乏しい)
(感覚でモノを言っているな)
(つまり陶酔次元だな)
と思うのです。

生きかたを変えろというのなら
○何を
○どう
変えるのかまで書かなくては、本気で分かりたい閲覧者には分からない。
もしそういうレベル(本気で分かりたいと思っている)の
閲覧者に分からせたいのなら、
○何を
○どう
変えるのかまで説明しなくてはならない。
それをしないでいて「生きかたを変えろ」と書いても
それは「意味は分からないが何か良いことに違いない」という意味においては
「お経」「念仏」と同じ類(たぐい)のものです。
従ってこのような記事を書く管理人さんは陶酔次元であると
私は判断します。


このような記事を読んだ人達は
「ああ、生きかたを変えなくてはならないんだ」と思う。
でもやり方が分からない。
或いは
自分なりに判断して「生きかたを変える」のです。
賢い閲覧者なら生きかたを変えることが出来るが
そうでは無い閲覧者の場合はやり方や方向が分からない。
なので何となく分かったような気になって終わります。
賢い閲覧者であれば自分なりに考えた「生きかたを変えた生きかた」が
正解に近いと思う。
しかしここまで賢い閲覧者なら他人から「生きかたを変えろ」と言われなくても
そんな「簡単なこと」はとうの昔に自力でサトリ、既に実行していることでしょう。



なので方法も方向性も示さずに「生きかたを変えろ」と書かれた記事は
毒にも薬にもならない、陶酔次元のものなのです。

しかし世のなかの殆どが陶酔次元に留まっているので
こういう記事はウケが良く読んでいるほうも陶酔次元なら
陶酔次元以上のものは最初から求めていない。
需要あれば供給有り、です。

<生きかたを変えるということ1>(2011年11月16日)


上の記事の続きです。

私も、今の人類はほぼ全員「生きかたを変える必要が有る」と思っています。
ほぼ、と書いたのは
「既に生きかたを変えることが出来た人を除いて」という意味です。
この期に及んでもまだ生きかたを変えてない人達は
早急に生きかたを変える必要が有ります。
とは言っても生きかたを変えられる人は少ないと思っていますが。



生きかたを変えるということには個人の単位で言えば
○意識を変える
○行動を変える(具体的に行動を変える)
とがあります。

(※行動を変える前に意識を変えるのが先だろ、と思うかもしれませんが
   どちらが先かは人によります。
   意識を変えるのはとても困難なので、簡単に変えられる行動から
   変えて、その結果意識が変るという面も有ります。
   勿論行動を変える前には「行動を変えよう」と、意識が変ったわけですが
   行動、意識、環境の三つは三つ巴のような関係にあり
   どこから変えても良いのです。

   その人に有った所から変えていけば良い、というか、それしか出来ない。
   だから人によります)


意識と行動が変ったら最後に環境が変ります。
すると環境が変ったことによって、意識が変り
行動も変ります。
これを何度も徐々に行って行く必要がある。
いくら行動を変えたくてもそれを可能にする環境が整っていなければ
不可能です。




また
○個人の生きかたを変える方法
○集団の生きかたを変える方法(家族、組織、自治体、国家など)
とがあります。


○集団の生きかたを変える方法の一つの事例として
●国家の生きかた(やり方、運営方法)を変える
というのが有り、この上に個人が立っているわけなので
まずはここを変えなくてはならないのですが
個人の力でここ(国家)を変えるのは至難の業であり
それが簡単に出来るようならとうの昔に国家の生きかた(やり方)は
変っています。



ということは、個人の生きかたは国家の生きかたに拠っているのに
国家の生きかたを変えずして、
その上に立つ個人の生きかたを変えなくてはならないという
大変困難なことを、私達はしなくてはならないのです。
これは現実的には実行困難か不可能。
(たとえば、原発で作った電力など使わないと決めても
  ウチに来ている電気が原発で作られたものか
  水力発電で作られたものか、分からないし選べない。
  で、自宅で太陽光発電するわけです。
  それをするためには莫大なお金が必要ですから
  そのお金を得るために企業に勤務したとしましょう。
  その会社では原発で作った電力を使っています)




国を動かしている人達を選挙で選ぶのは私達なので
だったら選挙で良い人、相応しい人を選べばいいだろ、というかもしれないが
今の状況はそれをし続けて来た結果なので、
ということは選挙で選べば選ぶほど、国家はおかしくなる、ということを
いくらなんでももう、皆が気付いて良い頃だと思うんですよね。


だから「選挙で良い人、相応しい人を選んで国を変えよう」という
方法ではダメだ、と早急に悟る必要が有ります。
そしてこのこと(選挙は無駄であるばかりか、どんどん悪化すること)を
分かる、ということも「生きかたを変えること」の一つです。

<生きかたを変えるということ2>(2011年11月16日)


多くのブログなどで盛んに「生きかたを変えろ」と言っているのは
○意識を変える
ことだと思います。


今の日本人(全世界の人が意識を変えなくてはならないが
今は日本人について論じます)は例外を除いて
全員意識を変えなくてはならないのは分かるが、
では
○意識の何を
○どう
変えれば良いのか、という話。




答え。
○意識の何を→全部
○どう→根本から
変えれば良い。

と書いたら理屈は分かるが具体的には全然分からない、
ということになりますね。



意識の変え方には
○抽象的な方法(概念など)
○具体的な方法(教え、道など)

があります。



具体的な方法というのは
「意識を変える方法を具体的に説明したもの」です。

「教え」や「道」のような具体的な意識の有り方は
日月神示など様々なものがあるのでそちらをご覧ください。

「〜〜しましょう」「〜〜してはならん」というように
具体的な方法を書いたものは沢山あります。




抽象的な方法は下に書きます。

<生きかたを変えるということ3>(2011年11月16日)


抽象的な方法というのは
「意識を変える方法を抽象的に説明したもの」ですが
変えるべき意識とは全部なのです。
ですが意識を全部変えろと言われたら、却って分からなくなる。
だから意識を変えるなら
その「全部」の中の一つから始めなければなりません。
その最初の、一つの事例とは何?という話になりますね。



その「最初の一つ」としてたとえば「優先順位を変えること」があります。

これで<整序/優先順位1>(2011年11月16日)
に話が戻りました。
まずは「意識を変えること」の取っ掛かりとして
「優先順位を変えること」の話をしようと思います。


今の世の中の様相がこのようになってしまったのは
「経済優先」で来たからだ、と心有る人や賢い人は分かっている。
その中で「これはいけない」と思い、「変えたい」と思った(決めた)人は
「経済優先の生きかたを変え、他のことを優先にした」と思います。
「他のこと」の内容は人それぞれなので皆違うと思います。
何を一番にしようと「経済優先」では無いので
それらの人達は

「生きかたを変える一つの手段として『優先順位』の見直しをした」

と言えます。



阪神大震災で「優先順位」の見直しが出来た人がいる。
しかしそれは少数だった。
で、今年の東日本大震災で「優先順位」の見直しが出来た人がいる。
阪神大震災の時より、数は多いようです。
○阪神の時より犠牲者の数が多かったから、ショックが大きい
○時代が進んだから、前回の教訓を活かせたから
○精神世界系、陰謀系の書物が増えたから
○インターネットが発達したから
○宇宙と地球の光が増えたそうで、人は以前よりサトリ易くなっている
○阪神の場合一地方の震災だったが今回は首都も影響を受けたから
○地震プラス放射能のダブルパンチだったから

などの理由が挙げられます。


それはともかく「生きかたを変える」という言葉の中身を考えてみれば
「優先順位の変更」が一番目に来るというか、
大きな割合を占めているのではないか
と思います。
ここを変えれば副次的に他の思考も変って来ます。
ドミノ倒しのように変ります。




思考(意識)が変れば行動が変り、
行動が変れば環境もそれに付いて来て変ります。
そうすれば新しい環境の下、思考もさらに変る。
そうすれば新しい環境と思考の結果、新たな行動が出来るようになる。
その結果さらに環境が変化する・・・と、三つ巴の如くどんどん変り
知らないうちに自分の意識は以前とは全く変っているのに気付き、
環境は以前と全く違っていることでしょう。

<分かるには>(2011年12月21日)


ではいったいどうしたら分かることが出来るのだろう?

そのためには
生まれ赤子の心=素直な心
にならなくては無理です。
赤ちゃんは何も知らないので、大人であっても赤ちゃんのように
「自分は何も知らない」と分かることが必要。

これが出来ない人が殆どなので、だから「分からない」のです。
たとえば・・・

私がしょっちゅう「何も考えて無い」と書きます。
この言葉は日本語なので読んだ人はすぐ「分かります」。
ところがその意味はあくまでも「自分なりに」分かっているだけなのです。



たとえば或る人が理解した「何も考えて無い」と言う言葉は
文字通り何も考えて無い、頭の中には何の思考も無い、ということだとしますね。
しかし自分の頭の中には様々な思いや考えが有ります。
(何も考えて無いなんて書いてあるが、そりゃ違うだろ)という「考え」が有るはずです。
そして
(ifは何を言ってんだ?)と「思考」が続きます。
このように多くの人は「自分なりに考えている」ので
相手の言うことを理解することが出来ません。



私が「何も考えて無い」という場合は
「必要なことは何も考えていない」という意味です。



(だったら最初からそう書けよ)



と、大抵の人は思うかもしれない。
誤解したのは自分のせいでは無い。
相手の言い方が悪いからだ。



という思考をします。



思考力の有る素直な人はこのような「思考」はしませんが
そういう人は例外的に少ない。




思考力に差が有る場合、相手より自分が下であると自覚があれば
(ifさんが言っていることは分からないが、きっと正しいのだろう)
(ではそれを理解してみよう)という思考になりますが
私より若い人でも何故か「自分の方が思考力が有る」と
無意識無自覚に思っているので、決してそのような思考はしません。

そして相手の言葉を常に自分なりに「解釈」「理解」して
つまりこれが「誤解」なのですが、自分は思考力をつける方向には行かず
その位置(思考力の位置、波動の位置)に居続けます。
これでは誰が何を言おうと理解出来ない。




「何も考えて無い」という言葉は事実言葉が少な過ぎます。
しかし「最小限の言葉で通じる人が存在する」
のです。
ということは
言葉が少ないから自分に理解出来ないのではないのです。
その証拠に
いくら言葉を尽くしても分からない人は分からない(相似象)からです。
理解出来るか出来ないかは言葉の量とは無関係である、ということ。


最小限の言葉が通じない場合は、最大限の言葉でも通じないものです。
それは聞く側の思考力が原因です。

(とは言え。やはり言葉足らずという場合も往々にしてあるので
  コトはそう単純ではありません)

<分かる人・分からない人>(2011年12月21日〜22日)


実例を挙げてみましょう。
実際にこのようなことが有ったわけではありません。
こういう場合、というのを仮定してみました。




たとえば水拭き掃除を頼んだとします。
汚れた雑巾を洗うのに
○台所の流し
○洗面所
の二箇所を使うとします。

洗面所で雑巾を洗うとゴミが排水溝に溜まり水が流れなくなります。
台所で雑巾を洗うのは汚いような気がするがこちらの方が良い、という場合。




【◎の場合】

◎私が何も言わなくても事情を察知して台所で雑巾を洗う人
 
 (この人は多分主婦暦が長く、家事経験が豊富。
    排水口が詰まると後でそこの掃除をするという新たな仕事が増えることを知っている)


経験によって知識を持ち、頭も性格も良い素晴らしい人です。
主婦なら「主婦の鑑」と言われる人。家族やご近所職場の人に好かれる人。
PANDORAのお客さんの一部がコレ。

【○の場合】

「どこで洗ったらいいですか?」と私に訊く人。
  
 (疑問点を意識化することが出来る人。つまり「気付く」人。賢いです)

経験によって賢くなっていける人。
家族や周囲の人に好かれ毎日少しづつ理解力と波動を上げられる人。
明るく楽しい毎日。(そりゃ困難は来るが対処出来る)
PANDORAのお客さんの中にもいます。




【△の場合】

△質問をせず何も考えず
(当人は考えているつもりで)洗面所で雑巾を洗う人
  
 (ひとこと質問して欲しかったが、何も考えて無いので質問出来ないのだな、
     と、私が「分かる」)

この△の人の中には・・・



△→◎私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「あ、そうか!」とすぐ事情を理解する人
    
 (これは洗面所で洗うべき、ということを知らなかったが頭が良いし
      素直なのですぐ事情や理由を理解した)


△→○私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊いた。
       頭は良くないが、理由を知ろうという姿勢。
       理由や事情を一瞬で理解察知できなくても、その都度理解しようという心は有る。
       私が説明をしたら理解した。

△→△私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら、言われた意味が分からず
      頭の中は(???)疑問でいっぱいだが、ifが言うんだから従おうという態度。
      頭は良くないが素直。

頭が良くすぐ理解するか、頭は悪くても性格が良くて素直に従う人とが居ます。

こういう人を相手にした場合、「教えてあげよう」という気持ちになるので
ちょっと面倒ですがサービス精神を発揮して理由を最小限の言葉で説明します。
PANDORAのお客さんの多くがコレですが
世の中の平均から見たらかなり高いと言えます。
(※最小限の言葉で説明しても分からない場合と分からないであろうと思われる場合は
   説明を専門にしている人を紹介しています。
   鑑定などをしている管理人さんなどに)


【▲の場合】

質問をせず何も考えず(当人は考えているつもり)洗面所で雑巾を洗う人
  
 (ひとこと質問して欲しかったが、何も考えて無いので質問出来ないのだな、
     と、私が「分かる」)

  こういう人に私が説明をしてもすぐ理解しない場合。

この▲の人の中には・・・



▲→▲私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊くが
     感情を害している。
     自分がやっていることにケチをつけられた、非難されたと思う感情的な人。
     頭は悪いし素直でも無いが、私が理由を説明したら理解した。

(自分なりの理屈をいう場合)

▲→×私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊くので説明をした。
     しかし説明を理解せず「しかしこっち(洗面所)で洗った方が良い」ということを
     力説する。
     ifの判断より自分の判断の方が正しい、と思っている。
    
 (誤解の無いよう書いておきますが、私は常に自分が正しいとは思っていませんよ。
      これはあくまでもシミュレーションです)

     私が説明をしても理解しない。
     理解しないが、ifが言うのだからと不承不承従うが頭の中は(???)だらけ。

▲→××私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊くので説明をした。
     しかし説明を理解せず「しかしこっち(洗面所)で洗った方が良い」ということを
     力説する。
     ifの判断より自分の判断の方が正しい、と思っている。
    
 (誤解の無いよう書いておきますが、私は常に自分が正しいとは思っていませんよ。
      これはあくまでもシミュレーションです)

     私が説明をしても理解しないので従わない。

     なので洗面所の排水口にはゴミが溜まり新たな仕事が増えた。
     新たな仕事が増えたのでそれでようやく私の言うことを理解した。

▲→×××私が
「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊くので説明をした。
     しかし説明を理解せず「しかしこっち(洗面所)で洗った方が良い」ということを
     力説する。
    
 ifの判断より自分の判断の方が正しい、と思っている。
     (誤解の無いよう書いておきますが、私は常に自分が正しいとは思っていませんよ。
      これはあくまでもシミュレーションです)

     私が説明をしても理解しないので従わない。

     なので洗面所の排水口にはゴミが溜まり
     新たな仕事が増えた。
     新たな仕事が増えたのだから、これで理解するかと思ったが
     排水口にゴミが溜まるのは当たり前だから別にどうだって良い、という考え。

    
 「仕事が増えたよね?」と私が言っても「だから?」という姿勢。
    
 「排水口を掃除しないとならないよね?」と私が言っても
    
 「すればいいんでしょ?別にいいですよ」という姿勢。
     この件でこの人は何も学ばないが本人にとっては学ぶよりも、
     自分のやり方を通す方が大事なのです。


▲→××××私が「台所で洗っておくれ」と言ったら「何故ですか?」と訊くので説明をした。
     しかし説明を理解せず「しかしこっち(洗面所)で洗った方が良い」ということを
     力説する。
    
 ifの判断より自分の判断の方が正しい、と思っている。
     (誤解の無いよう書いておきますが、私は常に自分が正しいとは思っていませんよ。
      これはあくまでもシミュレーションです)

     私が説明をしても理解しないので従わない。

     なので洗面所の排水口にはゴミが溜まり新たな仕事が増えた。
     新たな仕事が増えたのだから、これで理解するかと思ったが
     排水口にゴミが溜まるのは当たり前だから別にどうだって良い、という考え。

    
 ゴミが溜まることはたいしたことでは無いのだし
     自分はそのゴミを掃除することなどなんとも思ってない、大丈夫だ
     私はちゃんと働いている、それをifさんに分かって欲しい、と願う。
     分かって欲しいのにifさんは分かってくれない、悲しい、悔しい、という考え。
     上の例と比べるとおとなしいので「良い人」に見えるがレベルは同じ。

     この件でこの人は何も学ばないが本人にとっては学ぶよりも、
     自分のやり方を通す方が大事なのです。

    おとなしくて良い人であっても「理解する」という視点から見たら問題有り。

(こういう人を相手にした場合、説明をしてもすぐ理解しない上に自分なりの理屈を言うので
  非常に面倒なので付き合いは解消の方向に向かいます。
  会社で言えばリストラの方向です。
  縁を切れない場合、他人ごとの場合は、こういう人はいずれ痛い目に遭うだろうから
  そういうことにならない限りは悟らないので放置の方針になります)




(理屈は言わず感情を害す場合)

【×の場合】

×→▲私が「台所で洗っておくれ」と言ったら、言われた意味が分からず
   頭の中は(???)疑問でいっぱいだが、自分の疑問を質問しない。
   ifが言うんだから従おうという態度。
   しかし非常に気分を害している。
   自分のやることにケチをつけられた非難されたと思い込むがそれを表現しない。
   心の中は非常に面白くなく、ドロドロしている。
   自分が物事を理解しないことが原因で、不必要に感情を害している。
   私の意見ではウツ病の人はこれです。

×→×私が「台所で洗っておくれ」と言ったら、言われた意味が分からず
   頭の中は(???)疑問でいっぱいだが、自分の疑問を質問しない。
   iifの言うコトを理解しないので従わない。あくまでも自分のやり方を通す。
   何故なら自分の判断の方が正しいと思っているからです。
   従わない上に非常に気分を害している。
   自分のやることにケチをつけられた非難されたと思い込むがそれを表現しない。
   心の中は非常に面白くなく、ドロドロしている。
   自分が物事を理解しないことが原因で、不必要に感情を害している。
   私の意見ではウツ病の人はこれです。

(上の▲の場合より表面上は質問をしないし逆らわないので良く見えるが
 事態はもっと深刻であると言えます。
  本人は病気になります。
  こういう人に対して本気で相手をしてあげようと言う人は次第に減ります。
  救いようが無い状態ですが、説明も忠告も理解しないので周囲の人は
  何もやりようがありません)


幾つか架空の事例を挙げてみましたが、実際はもっと様々なケースが有ります。

さて、上の例は「たかが家事」なのでまだ良い。
これが会社だったらどうでしょう?
あなたが上司だとしたら自分の部下には◎か○の人だけで良い、と思いませんか?
まぁ、社会に出て間もない若い人が部下だった場合、
会社は新人や若い人を育てる、仕込むという役目も有るので△の人なら、OKか。
ていうか、殆どの人は△だと思います。

▲や×の人が部下に居たら会社はそういう人は「要らない」ですね。
なお、◎○△▲×の場合分けは便宜上作っただけです。
実際にそういうものがあるわけではありません。



さて、これはあくまでもシミュレーションです。
実際は「▲や×の上司」も多いと思いますよ。
▲の上司と▲の部下の組み合わせだったらどうなるのかな?
意外と意気投合するかもしれませんが、まぁそれは考えないでおきましょう。




相手の言うことが本当に自分よりも判断力が乏しい場合と
自分が相手よりも判断力が乏しい場合とがあります。
自分が相手より下に居ると分からないものなので
とにかく一刻も早く自分の判断力を上げることです。



一応、項目別にして整序してみましたが、なかなか大変(面倒)でした。
そしてこの項目別の説明が絶対というわけではありません。
一応今の所の私のサトリではこういう場合分けをしましたよ、というほどの意味です。

誰か私の代わりにさらに良いケース分けの表を作ってくれるとありがたい。
<ifの場合>(2011年12月22日)


上の分類で言うと「ifはドレなんだ?」と思った人が
いるかもしれませんが私は勿論△ですわね。
基本△。
自分が分かっている分野、明るい分野ではまぐれで◎や○のこともありますが
大抵は△ですが、それが何か?


「自分が△のくせに、◎や○のことを論じるのは如何なものか?」


と思われた方もいることでしょうが、そんなことはありません。
自分よりも優れた人のことを、世の人は平気で普通に論じていますよ。
「偉人伝」を書いてる作家とかね。
偉人の伝記を書く作家は偉人ほど偉くはありませんが、堂々と書いていますよね?
でしょ?

「if自身はたいしたことないのに、人間性について論じるってのがそもそも変」

そんなことはありません。
人間性が優れてない私でもそれが必要とあらばいくらでも論じます。
もし、自分の人間性が高くないと論じることが出来ないとすれば
私などは一生論じることはできないのだから
今、自分が分かる範囲内で論じる自由は有ります。

私の人間性が高まるのを待っていたら生まれ変わってもまだ無理だし。

<無意識、ということ>(2011年12月24日)


私はよく「無意識、無自覚でいてはいけない」などと書きます。
無意識について説明してみます。
過去に「相似象」のコーナーでは無いところで記事にしていますが
ここにも書いてみますね。




多くの人は「自分は正しい」と思っています。
ただし無意識で。

これ、どういうことかと言うと
たとえばここに一人の善人が居たとします。
その人は無意識に「自分は正しいことをしている」と思っている。
でも意識はしていません。

その人に
「あなたは自分が正しいと思っているのですか?」と訊けば
その人は善人ですから、自分は決してそのような大それた
傲慢なことは「思ったことが無い」ので即座に
「まさか!そんなこと思ったことありません」と否定します。

ところがこの人の言動行動を観察すると、それはどう見ても
「自分は正しい」と思っている、としか言えないのです。
なのでなおも質問します。

「でも、あなたは●●が○○で××でしたよね?
  それはあなたが自分は正しいと思っている、ということの証拠「ですが」
と言ってあげます。
するとその人は
「トンデモない!私は自分が正しいなんて思ったことがありませんよ!」
となおも否定する。


なので今度は質問を変えました。
「ではあなたは間違ったことを平気でしているんですね?」
するとその善人は
「え?私が間違ったことをしましたか?」と訊きます。
「では間違ってないのですか?」
「はい、多分間違ってないと思います。」
「すると間違ってないのだから、あなたは正しいんですね?」
「・・・・・・・・・・・・?」



無意識とはこの例で言えば
「自分は正しいことをしているのか、間違ったことをしているのか」を
考えたことも無い、意識にも上らせたことが無い、という意味です。

この善人は自分の行動についてそれが良いのか悪いのか
正しいのか正しくないのか、考えたことが無いのです。
今でも考えないのだから、過去においては全く考えていない、と
いうことが簡単に推理できます。

無意識、無自覚とはその件(コト)について
考えたことが無い、考えないで生きている
、というほどの意味です。
<無意識の意識化>(2011年12月24日)


その件について今まで一度も考えたことの無いことに対して
それを意識化せよ、と迫ると、それを聞いた相手は非常に当惑します。
無意識でいる案件(分野、コト)については、
意識化が出来ないのに、それを意識化しろと迫られることは
非常に苦痛であります。

世の多くの人がこのレベルにあるので、
片方が意識化出来るレベルに達している場合、会話は困難になります。

意識化できたレベルの人は波動が高いのでわからずやを苛めるような
低次元なことはしませんが、相手の低次元の人は
自分に対してワケの分からないことを言う(意識化させること)相手を
恐れ嫌い、憎みます。

<整序/定義>(2011年12月26日)


定義と言っても堅苦しいものでは有りません。
子供を除外して、人は誰でも自分なりの定義を持っています。
ただしそれが
○意識化している
●無意識でしている
かの違いです。




定義と書きましたがそれは「感覚」的なものです。
自分の感覚と、体験、知識が定義を作り上げています。
元々は知識と体験だったのでしょうがそれを自分なりの「定義」にしてしまっている。
それが自分の「感覚」になっている。

その「定義」とは○○は〜〜だ、というほどのものです。
オトナは無意識に「○○は〜〜だ」と思っているのです。
そして、その、無意識の自分の定義に反するモノ(人、コトなど)に対しては
反発します。

「○○は〜〜だよね?」
「え?うっそ=!○○は××でしょ、普通」
「えええっ?違うでしょ!」
「あんた、おかしいんじゃないの?」

みたいな?

良く分からない説明で済みませんね。
でも、上の会話を分かる人は分かりますね。



このようなことは毎日一年中、一生起こるのです。

定義を持っているのは良い。
不味いのは
◆自分の定義が一番正しい
と、「無意識に」思うことです。
ここで意識化するならまだ良いのですが、
殆どの人は無意識に生きていますからそれは難しい。

<50の坂を越えられない人>(2011年12月26日)


自分の定義こそが正しい・・・と多くの善人が無意識に思っています。
無意識にとは、「自分の定義こそが正しい」と意識化出来ないが
そう、思っている。
それを使って世の中(他人、出来事)を判断しています。
判断するのが悪いのではありませんよ。
それを「全て無意識の下に行うこと」が不味い、と言ってます。

50代のおばちゃんに対する、閲覧者の皆さんの
苦情、怨嗟は大変多いですw
50代になると「知らないことは殆ど無い」という
大変、傲慢な心の姿勢になってしまうものです。
人間どんなバカでも50年生きれば、
世の中の大抵のことは分かるもので
「自分には知らないものは無い」と、無意識に思っている。




自分の定義こそ正しいと無意識に思っているなんて
なんて自己中心なんでしょう。
でもそれを当人は「分からない」のです。
意識化出来ないからです。

だから
多くの50代の人は、それ以下の年代の人から
呆れられ批判されます。
この状態を「50の坂を越えられない」と言います


じゃあ60代はOKなの?

いえ、違いますよ。
50代がダメなんだからそれを超える年代の人も同様ですよ。




50歳というのは人生経験がまぁ、豊富です。
若い人よりは豊富です。

だから無意識に「自分は何も問題が無い」と思ってしまっている。
それが一番問題なんですけどねw

そうならないためには若いうちから
自分の無意識、無自覚を意識化し考え、分かることを繰り返すことです。
これが出来る人が非常に少ないんですけどね。
でも50の坂を越えたいのならやらなくては。
今、50歳以上の人に呆れている人達も、自分の意識を見る作業を
毎日続けなければどんな良い人でも50の坂は越えられません。



50歳を過ぎても私から見て「殆ど知恵が無い人」なんて沢山います。
若い頃のような体力や素直な心も無いし、記憶力も減退していますから
こういう人が生きて行くにあたっては、
楽しいことがどんどん減って行くのではないか。
いや、それなりに自分が分かる範囲内で「楽しいこと」なら有るとは思うが
それらは悟性を必要としないもの、感覚的な楽しみになるのではないか。
それは若い人も同様ですが、若い人なら若いというだけで
体力が有り、楽しいものです。
異性にもモテますから、楽しいw

50歳を過ぎて物事が分からずに生きるとしたら
いったい何を楽しみにしたら良いのでしょうね?
楽しむために金を使う・・・ということもやりますね、金が有る人は。
でもそういう楽しみは長くは続かない。
金が無くなれば「何も楽しみが無い」状態になる。

たとえばセイシンセカイ。
知識や情報を得るのもそりゃ楽しいかもしれません。
でも悟性を使った楽しみの楽しさと比べれば
知識や情報を得るだけ、モノを買うだけの楽しみなど
楽しみのうちに入らないくらい、つまらないものです。
しかしその境地を知らない人にとっては「それでも楽しい」のだろうから
何も言うことは無いのかもしれません。




私もトンデモは好きです。
面白いし不思議だからね。
でもただそれを追い求める楽しさには限界が有ります。
それらは「境地」とは無関係なので、楽しいことは楽しいが
それなりの楽しさでしかない。
しかしそれを超える楽しさを知らない人にとっては
それが一番楽しいのだ、という話です。

<整序/理詰め>(2012年1月1日)


物事を考える際に理詰めで考える必要がある。
そのことと「直感が大事である」ということは別に矛盾しません。
直感で得た答えが本当に正しいのかは理詰めで検証しなりとならない。
また理詰めで考えた事柄が正しいのかそうではないのかを
分かるには直感も必要です。

理詰めで考えないで直感だけで生きている人は不味いです。
相似象は「直感物理」を解説したものです。
だから直感を訓練するための学問なのです。
決して「直感など要らない」とは言っていません。

理詰めで合っているんだから理詰めだけでいいんだ、とも言っていません。
理詰めが合っているのか居ないのか、直感が答えを知っているとも言えます。

つまり直感だけでも理詰めだけでもダメってことです。
これが分からない人がいます。



或る人が理屈に合わない滅茶苦茶なことを言うので
「理詰めで考えてごらん」とアドバイスしたら
「でも直感も大事だと思う」という答えでした。
こういう会話はおかしいですよね?

「いやいやいやいやいやいやいや!
  誰も『直感』について語ってないから!」



喩えていうなら
「運動した方がいいよ」と言ったら「良い音楽を聴くのも大事だ」と答えるとか
「野菜を沢山食べた方がいい」と言ったら「肉も必要だと思う」と答えるとか
「視力が悪いね」と言ったら「走るのは早いです」と答えるとか。
話しが噛みあわないのです。
今話しているのは「理詰め」についてであって「直感」の話はまた別です。
直感は直感で違う機会に話題にしたいと思います。



会話の基本もなってないほどの人は多分頭の中を整序できない。
だから思考は混乱しがちか常に混乱している。
それで精神が安定しない・・・だから落ち着いて思考できない・・・
理詰めで思考できない・・・混乱する・・・
という悪循環に陥っているのだと思われます。

私が「理詰めは大事だ」と書くと「理詰めだけじゃダメだ」という思考に
なる人がいるかもしれないが、誰も「そんなコト言ってません」。
と、いうことが分かるようになるためには頭の中を整序する必要がある。
(私は「理詰めだけが必要」とか「理詰めであれば良いので他は要らない」とか
  書いていません)


上に書いたことは当たり前のことで、全く特殊なことではありません。

相似象は普通の、当たり前のことを分かる学問なので
全く華々しいところがなく、その成果もハッキリせず
(見る目の無い人、潜象勘の無い人から見たら分からないもの)
ただひたすら「自分にとっての当たり前のレベルを上げるだけ」のものなので
これが面白いと思う人は少なく、従ってそういう人を「少数者」と言います。
(少数者とは「他人のために苦労を背負い込める人のこと」)
そして少数者の周辺に居る、「他人のために苦労などしたくは無いが
相似象が言っていることは理解出来る、私のような頭
(サヌキ)人間にも
面白く感じられる。
<意見>(2012年1月2日)


新年早々ですが
標記の件、部分的な感想を書き送ります。


> 或る人が理屈に合わない滅茶苦茶なことを言うので
> 「理詰めで考えてごらん」とアドバイスしたら
> 「でも直感も大事だと思う」という答えでした。
> こういう会話はおかしいですよね?

『でもね病』にかかっているようですね。(^.^)
「アドバイス」を「自分を否定された」と受け取ってしまい(←よくあることです)、

無意識で自分を守ろうとしてそのようなことが口に出てしまうのかなと思う。

−−−−−−−−−−−−−−
【メモ】
もし、今の状態を嫌だと感じるなら、
@そうした自分の反応パターンに気が付き、
A相手の話を「アドバイス」として聞く訓練が必要だと思う。
(「今話しているのはアドバイスですよ〜」なんてわざわざ言う人はいないから、
 自分でそう思いながら聞くことになる。)

−−−−−−−−−−−−−−

ところで文章から推測するに
その人は「自分は直感で話している」
(直感も大事)
(だから私はifさんに否定されるようなことはしていない)
と思っているようですが、
「思いつくままに話す」ことと「直感で話す」ことは違うのではないかな?
私には前提が崩れているように見えるので
その人の答えは二重におかしいと感じました。




良い意見だと思う。
まず
「でもね病」という概念を作ったこと。
勝手にw

でもそうすることによって、問題を明らかに出来ます。
ハッキリとさせることが出来る。
良いアイディアです。
混沌としたモヤモヤとした実体の無いものに対して
自分の意識をそこに集中させ、他とは差(サ)をつけて
問題を明らかにしている点は優れています。
これも整序の一つです。

何も学会で発表するわけで無し、
自分だけで承知していれば良いのだからOKです。
そしてこの方のこのアイディアはこの方だけのものではなく
他の人にも使ってもらえますね。
この言葉(概念)は便利なので私も使いたいと思います。
(※さらに、様々な思考の偏りは全て「心の病気」と言える。
   なので「○○病」と名づけることが出来ます。
   この方の意見をここで法則化してみました)
(※そういえば「中二病」とかありますね。
   やはり心の偏りは或る種の病気といえるのではないか。
   マスゴミや学者などが主導しなくても、一般人の私達が
    自分で気付いたことをどんどん言語化して使えば良いと思います)




もう一つは「思いつくままに話す」ことと「直感で話す」ことは違うという意見。
一見似たようなコト(もの)でも良く考えれば「違う」。
そこでひと考えすることが大事です。
似たような言葉のサを取る、つまりそこで一つのサトリを得ます。
これも整序の一つです。


直感については「自分のその直感が正しいか?」を常に考えなくては
不味いと思います。
直感が狂っている場合を何故想定しないか?
私ならまずは疑いますね。

よくセイシンセカイで「直感は裏切らない」「最初の直感が正しい」と言います。
(※それはそうだと思いますよ)
(※しかし常にそうだとは限らないのではないか。
   その証拠に直感がおかしい人が沢山居ます)

だからこれらの言葉「直感は裏切らない」「最初の直感が正しい」
を聞いて(読んで)そのまま何も考えずに
(そうなんだ)と思ってしまう人がいるのではないか。

自分の直感を(より)正しいものにするためには、
直感を訓練しないとならないのでは?
せめて心の中に余計な感情、情報があることを自覚して
それらを無くし(少なくし)心を平安にしてからでないと不味い。
(※怯えている人には他人の親切が意地悪に見えたりします。
   これを相似象では「動物次元」と言います)

或いは事実の裏づけを取らないとならないのでは?
理詰めで検証しないとならないのでは?



相似象は直感を訓練するための学問でもあります。
自分の直感をさらに高めるために頭と心を鍛える必要が有ります。
時間が要ります。
これらのことは知ったからと言ってすぐ出来ることではない。
短くて半年かかる。
(※最初の一つをサトるまで)
大抵は数年〜十年必要です。
私などは20年以上やってますが、今でもバカをやるし物事が分からないことが
沢山あります。
自分の考え無しに愕然とすることがしょっちゅうあります。
(※アワ量の多い低次のサヌキ人間は、そういうことが多いそうです)
十年やれば良いとか20年やったからベテランだ、ということでも無いのです。



もう間に合わないや・・・・と諦めたらそこでお終いです。
真剣にやれば、そして本人の素質が良ければ半年でも波動が変るから
やってみればいいと思いますよ。

<頭の良さと分かり方1>(2012年1月19日)


頭の良さと分かり方の関係について。
頭が良くてもモノが分かるとは限らない。
というか、その二つは別物です。
だから
◇頭が良くてモノが分かる人
◇頭が悪くてモノが分かる人
◆頭が良くてモノが分からない人
◆頭が悪くてモノが分からない人
がいます。

また、
◆頭が良くてモノが分からない人
の中に
○分かり方を分かることが出来る人
●分かり方を分かることが出来ない人
とがいます。
同様に
◆頭が悪くてモノが分からない人
の中に
○分かり方を分かることが出来る人
●分かり方を分かることが出来ない人
がいます。



モノを分かるということは頭の良さとはあまり関係が無い。
(あまり、という言葉を使ったのは、
  関係が全然無いのか少しは有るのか、
  私にはまだ分からないからです。
  なので「あまり」という適当な表現にしています)




それから、
ここで言うところの「頭の良さ」ですが
学校の勉強、学力、学歴とは関係ありません。
頭の機能の良さのことです。
その頭の機能の良さにも様々な段階があります。
◇目先のことに頭が良い
◇周囲のことに敏感でまねをするのが巧い
◇理由や理屈を考えられるまでは頭が良い
◇本質を分かるまで頭が良い
など様々な頭の機能の良さがあります。
また、頭が良い分野も違う。

人はそれぞれ違う分野で、様々な段階で頭が良いと言える。
つまり有る意味「全員頭が良い」のです。
しかしここで語っているのは
「モノを分かること」について、です。
他の分野でいくら頭が良くてもここでは関係がありません。



多くの人は
◇目先のことに頭が良い
◇周囲のことに敏感でまねをするのが巧い
◇学力、学歴が有る人
人を頭が良いと思っているようですが、それは多くの人が見た場合
分かり易いからです。
自分でそれを「頭が良い」と、分かるレベルの頭の良さだからで
それ(自分の理解力)を超えたら途端に分からなくなる。




と、一応書いてみましたが自分自身が頭悪いモンで
説明が難しいです。

<頭の良さと分かり方2>(2012年1月21日)


上の記事<頭の良さと分かり方1>でごちゃごちゃと理屈を書きましたが
あまり意味が無いので忘れてくださいw



さて。
(自分は頭が良い)
(自分は何でも分かっている)
(自分は大抵のことは分かっている)
(自分は何でも知っている)
(自分は大抵のことは知っている)
(自分には分からないことは無い)
(自分には分からないことは殆ど無い)
(自分には知らないことは無い)
(自分には知らないことは殆ど無い)

などと思っていたらもう、それ以上分かることは無いのです。
(※「知る」という言葉を使っていますが
   一般的には知ると分かるとを厳密に分けてないので
   ここでは混同している、という事例のために挙げました)




大人よりも子供の方が分かっていくことが出来るのは
上のような無意識の思い込み、つまり「自分は頭が良い」というが無いからです。
上のような思い込みは学校の勉強が出来るタイプの頭の良さ(頭の先の良さ)が
高い人が陥り易い。
それだけではなく、ただ生きているだけの人でも
日々様々な体験をしては思い込み(勘違い)を重ねて行きますから
長く生きるにつれて「自分は頭が良い」という錯覚に陥っています。



学校の勉強が出来るタイプでモノが分からない人(=バカ)について
事例を挙げましょう。

友人のM氏のお兄さんは通っていた中学校始まって以来の秀才だったそうです。
家庭の事情で普通高校では無い学校に進学しましたが
勿論そこの偏差値は大変高いです。
が、大学へは進学しなかった。
その特殊な高校でも「学校始まって以来の秀才」だったそうです。
ところがお兄さんは勉強の頭がいくら良くても普通のことを分かる能力が乏しい。
そのためにウツ状態になってしまった。
M氏は言語で説得しますが殆ど通じてない。
お兄さんはM氏の提案は一切聞かない。
その状態で10年以上経過しているそうです。
温厚なM氏もほとほと困ってしまい或る日
「アニキは自分のこと利口だと思ってるだろ」と言ったそうです。
お兄さんは驚いていたそうですが・・・




大抵の人は”謙虚”なので自分の傲慢さを前面には出しません
それをすると社会から抹殺されるからです(大げさですがw)
だからモ
ノの分かった大人は自分の傲慢さを隠します。
しかし隠しているだけなんですよ。
心の中は傲慢そのものです。
つまり「無意識に傲慢である」「無意識に『自分は頭が良い』と思っている」

のです。

自分が「何も分かってない」「何も知らない」「殆ど分からない」
「自分にはまだ分からないことが沢山ある」と思っていなければ
もうそれ以上「分かることは無い」ですよね?
だって既に「殆ど分かっちゃっている」人がそれ以上分かることが出来ますか?
(ソクラテスがそこらへんを『無知の知』と説いたが
  その言葉を気に入って盛んに引用していた人自身が
  「何も分かってない」人でしたw
  そんなモンです)



モノを分かっていける人とは、学校の勉強が出来たり
社会生活に不自由しないほどの知恵が有る人のことではありません。
「自分にはまだ分からないことが有るのだ」と、分かった人
です。
そりゃモノを分かるには理詰めも必要だから、
理詰めを理解する能力、言語能力も必要ですが
それ以前に
大前提として「本当の意味で謙虚である」
「本当の意味で素直である」ことが必要
です。
(※ここで「本当の意味で」という但し書きがついている理由。
   人の感覚はそれぞれです。
   たとえば「謙虚であれ」と聞けば(そうだな)と思うのは良いが
   今度は「傍から見て低姿勢」「礼儀正しく」「いつもにこにこ」
    「反対意見は一切述べない」とか
   そういう物質次元のことしか思いつかないレベルの人が居るのです。
   銀行に行くとそのサンプルが見られるので
   ぜひ最寄の銀行窓口までお越しください)

(※ここで銀行を例に挙げたのは、銀行では小口預金者を
   「ゴミ」「ドブ」と呼んでいるそうでw
   私はこの”事実”を知った時は「へえ、そうなんだ」と思っただけですが)




謙虚とは、見かけ上の謙虚さのことでは無い、ということです。
自分にはまだ分からないことが有るのだ、という心の姿勢のことです。
だから見かけはどうでも良い。
そのようなものに惑わされてはいけない。
いかに外見が謙虚に見えようと、心の姿勢が無意識に
「自分に分からないことは無い」と思っていれば、
それ以上分かることはできない。


と、理屈を述べてみました。

<頭の良さと分かり方3>(2012年1月21日)


もう一つのケース。
学校の勉強は出来なかったが(笑)社会において可も無く不可も無く
無難に過ごして来た、という自負があるケース。
実はこういう人って無難では無いのですが、本人にとっては
「難」を感受することが難しいのです。
難・・・災難があった場合、こういう人は常に「悪いのは相手」であると
考えもせずに決め付けて生きているからです。
愚痴しか言わない人がそれです。
(※愚痴というのは「自分は悪くないのにコレコレこういう目に遭った。
   非常に残念だ、悲しい、悔しい、腹が立つ。
   この気持ちを分かってくれ、受け止めてくれ、前面的に同意しろ、
   とこれも無意識に思い、会話の相手に自分の低級な「我」を
   押し付ける行為です。
   当人にはその自覚が無いのです。
   愚痴を言う人に「不毛だから止めろ」などと言おうものなら
   言った人は愚痴っぽい人の新たな「愚痴の対象」となる。
   そしてそれを他の人に「愚痴られる羽目になる」のです。
   相似象ではそういう人を「ケモノ次元」と定義しています。
   私はそういう人はいくら「良い人」でも低級霊憑きである、と定義します)




さて、話が逸れました。
大抵の大人は自分が原因で不味いことになっても自覚していません。
(悪いのは全て相手だから)
自分が思う「良いこと」をします。
それによって不味いことになれば
「自分がした良いことを理解しない変な人、嫌な人、バカな人」と
相手を分類して終了。
それをし続けて数十年経てば
「年令は高いのに何も分からない、殆ど知恵と判断力の無い人」が出来上がります。
35歳には大抵の人は「自分は何でも知っている」「分かっている」
「正しい」「間違ってない」「頭が良い」と無意識に思っているようです。

<頭の良さと分かり方4>(2012年1月21日)


「善悪」「良い悪い」の話では無い、ということ。



それが良いとか悪いとかの話ではありません。
相似象は道徳では無いから。
物理です。

道徳で思い出したが良い悪いの話では無いのに
「良い」「悪い」と考える人も多いです、というか殆どではないか。
そういう人は「自分が良いことをしたのにそれを理解しない人は
悪い人だ」みたいな思考回路になっている。
これ、意外と根が深く、本人には自覚が難しいのです。
たとえば「善悪二元論はいけない」と主張している人の思考回路が
「それは悪いの良いのという評価から離れない」というものでした。
思いっきり矛盾してるじゃんか・・・と思ったものです。
が、この程度の思考力の人に言語による説明、説得は無理なので
止めておきました。
それが悪いのではないんですよ。
そういう人はそれが「限界」なのです。
だからそういう人を見たら
(ああ、この人はこれが限界なんだ)
分かればいい
んです。



そしてそれが「分かる」ということなんです。
何を分からなくてはならないのか、ちょっと分かりましたかね。

妙な理屈を並べ立て感情的になっている人を見て
(この馬鹿野郎)
(なんだコイツ!)
と感情的になっている場合では無い、ということ。
自分も一緒に感情的になればそれが「ケモノ次元」です。

それならそれでいいんです。
自分がケモノ次元であることを自覚すればいい。
自覚しなくてもいい、ケモノはケモノでいることが一番幸せだろうから。
(そういう次元の人に「そうではない」と教え、向上せよ、と言えば
  物凄く苦しみ、忠告した人を憎みます。
  だからそういう次元(レベル)の人は最初から相似象なんかに
   近寄らなければ良いのです。
  でも、相似象は魅力的なのでその素質が無いにも関わらず接触し
  自分なりに解釈(誤解)している人も多いようです。
  著者の宇野女史はそこらへんを厳しく指摘していました。
  私は以前は何故宇野女史がここまで厳しいのか理解出来なかったが
  だんだん分かって来ました)




また、人には感情があり、感情的になっているさまは
ケモノであると言えます。
誰でも怒ることがあります。
怒ったって良いと思う。
人間だものw
しかし怒ってしまった時はその状態を自覚しなさいよ、ってこと。
(ああ、また怒ってしまった)
(私はこういうコトで怒るんだな)
とかね。

ケモノは自分が怒っていることを自覚できないし分析も出来ない。
人間にはケモノの部分が有るのだから自覚すれば良い。
そして次からは怒りの規模を小さくするとか、そのレベルのことでは
怒らないようになるとか、出来たならそれは「人間」に近づいた証拠です。
怒ったら感情の赴くままに怒りっぱなしで全部怒りを吐き出すまでは
怒り続ける、のがケモノです。
(※それから、怒りというのは外部のものが原因というよりは
   自分の内部にあります。
   何故なら同じモノ、コトでも怒る人と怒らない人とがいるからです。
   「自分を怒らせる相手が悪い」と思うのはケモノ道を行く人です。
   それはそれで本人は幸せだろうから良いと思います)

<頭の良さと分かり方5>(2012年2月1日)


相似象に「たとえノーベル賞受賞学者だとしても低次の人間である」
と書いてあるのを読んで
20年以上前の私は(ええええっ?うっそ=)と思ったのでした。

当時は
◇才能(サヌキ)

◇能力(アワ、波動量)
の違いが分からなかったからです。

何となく分かる(悟る)ようになるまでに数年掛かっています。

だいぶ分かる(悟る)までには10年掛かっています。

現在は相似象を始めてから二十数年経っていますが
やっとこの言葉の意味がとりあえずきちんと分かる(悟る)ようになりました。



ではこれで完成、終了、合格なのか?と言うと違います。
サトリは「一度分かれば良い、それで完成した、終了だ」というものではなく
段階的なものです。
たとえば勉学に喩えれば
◇小学生並み
◇中学生並み
◇高校生並み
◇大学生、専門学校生並み
◇教授並み、助教授並み
◇学長並み、名誉教授並み
という段階があります。
そして小学生並みの中をさらに
◇低学年並み
◇中学年並み
◇高学年並み
と分けることも出来る(このように分けて考えるのはサヌキです)

※考え、気持ちはアワですが、それを言語化して表せばそれがサヌキ(行動)です




この命題「たとえノーベル賞受賞学者だとしても低次の人間である」については
これからも折に触れ考えることがあるかもしれない。
その時には現在、私が思っている考えを超える考えが出来るかもしれない。
というか、それが出来るために日々波動を上げて生きているのだ、と言えます。




つまりサトリとは「一度分かればそれで良い」というものでは無い
一生かけてどんどんサトリのレベルを上げていくことが求められている。


つまり回答は一つでは無いのです。
今の学校教育では回答は一つですが、社会に出れば違いますよね?
回答には上には上が有る、ということが分かっている社員(大人)と
回答は一個だけなんだ、と何となく思っている社員(大人)
つまり「無意識に生きている社員(大人)」とでは
人生の質(社内での地位などw)が違って来ることは分かると思います。
社員でなくても家庭の主婦であっても何も考えない(本人は考えているつもり)で
子育てをしたらその子は不味いことになります。
たとえば登校拒否になる。
そうなって初めて考えることの必要性を悟らされるのですが
通常、子供が登校を拒否っても、この期に及んでも考えることが出来ない親が
普通です。

(当人は考えているつもりになっているので、そこへ
  「考えろ」と他人が提案すれば、その言葉を理解できずコトが拗れます)


また話が脱線しましたが「頭の良さ」とは一生かけて自分で作っていくものです。
他人は自分を利口にしてくれません。
自分は他人を利口に出来ません。