相似象の考え方 6




思いつくまま書いています。
ここに書いてあることは私なりのサトリに基づいているので決定されたものではありません。
あくまでも一意見として参考にしてください。

記事は下に追加されます

相似象学会誌「サヌキ・アワのサトリ」を抜書きしているブログ

<サトルの意味1>(2012年2月10日)


悟ると言っても宗教的な意味は全く無くてただ単に「分かる」ことです。

悟る=さとる=差を取る

たとえば・・・

◇わんぱくと野放図の違い

を悟る、とか。


そんなコト考えたことも無い人が殆どですよね。
多くの人の頭の中は混沌としていて混乱しています。
言葉の意味も実に大雑把です。
これでは何も考えることが出来ない。

あ、出来るんですよ、一応。
それがとても考えとは呼べないような代物(しろもの)であっても
当人にとってはそれが「考え」なのだから。

でも、相似象を知りたい人は、混沌としていて混乱している状態を
「考え」であると思ってはいけない。
混沌混乱したっていいじゃないか、という人は相似象とは縁が無い人です。




頭の中を整序するためにも言葉を自分なりにでもいいから
きちんと分類出来るようになりましょう。

◇我侭と自己中心
◇自己中心と利己主義
◇ケチと節約
◇意地悪な人ととキツイ人
◇優しいと親切

<サトルの意味2>(2012年2月13日)


サトルことは何も言葉の違いだけに限りません。
◇AさんとBさんが言っていることの差を取る、サトル
◇Aさんの人間性、波動を悟る、サトル

というのもあります。




サトルとは「分かる」ことです。

◇Aさんの人間性、波動を悟る、サトルの例

或る精神世界で名が売れていた人が
去年亡くなったのですが、その後その人が実はセクハラおやじだったということが
バラされています。

その人は支援者が多く教祖のように祭り上げられていた。
支持者は信者のようでした。
で、その支持者の一人の若い女性がセクハラまがいのことをされたのですが
私はこの”被害者”については、「人生経験が不足していたのだなぁ」と思います。
他の支持者は本格的な信者のようでした。
でもこの若い女性は信者では無かったというか、
中途半端な支持者だったので、今、このように”教祖”の真実を暴露しているのです。

若いから仕方ない面が多々ありますが
そういうことになる前に、この胡散臭いオヤジを見抜けば良かったと思います。
何事も体験、経験ですから、このように嫌な思いをすることも
貴重な体験ですが。




で、サトル、の話に戻ります。
私のようなおばさんはこのオヤジがたいした人間では無いということは
或る程度分かってしまう。
「本を読まなくても彼の主張を知れば」そこらへんが分かる。
(噂話も入って来ます)
つまり「悟る」ことが出来ます。
(周囲の大人、おじさんおばさんはこの若い女性を生贄にした感が有る)
(何故そのようなことをするのか。
  TQ霊の集まりだからだと思う)




私のようなおばさんは若い人より数十年余分に生きているので
その間に様々な情報を得たり体験したり失敗していますから
潜象勘が働くのです。
(五十代以上でもこの勘が無い人はいるし、
  精神世界のことを知らなければ潜象勘は働かない)



サトルとは「分かる」「分かってしまう」ことですが
何故サトルことが出来るかと言えば潜象勘が働くからです。
若い人はその潜象勘を鍛えている最中なので
このような失敗(セクハラおやじに遭遇)をするのは仕方ない。
全ては学びですね。




最初に戻ります。

◇AさんとBさんが言っていることの差を取る、サトル

このセクハラおやじの人間性と、他のマトモな精神世界の教師
たとえば高橋信次師のような人との差は歴然としています。
どうせ学ぶなら、ついて行くなら高橋信次師の後をついて行けば良いのに
多くの人は「今、生きていて」「自分に分かり易いことを説く」人を信じる。
だって難しいことは分からないし、厳しい教えなんか嫌だし。

なのでAさんとBさんが言っていることの差を取れない人は多いと思います。



最近或る女性芸人が、占い師に洗脳されて自宅から出なくなり
家賃も払わず仕事もせず実家にも帰らず・・・という状態になっています。
精神が参っているところをつけこまれたのです。

占い師や霊能者のことを、上の例のように崇め奉る人はいます。
自分に無い能力を持った人を崇拝する癖。
信者タイプの人です。

この例なども、この占い師がマトモか違うのかを悟る(サトル)必要が有りましたが
◇精神が参っていた
◇精神世界の情報不足
◇同波長
と、様々な要因が重なってこのようなことになったのでしょう。

一刻も早くこの芸人が悟る
(マットウな占い師とそうでは無い占い師との差を取る)
ことを願っていますが・・・



と、思ったら幻冬社の社長が言うには
タレントは洗脳などされていなくて自分に決してNOと言わない
その霊能者が好きで付き合っているんですと。
タレントが周囲の人間の悪口を言うとその霊能者は相槌を打つんですと。
タレントは決して自分に対してNOと言わず常に賛成してくれる存在として
その霊能者を気に入っていたようです。
家賃を払わないとかはタレントの責任だし、そういう非常識なことをした点が
これは正常では無い、と周囲が思ってしまう原因でしたが
それは洗脳されたからではなく、タレントがただ非常識で
自分に対して甘いだけのようです。

<サトルの意味3>(2012年3月8日)


全てがサトリなのでそこから「これこれがサトリです」と例を出すのは却って難しい。
でもやってみますね。

悟るとは分かることです。
が。
心の底から、ミから分かることです。

頭の先で分かることではありません。
通常、頭の先で分かることも一般的には「分かる」と言ってますが
相似象ではそれとは区別して、ミの次元から分かることをサトルと呼んでいます。

<サトルの意味4>


ミの次元から分かった実例を挙げましょう。

私の友人の子が登校拒否になりました。
子供を登校拒否にしてしまう親は
多くの普通の人より判断力が乏しい傾向にあります。
(判断力が乏しくても、家族にモノの分かった人が一人居れば
  登校拒否にはならない場合もありますが)




その友人は自分に出来ることなら何でもやりました。
教育相談を受けたり友人の忠告を聞いたり本気で改善しようとした。
そして
◇子供を学校に行かせることは、さして重要では無い
と、「悟りました」。

すると・・・

もう一人の子も登校拒否になりました。

友人は驚いた。
自分が意識を変えたら事態は改善するどころか却って悪化したからです。

自分は「学校に行くことなどさして重要では無い」と思ったはずなのに
いざもう一人の子も登校を拒否ったら、今度は慌ててしまった。
それって・・・



「自分が登校なんてさして重要では無い」と、思ったことは
ウソだったのだ、と悟ったのでした。



最初に友人が
「学校へ行くことなどさして重要では無い」と思ったのは
頭の先の思いつきでした。

本心ではなかった。

なのに自分ではそれが本心だと思っていた、
つまり勘違いをしていたのだ、と分かったことが「悟った」ことです。



友人は生まれて初めて
「本気で考える」という体験をしました。
今までの人生はただ頭の先だけで思いついていただけでした。
しかしそれは「頭の先だけでしか思いつかない」人、
そのレベルに有る人には到底「自覚出来ない」のです。

そのレベルから抜け出て初めて
「ああ、私は頭の先だけで思っていたのだ」と、分かる、
つまり「悟る」のです。




友人は
◇それまでの人生で一度も本気でミの次元から考えたことが無かったこと
◇自分の本当の気持ちに気付かず
◇頭の先だけの思いで「登校なんてどうでもいい」と言っていたこと
◇しかしそれは自分の本心ではなかったこと

それらを悟り、あまりの情けなさに泣いていました。




と、いうような悟りを何度も繰り返し、ようやく
「普通に子供を学校に行かせることが出来るレベル」に達したのでした。
普通の親ならそんなことは何の苦も泣くクリアしているのですが
それが出来ない人が子供を登校拒否にします。
そして多くのそういう親は、自分が何事かを悟ることをせず
「登校拒否の原因」や「直し方」などという情報を集め
それを勉強するようですが、情報や知識をいくら集めても
直らないと思います。
悪いのは子供ではなく親だし。
(まぁ、そういう情報でも親が原因であるとは説いていると思いますが
  ではどうしたら良いのか?というサトリを得ることは出来ないでしょう。
  人間の心は十年くらいかけないと変らないようですよ。
  だから多くの場合、登校拒否を直すには十年くらい掛かるのです)



また、上の文章で「多くの」「普通の」一般的な親が
何の苦も無く子供を登校させていて、登校させられない親は
そういう普通の親より思考力が乏しいと書いたが
だからと言って、それが人間の価値の上下を決めるものでは有りません。
もし、そう感じたのならそれは問題ですw
何も分かって無い人、と言えます。

私は思考力と判断力の面しか語っていません。
それを人間の価値まで語っていると誤解曲解するレベルの人もいるでしょうね。



子供を登校させることが出来ない親は思考力判断力は
普通の親より乏しいが心がきれいな傾向にあります。
(全員とは言わない。
  自分の子の登校拒否を他人のせいにする親は沢山いる)

私はきれいな心を持っていることが、人間として一番大事だと思います。

ただ、何も考えない親に対して子供が
(お母さんちゃんと考えて)という代わりに登校を拒否っているだけです。

<サトルの意味5>(2012年3月9日)


他人の一言(ひとこと)、ヒントで気付く、ということが有ります。
これは過去にサトル体験をした人は心が
「気付く」「チャンスが有ったらサトル」という姿勢になっているために可能なのです。
友人のM氏の事例がそれに当たります。
伝聞なのでザッと紹介しますね。




M氏がひなた堂さんの鍼灸院に行きました。
身体の面では過去に手術をした箇所があり
それが原因で全身の経絡に狂いが生じている。
たとえば、膝を手術したために、今度は目が悪くなっている、という感じです。
こういう診療は西洋医学ではやらないので東洋医学は素晴らしいですね。


さて、「サトル」体験ですが、身体の面ではありません。
ひなた堂さんが
「昭和○○年頃、インナー・チャイルドが傷ついているようですが
何か思い当たることは有りますか?」
とM氏に訊いた。
M氏は、それなら小学校の○年生で、そういえばこういうコトがあった、と思い出した。

同級生がM氏のお母さんを侮辱するようなことを言ったそうです。
それに対してM氏は悔しいというのではなく、
「そういうことを言ってはいけないんだ」と思ったそうです。
そして相手を裁く心が生じた。
それはM氏・・・当時のM君の正直な心なのですが
その正義感についてのサトリが、50歳を過ぎた今、検証の必要が有るというか、
子供時代の自分の心に対しての理解・・・それもサトリです・・・が必要であると
瞬時に悟ったのでした。

M氏が
「分かった!」と言ったらひなた堂さんは「え?もう?」という顔をして驚いた。
M氏は長い間、自分の正義感について考える必要が有ったのですが
どこをどう、とっかかりにして良いか、分からなかった。
(M氏は非常に正義感が強い人ですが、その正義感について
  私がたまに自覚を促すことを言って来ました。
  「正義感を持てば良いというものでは無い」とか。
  様々な正義感の実例も挙げつつ、理解を迫って来たのです)


なのでM氏の心には自分の正義感について、きちんと悟りたいという
意識が有った。
それは普段は忘れていますが。

それなのでひなた堂さんの一言がヒントになり、
「初めて正義感を発揮した日」にまで遡って思い出し、大人になった今、
それをオトナの自分が検証するということが出来たのでした。


M氏はひなた堂さんにとても感謝しました。
ひなた堂さんも、たった一言で悟る例はあまり無いので驚くとともに
「こちらこそ大変勉強になりました」とM氏に感謝したそうです。



何も無いところに、いくら他人がコト細かく説明をしても
何も悟れませんが、本人が「これこれについて分かりたい」と
心から願えば
(ミの次元から願えば)このように、いつかそのチャンスが来ます。
重要なのは「分かりたい」という心の姿勢を作っておくことです。

PANDORAのお客さんの中にM氏のようなサトリ方をする人が何人もいます。
心の姿勢が出来たのだと思います。
ここで私が相似象について語って来たことは
無駄では無かったな、と思います。



またインナー・チャイルドとは、このように特に嫌な思いをしたとか
苦痛を味わったとかではなく、日常の何気ない場面でも
インナー・チャイルドは傷つくのだな、と私が悟りました。

子供時代のM君は言いたいことがあった。
でもそれを言うにはまだ小学生なので巧く言えなかった。
正義感についてのサトリも無かった。当然ですが。

それは本人は忘れるくらい一見どうでも良い記憶として残っていたが
実はそれが今までのM氏の生き方に影響を与えていたのだ、
つまり、正義感を発揮すること自体と、
正義感が多くの人には理解されないこと、
また「正義感とは何ぞや」という根本的な事柄などです。

大人になったM氏は当時の言語を巧く使えない自分の気持ちを
分かってあげられる大人として、自分を理解し認めてやる必要が有りますね。
そして
「それは正義感だね。それから正義感ってね」と、
自分に説明してあげればよいのではないか。
そうすればM氏の心の中の「分かってもらえなかった自分」が
癒され、今度は現在の自分にとってそのことは解決済みとなり
新たな波動を獲得出来るのではないでしょうか。

ひなた堂さんが居てくれて本当に良かったと思います。

<サトルの意味6>(2012年3月10日)


失敗から学ぶ、悟るということがあります。

民主党に投票した、とあちこちのブログ主が白状しています。
非常に頭が良い、と思われる、男性ブロガー達が
「実は民主党に投票した」と、今、白状し、謝罪しているのです。

たとえば「ひとりごとなんちゃれ」とか
http://quasimoto.exblog.jp/17497423/の3月10日のK時とか。

これも悟った例です。



良い大学を出た、或いは出なかったとしても
私と同年代で私よりも賢いと思われる人達が
民主党に投票した事実。


私はPANDORAで自民党もダメだが
民主党はさらにダメだ、日本の政党にはマトモなのが無い、
だから私は投票しない、と何度か書いています。

私は民主党に投票した学の有る人達より
一歩先んじて悟っていたことになるのです。

◇勉強、学問、専門的知識の頭の良さ=サヌキ=男性的
◇判断力の頭の良さ=アワ=女性的
この違いはお分かりだと思います。

これからは女性の時代だと言われてから久しい。
しかし世の中は依然として男性社会ですね。
そのひずみが今ここまで大きくなってしまった。
もう男性的な考え方ではやっていけないのは
心有る人にはお分かりだと思います。
つまり、もう、悟っていらっしゃる。
このサイトをご覧の皆さんには、そこらへんのことが
良く理解出来ると思います。

<サトルの意味7>(2012年3月11日)


他人の説明、説得でサトルことがあります。
自力で気付かない場合、悟れない場合はこの方法で悟ります。
自力で気付くよりも簡単ですが、世間的には非常に困難です。
何故なら相当素直でないと不可能だからです。
でもこれが出来る人はPANDORAのお客さんに多いです。


実例を挙げてみましょう。



Mさんという女性のお客さん。
Mさんがたしか中学生の頃、お母さんが宗教にはまってしまい
他人の話を受け付けなくなった。
(多分宗教にはまる前からその傾向は有ったのだと思うが)
お父さんは宗教にはまってしまったお母さんとは
一緒に暮らせないので一人で他県に出てそこから仕送りをしていたが
そのうち離婚してしまった。

お母さんが宗教にはまり家庭を顧みなかったので
子供時代のMさんは悲惨な生活を送ることになってしまった。
なのでMさんはお父さんが居ない寂しさと
自分達子供を置いて行ってしまったことがとても悲しく惨めであり
大人になってもお父さんを恨む気持ちが強かった。



Mさんから詳しく聞いてみたら
◇お父さんが一人で出て行ったのはお母さんとは暮らせないから
◇Mさんの実家は資産があり、貸しやを持っていたので
  その収入で暮らせる
◇だから経済的には心配無い
◇家の周囲には親戚が居ていろいろ面倒を見てくれる
◇お父さんは仕送りをしていた
だから生活面では困らないよう、ちゃんと考えてあったことが分かった。

さらに

◇お父さんは子供達を連れて家から出ようとした
  
(実家は貸しやを持っていたの
   でお母さんが一人で生活するのには充分な収入が有るから)

◇しかし他県には親戚が居ない
◇住む場所も決まってない
◇お父さんが男手一つで子供達を育てるのは大変だ、と親戚に説得された
と新たな情報を教えてくれた。



総合すれば
Mさんのお父さんは宗教にはまったお母さんと一緒に暮らすことは出来ない。
毎日凄まじい夫婦喧嘩を繰り返すことは子供達にとって良くない。
なのでお父さんはお母さんが生活するのに困らないようにし、
子供達を引き取ろうとしたが
親戚に反対されて仕方なく他県で一人暮らしをした。
再婚して新たに子供が出来たら、そちらの子供の方が可愛くなってしまうから
お父さんは再婚しなかったのだ、
一人暮らしで自分が寂しいことよりも、
あなた達子供を取ったのだと説明しました。

するとMさんは号泣して納得しました。
お父さんはそこまで私達のことを思ってくれていたのだ、と悟ったからです。
それからはMさんはお父さんに会ってもわだかまりや緊張感は無く
自然に楽しく会えるようになったそうです。



この例のように一度の説明、説得で納得し
心がガラリと変ることは通常では殆ど有りませんが
PANDORAのお客さんにはこれが出来る人が多いです。
かなり素直でないと不可能なのに、素晴らしいことです。

通常は説明、説得を試みれば
「でも」
「だって」
と、説明や説得を受け入れません。
あくまでも自分の波動(波動量、レベル、判断力)に留まり
自分の位置(レベル、我)に居続けます。
これが殆どです。
「でも」や「だって」を言えば何も悟ることは有りませんから

悟りたいならそれを止めることです。

<サトルの意味8>(2012年3月14日)


理屈・理詰めで悟る、ということがあります。
私などはたとえ直感で何事かが分かっても
それを言語化しないと気がすまないので、理詰めで悟る方法を選びます。
言語化しないと自分が得たサトリを他人に教えることが出来ないからです。




しょっちゅ悟っているわけではありません。
たまにしか悟れません。
その数少ないサトリの中から事例を挙げてみます。



「親に可愛がられなかったなぁ」と思います。
だからと言ってすねるとか、悲しくなる、ということは無く
「私は親から可愛がられたことが無い」
という事実、情報があるだけです。
それはただの記憶、情報、思考なので
苦痛を感じるとか打撃を受けるとかは無いのです。




今から8年ほど前に近所の女子高生が家出をして
我が家に11ヶ月滞在していたことがありました。

その子の様子はかなりおかしかったです。
◇子供じみた表情をする
◇子供じみた言動をする
◇子供じみた行動をする
もしこれを高校でやったら周囲は離れて行くと思うが
実際に友人は出来ずクラスで浮いていました。
さらに
◇自己主張はしない
◇他人からの働きかけ(声掛け、援助、気配りなど)を待つ
◇他人からの働きかけが無い場合は働きかけられるまで「待つ」w
◇無力であることをアピールする
◇他人に従順である




この子は周囲の大人から可愛がられるタイプで
私の友人などは優しいアワ人間が多いので
上のような態度言動を見ると「保護したくなり」「親切をしたくなり」
「世話をしたくなり」それを実行します。
この子はそれ(優しい大人からの働きかけ、
つまり、保護、親切、世話)を期待して待っている。

私などはそういうこと(保護、親切、世話)を一切しないので
この子はアテが外れて、どういう行動を取ったら良いのか
生まれて初めて考えたようです。
考えたが、では実際に何をどうしたらよいのか?は分からない。




無力さを装う、ということについて。
事実、無力なのですがそれをことさらアピールする。
幼児のような表情をして、大人からの働きかけを待つとかw
私などはそういうのを見るとあまりのことに
笑ってしまうのですが、この子が育った環境では
そういう表情をしていた方が保護と親切と世話が得られたので良かったのでしょう。
というか、そういう表情や言動行動(私は無力であることをアピール)しないと
むしろまずかったのです。




とは言え。
上に書いた通り、こういう人間を見ると反射的に
保護、親切、世話をしたくなる人間が居ることも事実。
つまり、優しい人達がそういう人間を「可愛がりたくなる」のです。
また、この子は大変従順ですから「他人を思い通りにしたい人」にとっては
うってつけの人材です。

私は
◇保護親切世話などしたくない
◇他人を支配したくない
ので、どちらの意味においても、高校生なのに能力的には小学校三年生にも劣り
表情言動行動は幼児並みの子を、そういう理由で可愛いとは思いませんが。



でも世の中には
◇無力で保護、親切、世話を求める人
◇自分に従順な人
を可愛いと感じる人が存在する。

ここまでが事実です。



ここからが私が悟ったことです。
さて、他人から可愛がられるには
上のように
◇自分の無力さをアピールし
◇他人に従順
であることが必要だと思います。
(これが全てでは無いが)

もし私が他人、家族から可愛がられたければ
◇自分の無力さをアピールし
◇他人に従順
の振りをしなくてはならない。
が、私はそんな恣意的なことは嫌いなのです。
そんなことまでして他人から可愛がられたいとは思いません。

だから親から可愛がられ無かったんだな、と悟りました
そして可愛がられるためには非常な努力が必要だが
そんな努力はゴメンだ、と考えていることが自分で分かった。
冗談じゃない、と思います。

自由に生きて他人から可愛がられない>
無力を装って従順の振りをして他人から可愛がられる




私は自分の本心が欲するとおりに生きて来たのだと分かりました。
その反作用というか、副作用として
親(を始め大人全般)から可愛がられなかったが
その方が自分の性質に合っていたのだし
心にとっては良かったのだ、と思います。

ここまで悟ったら
(なあ〜〜〜んだ。可愛がられなくて当然だw)と悟ったのでした。
笑えました。



よく、大人に気に入られようとして精神がおかしくなる人がいます。
「良い子」でいようとする人達です。
私には無い美徳の持ち主であることは間違い無いが
その結果、自分の精神が不味いことになるのでは気の毒な人達ですね。
でも、そういう人達は他人に逆らえないので
(アワだから)
そうなってしまったのでしょう。

で、大人になって「思った通りに発言、行動しても良いのだ」と
理屈で理詰めで自分に悟らせようとしているのです。
私とは逆の立場ですね。

私のようなのは自分の意思を曲げて他人に従順になることなど
不可能なのですが、そういう人達にとっては
自分の意思を主張することが難しいのでしょう。



と、いうわけで、私が得たサトリを順番に書いてみますと

@自分は親を始め、大人から(理解されたことも)可愛がられたことが無かった
A何故なのか、ちょっと興味が有った
B我が家に「他人から可愛がられることによって生きている人間のサンプル」がやって来た
Cそれから8年経って、私は「自分は大人から可愛がられたことが無い」と考えた
Dその時、過去に我が家に居た女子高生を思い出した
Eその子は他人から可愛がられるために様々なこと(努力)をしていたな、と悟る
Fでは自分はそういうことが出来るかな?と考える
G出来ないしやりたくも無いと分かる
Hだったら大人から可愛がられなくても当然だ、と悟る
I私だってそんな可愛げの無いクソガキは嫌だ、と悟る
Jそれが自分には合っている生き方だったのだ、と悟る


何段階かに分けて少しづつ悟っています。
理詰めで悟る事例でした。

<サトルの意味9−1>(2012年3月18日)


感情をてなづけて悟る方法があります。

上の<サトルの意味8>のような例は
感情が動かない場合は単純な作業なのですが
ここに感情が絡んでくると、悟るのが難しくなります。

頭では分かる。
でも心が許さない。


という状態ですが、
これが殆どではないでしょうか?




昨年の311に、※国偽ユダヤ資本、世界的巨大金ネットワークの連中によって
大地震と津波が起こされ、その後原発が爆破されたようです。
(そのために※国の軍艦が待機していましたよね?)
福島県も悪いですよ。
何のために福島に幾つも原発を作ったのか、
そこらへんをよおおおおおおく考えてみるとよい。
原発事故を非難出来るのは「原発建設に反対した勇気ある人だけ」だろう。
原発を誘致すれば金になるので誘致をした議員どもと
それに投票した人達には東電を非難する資格は有りません。


と、ここまで書いたらムカついて来ました。
私は情感が欠如しているがちゃんと感情はあるんです。
情感(情緒)≠感情
です。




おっと、話が脱線しました。

絵のお客さんの中には福島県郡山市在住の方もいます。
若い人だし放射能の被害を受けるのは大変気の毒ですが
放射能の害を最小限にするために自衛し、毎日明るく生きています。

原発からもっと離れた土地に住んでいる方もいます。
この方は東電のことを考えると怒りが込み上げてくるそうで
私はそれは無理も無いことだと思います。
この方は原発誘致とは無縁だし。
郡山市の方も地元には原発は無いし、何ら責任はありません。


離れた土地に住んでいる方は農業をしているので
これで作物が全部汚染されてしまい、それに対する保障がどうなっているのか
門外漢の私は知らないが、東電が被災者に対して雀の涙よりもっと少ない
金を支払うという状態なので多分作物に対する保障などは
まだ進んで無いと思う。
そしてもし保障されたとしても、雀の涙より少ない金額ではないかと推察します。

これで怒りが込み上げなかったらいったい何で怒ったら良いのか?


と、いう状況を見て福島県在住では無い人も
東電、政治家、原発で儲けた連中などに対して怒りが込み上げ
病気になりそう、という状態になっている人がいます。
絵のお客さんのご主人なんですけどねw

無理も無い、と思います。

多くの人は原発事故を他人ごとと感じているのではないかな。
気の毒だが、自分は何もやりようが無いので
一刻も早く改善して欲しい・・・みたいな?
これが他人ごとです。
或いは「自分が被害に遭わなくて良かった」的な。
人の意識はピンからキリまであるので、予想外のことを人は考えるものです。
だから「まさか、そういう人は居ないだろう」というあなたの予想を
裏切ってなお、余りある反応をする人がいるのです。
人間なら決して思わないと思われるような感想を述べる場合もあります。
「ざまあwwwww」とか。
(某外国人とか)



まぁ、それは良いとして。
上の人のように「義憤にかられる」人はこの事故を
他人ごととして捉えてないという点では正義感に溢れた良い人です。
でもそのために自分の健康を害してしまいそう・・・というのは不味い。
このような素質の良い人が健康を害すのは社会の損失です。
原発利権に銀蝿の如く群がった連中が健康を害すなら「因果応報」
「天網恢恢疎にして漏らさず」「自業自得」ですが。

<サトルの意味9−2>(2012年3月19日)


私は義憤にかられる人は人間が10人いたら上から2人に入ると思っています。
根拠はこれ→
「世は八分通り獣の入れ物」(日月神示)
自分のことではなく世のため人のため、気の毒な人のため、
世の不正を正したいために、怒りが湧く人はそのレベルに達していない人と比べれば
「我よし」では無いし、良いと思いますよ。

ただし。

いつまでもそのレベルに留まっていてはいけない。

上には上があります。

そのレベルを超えて「世のため人のためを思っているが、気の毒な人を見ても
気の毒だとは思うが感情が動かず、世の不正を見ても『これは間違っている』と思うが
怒りが湧かない境地(レベル)」に、なれるならなった方が自分のためです。




世の80%の人間は日月神も言う通り「獣の入れ物」となっている。
相似象で言うところの「ケモノ次元」です。
私の定義では
◇人間=言語を解する
◇ケモノ=言語を解しない
単純なのですが実は単純ではありません。
どんなケモノも「自分は他人の言語を理解していない」とは思わないからです。
ケモノ本人は「自分は言語を理解している」と、無意識無自覚に思っているから。

本当は理解などしていなくて、誤解しているのですが
それを分かりません。
他人の言動を殆ど理解せず、それを自覚しないまま生きている人を
「ケモノ次元」「ケモノの入れ物」と言います。




PANDORAを読むと怒りが湧く人が多いようですw
その、怒りが湧く人の中で
◇最初は怒りが湧いたが読んでいるうちに、
  数年間読んでいたら怒りが湧かなくなった
◇最初に怒りが湧いたので、以後二度と読まない

と分かれます。

管理人の私としては「どちらでも良い」。
私には関係ない。
他人が理解しようとしまいと私の人生には何ら影響が有りません。
皆、自分の心の欲するままに自由に生きれば良いと思っています。
自分が楽しいと思うことをそれぞれがやれば良いだけの話です。

<サトルの意味9−3>


怒りは怒っている本人の内側にあります。
その証拠をお見せしましょう。



或る件があるとします。
その件に遭遇して
◇怒る人
◇怒らない人
がいます。
同じモノを見て聞いて関わっているのに
或る人は怒り、或る人は怒らない。

そればかりか
或る件に遭遇して
◇怒る人
◇泣く人
◇笑う人
◇何も感じない人
◇残念に思う人、ガッカリする人
◇ワクワクする人
◇うんざりする人
◇解決しようと思う人
◇自分には関係無いと思う人
◇ほっとする人
◇心配する人
キリが無いので止めますが、実に様々な反応があります。




もし、怒る理由が対象(相手、周囲、環境)に有るのなら
全員が同じ反応、つまり怒るはずですよね?
しかし現実ではそうなりません。
同じ反応をする人を探すのが困難なくらい皆さん違う反応をします。

怒り一つをとっても、それに遭遇した場合
◇怒り狂い我を忘れる人
◇普通に怒りを感じる人
◇ムカつく人
◇ややムカつく人
これらの項目の間には無数の怒りの度合いが存在するので
怒り方は無限にあります。
人の数ほど有ると言って良い。




怒りの原因が対象に有るなら、このような差は生じないはずです。
では何故このような差が生じるのでしょうか?
それは怒りの原因は対象に有るのではなく、自分に有るからです。

<サトルの意味9−4>


怒りの原因は対象にはなく自分にあります。
自分の心に有るのですが、それより自覚出来ない怒りが身体に有る。
心に有る自覚できる怒りは、身体に有る自覚出来ない怒りが
表に表れたものです。

つまり怒る人は自分の身体に怒りを溜めている。
多分細胞に溜めている。
生まれてから今日(こんにち)までの怒りが溜まっている。
怒りが溜まると身体が病気(ガンとか)になるので
そうなる前に怒りを放出しなくてはならない。
だから「怒る」。
生存するために。




怒るには怒る理由が必要ですが、
幸いなことに世の中には怒る理由が沢山あるので(笑)
自分が病気になる前に怒りを放出させるために
「許しがたいこと」「嫌な奴」を見つけては
正々堂々と「怒る」。

世のため人のために怒る人は
自分のために怒るのでは無く、高尚な理由で怒る。
しかし怒りは怒りです。




ここまでの理屈を頭に入れ、
自分をてなづけ、何度も教え込み、諭し、導いてやれば良い。

<サトルの意味9−5>


上の理屈では実は足りない。

世のため、人のために怒ってしまう人は
自分の怒りの原因を探ることをしたらいかがでしょう?
生まれてから今日(こんにち)までの、意識化出来ない怒りがあるはずです。
意識化出来ない、つまり潜在意識に存在している怒りが生じたのは
生まれてから物心つくまでの期間が考えられる。
これがインナー・チャイルドです。

また、物心ついてから受けた不当な扱い(殆どが親や周囲の大人の無理解)も
大きな原因となります。
これは思い出せればだいぶ怒りが解消します。

そしてこれらは理屈なので、感情とは別物なので
いくら頭で分かっても心が「分かりたく無い」と拒否すれば
「分かっちゃいるけど許せない」状態になります。
その場合はBSWが心と身体に蓄積した怒りを解消するのでお勧めします。

<サトルの意味9−6>


言語による思考が出来るのが人間です。
動物なら本能だけで生きていてもそれが自然な姿だから良いが
人間は本能の上に考える脳を持っている。
だからこの脳を使わない限り実質的にその人は人間とは言えない。
「人間という、どんなけだものよりもけだもの臭いけだもの」(ゲーテ)と成り下がる。
残念なことにこの次元の人間が80%らしいのです。

ここで人間になるか、ケモノでいるか分かれ目です。




さて、絵のお客さんのご主人が義憤にかられて病気になりそうだ、ということでした。
上位2割には入っていると思いますが、それだけで満足できないというか、
今のままでは本当に病気になってしまいそうなので
(病気にならないために、今、怒りを噴出させているのだとも言えますが)
今のレベル(境地)に甘んじてはいられない、と思ったら
さらに思考してみると良いと思います。




◇頭に情報を入れて(頭で理解し)
◇心に届かせる(納得させる)

という地道な方法です。(逆序のサトリ)


頭に情報を入れないでいきなり心だけで悟れ、というのは不可能です。
頭の良い人なら理屈を理解しますが(知る=イの次元)
それを心(身体)に納得させるのは至難の業(分かる=ミの次元)。
しかしこの苦しい作業をやらない限りは、
常に怒りが湧く、という苦痛を味わうことになる。
ここでどちらを選ぶか、決断したほうが良いですね。

<サトルの意味9−7>


理解した方が良いのは
◇この世は虚構(虚像)である
ということです。




この世が実像で全てである、という思い込みから
様々な問題が生じています。
たとえば・・・

◇何も分からない親が子育てをする
◇親は虚構であるこの世界を全てであると思っているので
  この世界で巧く生きられるよう、子育てをする。
◇親には見る目(潜象勘)など無いので、子供を見ていない
◇子供の心魂は傷つく→怒りが細胞に蓄積

◇大人になるまでに親をはじめ周囲の大人、
  社会から間違ったことを押し込まれ、心が傷つく
◇今日(こんにち)までそれが止むことなく続いている

◇意識化出来ない怒りが細胞に溜まり続け
  病気になる寸前か既に病気(ガンなど)
◇なのでこの怒りを放出しなくてはならない
◇ちょうど良いところに「怒る原因(対象)」が有った!
◇怒る


コトはこれほど単純では無いでしょうが、大雑把に言えばこんなところです。

<サトルの意味9−8>


この世は虚構なのに殆どの人はそれを知らず実像だと思っている。
虚像の例として
◇良い学校、一流大学
◇良い企業、一流企業
◇一流ブランド、高級品
◇政治、経済、法律
◇身分
◇金持ち=良い、貧乏=悪い
◇有名=良い、無名=悪い
◇流行
◇マスゴミなどの情報
◇権威
◇習慣、行事、常識
◇多数=良い、少数=悪い
◇高い=良い、安い=悪い

キリが無いのでここらへんで止めますが、
このような虚像を虚像と思わず実像だと思ってしまうので
(夢の中で「これは夢だ」と自覚するのが難しいのと同じく)
これらの目くらましに目を眩まされて右往左往しているのです。



なので私はこのサイトで
政治、マスゴミのウソを暴いたりしています。
暴くのが目的でありません。
政治やマスゴミに怒りは湧かない。
ただ、虚像であると分かって欲しいので実例を挙げているだけです。
(このようなことも、知ってから心が納得するまで年月がかかる)
人は頭で知ったことを即座に心で分かることは難しいからです。




で、政治やマスゴミなどに対して私が批判をすると
今度は短絡して「批判ばかりしている!」と怒る人が当然ながら
出現しますが、そういう人も「当人自体が怒っている」のであって
私の記事などは「怒る切っ掛け」に過ぎないのだ、と
私は分かっているので平気なのです。

よく親切な人が「よくあのような記事が書けますね」
「ヤバくないですか?」と心配してくれますが
こういう人に対しては「ありがとう」と思い
「大丈夫ですよ」と答えます。
勿論、自分自身が既に怒っているのに
ほんの切っ掛けにしか過ぎない対象を「怒りの原因として特定する」という
愚を行うのは8割の方達なので面倒っちゃあ面倒ですが
私は「自分の安全のために語らない」ことを選ぶよりも
「安全は二の次にして、思う存分言いたいことを言いたい」ので
実行しているだけです。
皆さん、ご心配有難うw




多くの人が世の8割を気にして書いていると思うのですが
私は2割の人しか対象にしていません。
(これが可能なのは「○にゝが入ったからです」(日月神示参照)
その2割の素質の良い人達に「考える切っ掛け」を作っているだけです。
私も若い頃、先輩がた(本の著者とか)が私に
考える切っ掛けを作ってくれたので
少しはモノを考えることが出来るようになったから
今度は私が私より若い人達にそれをやろうと思っているのです。

再三書いていますが、ここに書かれていることは
真実や真理ではなく、あくまでも「今の時点の私なりのサトリ」でしか有りません。
私も分からないことだらけです。
しかし私が完璧に物事を分かるようになってから記事を書くのでは
遅いというか、一生かかってもそりゃ無理だ、と思うので
見切り発車のように、こうして「今」書いているだけです。

<サトルの意味9−9>


さて、私が「マスゴミは本当のことを言わない」という情報を目にしてから
十数年経ちました。
ようやく最近、それが腹に落ちたようで
朝のワイドショーで司会者やコメンテーターが語ったり
ニュース番組で報道しているアナウンサーを見ると
彼らも仕事をこなしているだけなので、彼らには怒りは湧きませんが
(ウソばっかり)と思います。



もし、マスゴミを信じている人達、子供や老人、
若くてもそういう情報には興味の無い人達には
「マスゴミはウソしか言わない」と言ったらどうでしょう?
◇怒る
◇そう言った人を軽蔑する
◇そう言った人を攻撃する
◇その他
の反応が考えられます。

悟らなくては分からないこと、
つまり「知っただけではただの情報」でしか無いことを
悟るには時間が掛かります。

毎日自分に教え返すのです。
アイヌの考え方に「自分を育てる」というのがあります。
そういう単語が有るのです。
彼らはアメリカ・インディアンに対応していますが
(日本雛形論)
大変思慮深く、和人よりも論理に長けていたようです。

(今も一部の人達にはその伝統が有るようです。
  観光化した人達を除いて)




虚構の最たるものがマスゴミですが、その実体を知り
悟ることによって(ああ、この世は虚構だらけなんだな)と
悟る切っ掛けになります。

怒ってしまう人は、この世を実体の有るものだと思ってしまうから
それがおかしい状況を見て、義憤にかられ怒るのです。
しかし大前提として「この世は虚構である」ということを
腹から分かれば、つまり悟れれば、義憤も減ることでしょう。

<サトルの意味9−10>


◇この世は虚構である
と、いうことが腹に落ち、悟れれば
何が起きてもそれほど感情が動くことが有りません。
詳しく書くと

◇この世はゲームである
◇人は生まれ変わる
◇人は過去世で作ったカルマを払う
◇人は体験したくて、様々な目に遭うw
◇この世よりあの世の方が実は楽であり、
  自分の波動の世界なので天国である
◇つまり「生きていれば良いというものでは無い」
◇やったことについては返ってくる。
   それが良いことでも悪いことでも。
◇あの世は同波長の世界である
◇この世は異波長の世界である
◇同波長の世界では学ぶのが難しい
◇異波長なので学べる
◇同波長では発展は難しい
◇異波長なので発展出来る

  
※たとえば自分と同じ価値観の人しか居ないところでは
  多分何も考えない。
   自分とは違う価値観の人の中に居ると、考えざるを得ないから
  それが学びになり、魂に刻まれる

※自分と同波長のあの世に居たら、
  出会えない異波長の人と遭うチャンスがこの世にはある


(過去世、前世なんか知っても仕方ない、という人がいますが
  サトリが浅いと思いますよ。
  ただ知るだけで喜んだりガッカリするだけである、と
  そういう人は思うのでしょうか?
  それはその人自身がそういう人だからではないでしょうか?)

(※だからネットでブログを発見ししばらく様子を見ていると
   だんだん管理人さんの考え、サトリの浅さが分かって来て
   私が興味を無くしリンクを解除したりしています)




上の、トルコブルーの文字の部分
の情報を入れたらどうでしょう?
それでもまだ東電、政府、官僚、マスゴミ、地方の政治家
利権に群がる連中に対して怒りが湧きますか?
まずはこのような情報を自分の頭に入れ、それを
腹で納得すると良いと思います。


情報を得るのも大事です。
◇情報を得て
◇それを理解し
◇納得する
という作業が必要。

<サトルの意味9−11>


普段から考えることをしないで生きていて
「分かれ」
「判断しなさい」
「この件から学びなさい」
「本当の原因は目に見えない」
などと言われて即座に理解する人はいません。

人間は
◇苦痛
◇苦労
◇困りごと
が無いと考えようとしないので、それが或ったら
ラッキーです。
考える人生を選ぶ切っ掛けになるからです。




今、義憤にかられている方
怒らないで淡々と自分に出来ることをする道を
選んだ方がいいですね。
◇ブログを書いて警告する
◇不買運動をする
◇友人知人に語る
など、今ここで出来ることは有ります。
それをやると決めれば忙しいので
怒っている暇が無くなりますw
今、始めることをお勧めします。

<サトルの意味9-12>(2012年3月21日)


怒りの原因は上に書いたことの他にも有ると思います。
以上、私個人の単なる思いつきを述べてみましたが
正解では無いにしても全く見当外れでは無いはずです。


なお、上の文章は
◆言語によって理解出来る人
専用に書かれています。
他人の文章への読解力が無く(乏しく)
誤解しては感情的になる人、
ぶっちゃけて言うと残り8割の人を対象にはしていません。
何故対象にしないかと言えば
そういう人は言語による理解が困難であるために
ここでいくら文章を書いても、そういう人が分かるための
お手伝いをするのは不可能だからです。

済みませんね。

<サトルの意味10>


思いつくまま書いているのでちっとも整序が出来ていません。
上の項目は種類ごとに分類してもっと整理したり
言葉(名詞)を統一したりと、やることは沢山ありますが
それをしていない、ということを明らかにしておきます。




通常、一つのことをサトルには数ヶ月〜数年〜十数年~数十年掛かります。
◆体験をするだけ→後でサトル
◆体験をした時、考えたり疑問を持つ→後でサトル

方法はいろいろ有りますが、サトルには時間が掛かる。
これは頭の良し悪しや学力、年齢には関係無いようです。

素直さと根気を持って忍耐強く、長期間掛けて自分に悟らせる方法もあります。
(上の例で書きました)



何であれ悟らない限りは人間とは言えない。
どんなに良い人でも良いことをしていても
それは動物次元であると言えます。

人間は心がきれいで素直であれば良いのですが、判断力が乏しいと
そういう人の心が不味いことになっているので
素質の有る方達の心が明るくいられるよう、サトリカタを書いてみました。

精神世界でいろんな人がいろんなことを書いていますね、参考になります。
これからは(もう、既に)心の時代らしい。
私の意見では心の時代とは
◇才能(サヌキ=男性性=分離)の時代は終わり
◇波動量(アワ=女性性=統合)の時代が来る

のことです。
精神世界で言われていることと一致していますよね?

このことを理解しないと、いくらセイシンセカイ的な才能が有っても
(チャネリングとか霊能力とか、占いとかいろいろ)
ダメだと思います。
これはハッキリしています。

(沖縄の聖人が「宇宙心」の中で発言しています。
  「これからは霊能者の時代では無い。
    なんというか、天使(のような人間)の時代だね」とか。
  この人は直観力が優れているので見抜いたのでしょう)


(例を挙げるとPANDORAのリンク先の管理人さん。
  以前は才能を誇る人がいましたが、今は居ないようです)




さて、サトルの意味について思いつくまま書いて来ましたが
全部は書けませんでした。
しかしキリが無いのでここでいったん終了します。

<サトルの意味11>(2012年3月21日)


上の方の記事<サトルの意味9−10>
◇つまり「生きていれば良いというものでは無い」
について。

私の場合は老人が何人死のうとどんな死に方をしようと
「それは本人の意識の集大成、結果である」から
同情など微塵も沸きませんが、若い人や子供が死亡すると
加害者に対しては怒りが湧きます。
とは言ってもややムカつく程度ですが。
(私のような情感欠如人間は、このような件については
  感情は動かないが、加害者に対しては厳罰を与えるべき、と
  冷静に思います)



若い人が多数、何の罪も無いのに無念の死を遂げた
「えひめ丸事件」の時は※国に対して怒りが湧きました。
(とは言っても地団駄踏んで泣き喚く、というのは無くて
  ※国、許さん、と思っただけですが)

(あ、これ、わざとやってますね。
  多分その当時の日本の政治家が※国に対して
  ※国の意向を無視しようとしたから、ですね)


その時、精神世界の先輩がこの件について
やけにクールでした。
多分その人は当時既に「命より大事なものが有る」と知っていた。
私は知らなかったので「ヒドイ!許さん!」と思ったのですが
心、魂、カルマなどの知識が有る人は
被害者は大変来の毒ではあるが、霊的にみたらそうでもない、と
いうことを知っていたのです。

それから数年で私も悟りました。
「命より大事なものがある。それは魂だ」と悟ったのです。
知ることも大事です。
知らなくて良いなんて言いません。
まずは「知って」「理解し」「納得し」「悟る」ことが求められる。
それをしないで表面だけを見て
「ヒドい!」と感情的になって思考停止することがいけない。

<無意識と無自覚>(2012年3月24日)


無意識というカテゴリーの中に「無自覚」が入っている、とします。
無意識は「その件に関しては何も考えて無い、考えようと思ったことも無いこと」で
無自覚は
「自分の行動言動性格に関して気づいて無いこと」としますね。
私なりの分類であり、定義であります。

<無自覚1>


まず「無自覚」から。

人は誰でも多かれ少なかれ自分のことを知らない、分からない。
生まれてからずっとその意識で生きてきたので、
それが普通で当たり前になっているからです。
空気のようになっているので「見えない」から自覚出来ない。

私もそうです。
今でも
「あ、自分にはこんな(阿呆な)ところが有ったんだ!」
がっかりしています。
ホントにガッカリ且つうんざりしますが、分かっただけまだ良い。
分からない方が問題が大きい。
というか、分かった時点で物事(懸案)は解決の方向に動き出すので
まずは分かること、気付くことが重要です。
解決するのはそりゃ早い方がいいが、大抵は時間が掛かる。
しかし気付かないで一生過ごすよりはマシです。

<無自覚2>


無自覚の事例を挙げてみます。

ウチの主人はモノの考え方がネガティブなので
従ってその表現である言動もネガティブ。
たとえば
「勉強しないと高校に落ちちゃうよ」
「このままじゃどこにも行けない(入学や就職)ぜ」
「そんなモンばかり食っていたら病気になっちゃうぜ」
「ちゃんとしたものを食わせないと栄養失調になっちゃうぜ」



こういうモノ言いをする人は多いのではないか。
私はこういう言い方を聞くとうんざりします。
人間だもの(笑)たまにはこういう言い方になってしまうのは仕方ない。
しかし発言する都度このような言葉を聞かされていると
うんざりし気分が悪くなります。
なので
「そういう言い方をするんじゃない!」と叱りますが
主人は
「そういう言い方」ってどんな言い方?と、思っているのではないか。
或いは何も思ってない。

自分の言動のどこが問題なのか分からない、
それを無自覚と言います。
本人は決してその言動をネガティブだと思ってない。
それが普通で当たり前でそれより他の言い方を知らない。
それなのに他人(アタシのことだ)から批判されるので
かなり気分を害している様子。

<無自覚3>


だったらご主人の言いたいように言わせてあげれば?

という問題では無い。
それをしたら、不必要な感情(この場合は不愉快)を
ネガティブな言葉を掛けられた人間に与える。
必要無いことをする必要は無いと思う。



また、そういう言葉(意識)で育てられた子供はそうなってしまう可能性が高い。
これも生まれてから毎日のように言われていたら
子供の思考回路もそうなってしまう。
「○○したら●●になっちゃう」
という思考回路で生きるのは
◇必要ない
◇つまらない、感情が悪化する
◇他人が聞いて不愉快
◇言っている本人の思考回路がそうなってしまうので物事の見方が悪化する
◇物事の見方が悪化すれば人生の質も悪化する

  (だからウチの主人は私と結婚する羽目になったのかもしれない。
   気の毒に)




さらに
◇他人から「そういう考え方、言い方をするものでは無い」
   と注意されたら不愉快だ

   (主人は私からたまにモノ言いに関して注意されているが不愉快そうだ)

と、ロクなことが無いのです。
さらに
◇自分の思考の通りの運命が展開する
これも現実化しているようです。
つまり女房がアタシで(以下略)




いくらネガティブなモノ言いをしていても
本人はそう思ってないので他人から
「ネガティブなモノ言いをするな」と言われても
本人にはその自覚が全く無いので、こういう場合
どのような注意忠告も無駄になっています。

こういうことを「無自覚」と言います。

<無自覚4>


ではどういうモノ言いが良いのか?

と思った方がいるかもしれない。

同じ内容のことを言うならポジティブに言えば良いと思いますよ。

「勉強しないと高校に落ちちゃうよ」
「このままじゃどこにも行けない(入学や就職)ぜ」
「そんなモンばかり食っていたら病気になっちゃうぜ」
「ちゃんとしたものを食わせないと栄養失調になっちゃうぜ」


これらの言葉とポジティブに変換してみればよいと思う。
ここには書きませんが。
私だって絶対こういう言い方はしないわけでは無い。
そういう言い方しか出来ない場合も多々有ります。
しかし他の言い方が出来る場合でも、
こういう言い方になってしまうのは如何なものか。




ネガティブなモノ言いをするのは女性の方が多いかなと思うが
どうなんですかね。
私の母はネガティブなモノ言いはしなかったが
父がネガティブの権化でした。
子供は5人いるが「ちょうど中間だ」ってのは居なくて
どちらかの親に似たようです。
自分の努力でポジティブになったわけでは無いので
私は母に感謝しないとならないなw



さて、このように人は多かれ少なかれ
◇自分の思考言動行動を自覚出来ない
のです。
由々しき問題です。

私だって勿論
◇自分の思考言動行動を自覚出来ない
ので、自分の「自覚した方が良い点」
「自覚しなくては不味い点」を探さなくてはならない。
もし、「何事かを分かって行く生き方」を選ぶとしたら、の話です。
そうでは無い場合はその必要は有りません。


他人のこと、周囲のことは良く分かるが
そう言っている本人が自分のことを知らない、
自分のことは棚に上げている、というのでは不味い。
人は往々にしてそういう傾向が有ります。
物事が分かる段階として
@他人や周囲のことが分かる
これが出来るようになってから
A自分のことが分かる

からです。



私だって他人ごとでは無い。
今、自分のことを分かっている最中ですから。
そしてこれは「もう大部分は分かったのでここらへんで終了」
ってことはなく、一生分かり続け(探し続け)ることではないか。

そんな面倒なことしたくもない、というならしなくても生きられます。
実は私も面倒で、そんなこと出来ればしたくありません。
うんざりします。
しかし
向上したい(波動量を増したい)からやる>面倒だからやらない
ので仕方なくやっているわけですよ。

この場合も
波動を増さないと不味いことになるからやる、
というのはネガティブな考え方で
波動を増せば人生がもっと楽しくなり
有るかもしれないアセンションに備えられると考えるのが
ポジティブな考え方です。

<「自分探し」という言葉を検証する>


検証と言っても私がやるくらいなので
たいした検証では有りませんが。




昔流行った「自分探し」という言葉は
感覚的なものだったので、受け取る人によって
内容にかなり差が有ったと思う。
「自分はここに居るのに何で自分を探すんだ?」とか。
(昔、いな・かっぺいというタレントがそう歌っていた)
(勿論皮肉だが)


言葉は受け取る側(聞いた側、読む側)の人間の波動によって
どうとでも取れるのです。
だったらなるべく高い境地で理解したいと私は思う。
低い境地での理解=誤解
はしたくない。


自分探しとは肉体、物質次元の自分を探すのではなくて
自分の本当の性格を知ることではないか。
答えはこれだけでは無いが。
自分の性格を探す、知るということも
◇占いで調べる、とかの陶酔次元の方法
もありますが
◇意識化されていない自分、無自覚な自分の性質の部分
を知るという方法が有ります。

「自分の欠点はコレコレだ」と自覚して言う人がいますが
自覚出来ている欠点などは欠点のうちに入らず
愛嬌の範疇
です。
重大な欠点は本人には自覚出来ない

つまり、自覚出来ない欠点を探すという作業は
重大な欠点を愛嬌レベルにまで軽くすることにもなります。
その結果さらに波動が上がると言えます。

<無自覚5>


ネガティブ発言が多いウチの主人ですが
今日はとうとうこんなことを言い出した。

うちの次女の小子が働きもせず
家事手伝いをしているのを心配して
働かせなけりゃしょうがない。
最近、親の年金を当てにした働かない子供が、
親と一緒に餓死する事件が多い。
小子もそうなる。
だからそうなる前に働かせろ。



まぁ、アルバイトでもいいから外へ出ることは良いことです。
勉強になります。
ウチの中にいると気ままに過ごせてしまうし刺激が無い。
だから働かせることには賛成ですが
本人が自分で始めない限りは、
こちらとしてはなんともやりようが無い。
そのうち働き出すだろうと思っています。
働かなければ将来飢え死にするかもしれないが
それは本人が選んだ道なので私はOK。



しかしウチの主人。
頭の中は
「○○しないと●●になっちゃう」
という思考回路=
ネガティブ思考
になっていることは間違い無い。

<無意識1>(2012年4月5日)


無意識という言葉には様々な意味が有るだろうが、
ここでは私が考える無意識に限定して語ります。

<無意識2>(2012年4月5日)


「そのことについては考えたことが無い」
「思ってもみない」
「意識に上らない」
状態を私は「無意識」であると定義します。

<無意識3>(2012年4月5日)


「考えたことも無い」とはどういう状態でしょうか。
「知らない」からです。
知らない例として子供の例を挙げてみます。




今年の初め頃、我が家の末っ子の◎ちゃんの友人が遊びに来ました。
運転を教えてくれると言って、◎の運転で二人で出かけた。
我が家では夕飯は6時で、7時には◎が風呂を洗ってお湯を溜めるのですが
7時になっても帰って来ない。
7時10分頃帰宅したので叱りました。
連絡も無いし。

◇時間を守る
◇守れない場合は連絡する

これらが出来ないのは問題なのできつく叱りました。
一緒に居た友人のN君も叱られました。

彼らが叱られた理由は

◇N君は門限が有るということを知らなかった

からです。
◎が「6時に帰らなくてはならない」ことをN君に言えばよいのですが
言えなかったのでしょう。
N君は「門限は何時だ?」ということを思えば良かったのですが
そのようなことは知らないので「考えたことも無い」のです。
だから罪悪感も何も無くて帰宅したら、◎と一緒に私から叱られて驚いた。

◇時間通りに帰れない場合は電話をする

という大人なら常識であり、簡単なことをしなかった


これは連絡をしよう、ということなど「考えたことも無い」からです。
大人がそれを出来るのは、経験があるから。
子供は大人になるまでに様々な世の常識や当たり前のことを覚えます。




勿論大人が時間を守ったり、時間を守れない場合は
連絡するのは「家で待っている人が居て、食事の時に同席しないと
面倒が生じたり心配したりすること」を経験で知っているから。
風呂を洗う時刻が遅れれば、家族に迷惑が掛かる。
時間通りに仕事を進めないと不味いことが経験からわかっているからです。

子供はこのように大人なら普通に分かることを知らないので
そのことに関しては「考えたことも無い」のです。



子供だから仕方ないので、まだ良いのですが
大人であってもこれらの知識が無い人が居ますね。
そういう人は大人になるまでに誰からも教えてもらえなかったか
教えてもらったのだが、理解できずに今日(こんにち)まで
来てしまった人です。

<無意識4>(2012年4月9日)


自分がやっていることを「良いか悪いか考えない」というのもあります。
刑場でイエス・キリストが
「神よ、彼らを許し給え。
彼らは自分が何をやっているのか分からないのです」

と、言った際の「彼ら」のような人のことです。
過去のことでは無い。
今もそういう人が殆どだからですよ。




自分の子を小学生の時に登校拒否にしてしまった人から
こういう話を聞きました。
朝、学校へ行かないためにトイレに逃げ込んで出て来ないので
その子の母(報告してくれた本人)は、子供がトイレから出るよう
トイレの戸をバンバン叩いて「早く出なさい!」とやっていたそうです。

その後、10年ほどかかってそのお母さんは自分の意識が
低かった、何も考えていなかったことを「知りました」。
そしたら子供は治りました。



そして子供が登校を拒否していた頃のことを思い出して
私に報告してくれたのですが
朝、トイレに逃げ込んだ子供に対してトイレの戸をバンバン叩いて
学校へ行くよう怒鳴っていた、その自分を「何てヒドいことをしたのだろう」
と「今」分かったそうです。




多くの善人の方が子供を登校拒否にしていますが
「今、自分がしていることが分からない」人達だと思う。
このことが良いのか悪いのか分からない。
何も考えないでやる(実行する)。
しかし自分の意識としては「考えている」のです。
自分は「子供を学校に行かせようとしている」のです。

子供を学校に行かせたいので自分はトイレの戸をバンバン叩く。
当人はちゃんと考えている。
それを「考えて無い」などと他人が言おうものなら、当人の意識は
「自分は考えている」んだから、忠告した人を憎んだり恨んだりして終了。

そうでは無い場合は例外的に少ない。
しかし、その例外とならなければ子供は学校へ行かない。



子供を学校へ行かせようとしてトイレの戸をバンバン叩くことを
変と思わないほど、思考力が乏しいから子供は学校へ行かないのですが
当人にはそれが「分からない」。
だから無意識に「良い」と思ってトイレの戸を叩きます。

登校拒否が治りにくいのは子供とは無関係に、
親が無意識だからです。
無意識を意識化するのは非常に困難。
だから通常10年掛かります。

ただしそれも例外で、治らない場合は30歳過ぎても
引きこもりというカタチでやっています。


子供が他にもいる場合は、その子だけが異常な行動をしている、と
無意識な親は思うが、そうではない。
一番異常なのは親である。
それを心底から悟れば登校拒否他は瞬時に治る。

<無意識5>(2012年4月12日)


自分の思考&言動を「良いか悪いか考えない」ことも無意識です。

その人はそれを言うことが悪いとは思わない、夢にも思わない
考えたことも無い・・・のです。
しかしその発言は聞く相手によっては非常に不快である場合がある。
(コトは単純ではなく、たとえ相手が不快だろうと聞かせなくてはならない場合があり
  そのことを熟慮した上での発言は仕方ないというか、必要です。
  そしてそこまで考えられる人は当然無意識ではなく、
   これを発言したら相手はさぞかし不快だろうと、考えた上で発言します。
  なのでこういう場合は除外します。
  無意識ではないからw)




いくら頭もそこそこ良くて性格が良くても
何も知らず考えもせず(当人の意識としては、自分はちゃんと考えているのです)
その発言内容が良いのか悪いのかの判断もしないで為された発言は
聞く相手によっては非常に不快。




と、いうことは分かりますよね?


以前こんなことがありました。
今から15年ほど前のことです。
子供が通っていた小学校の親であるAさんと仲良くなりました。
私は途中から引っ越してその町へ行ったので
友人が居なかったが、居なくても平気な人なのでした。
しかし友人が出来るのは嬉しいものです。
Aさんという性格の良い人と知り合いになれて嬉しかったです。



で、AさんにはBさんという以前からの仲良しがいました。
この人は性格は良いがいかんせんモノを知らない人で
(これは知識が無い、という意味ではなくて 
  知識も勿論乏しいが、それを基盤として知恵も無い、という意味)

本人は何も分からないのに分かった風な口をきく人でした。
私はBさんを観察していて、Bさんにはその傾向があるな、とは思ったが
それがBさんの個性だろう、と理解。

私は低次のサヌキ人間ですが、ここでひと考え出来るだけの
波動量はあります。
そりゃたまにはイラっと来ましたがその都度(ま、分からないんだろうな)と
解釈して終了。




Bさんに関してはAさんは何も感じて無いようでしたw
Aさんは非常に性格が良いことも原因の一つですが
それだけではなく、当時のAさんは
Bさんと同等な判断力しかなかったためと思われる。
同等な判断力(思考力)でいながら、
Aさんには他人をイラっとさせるところは微塵も無かった。
しかし同等な、つまり低い判断力のBさんの発言は
他人をイラっとさせるものがあった。

ここで一つ重要なことを述べます。
同じような判断力思考力を持ったAさんとBさん。
Aさんはとても他人から好かれて敵が居ない。
ところがBさんは私はイラっとするが、私以外の人からは敵外心をもたれてしまう。
その差は何?と考えたら

Aさん=判断力と思考力は低いが、普通に謙虚
Bさん=判断力と思考力が低いくせに
謙虚でない
      自分が分からない人間であると自覚していない。


私などから見たらBさんは低い判断力に見合う謙虚さを持つべきでした。
それが出来ない場合は「自分の謙虚では無い言動を自覚するべき」でしたが
それも出来なかった。
多分今でも出来ないのではないか。



判断力が低いのだからもうちょっと謙虚に、Aさんのように謙虚にしていれば
何も問題は無いのだが、判断力の低い人は判断力が乏しいために
謙虚な思考〜発言が出来ない、というのも事実です。
(※昔中高年の評論家が「若い人は無礼」という文章を書いていたがこのことです)



さて、私は他人の長所も短所もひっくるめて(ま、いいか)と思える人です。
そもそも自分だって短所のデパートと言えるくらい短所が豊富なので
他人のことは言えない。

しかし世の人が皆、私のような考え方をするわけでは無い。
しない方が普通です。
多くの人はケモノ次元に在るために「自分の短所を棚に上げ、
他人の短所には非常に敏感」なのです。
(こういう状態は不味いと思いますよ。
  しかしいくら不味いと言っても、それを理解する波動量は持ってないので
  忠告しても理解せず、むしろ事態を悪化させます)



さて、何も分からないくせに分かった風な口をきくBさんに対し
イライラが募ったのか他の理由も有るのですが敵愾心を燃やす人が
登場しました。
Cさんとします。

Cさんは物事をハッキリさせる低次のサヌキタイプです。
私もサヌキですがアワ量多いのとそれほどサヌキ性は強く無い。
ところがCさんは女だてらに仕事命みたいなところがあり
強いセヌキ性から来る頑張りや、努力家でありました。
CさんはBさんより物事が見える人だったので
ということは、Cさんから見たらBさんの分からなさが一目瞭然だった。

これは私も同じなのですが私の場合はCさんほどサヌキ性が強くないのと
弟妹が多かったので(まぁ、しょうがないか)と思えるのです。
これは長年、分からずやと暮らしたために乏しいアワが鍛えられた
結果だと思われます。

が、Cさんは二人姉妹の長女であり、妹というのは「命令すれば理解する」し
大抵は言うことをききます。
弟がいる場合とは違う。
なのでアワが波動量化されてはいるが、弟妹が多くて苦労した私と比べれば
まだまだ波動量化されてない。

私から見てCさんはキツいが正直な良い人です。
決して嫌な人では無いどころかBさんよりはモノが分かるので
私にとっては付き合い易い。
ところがBさんはモノが分かったような発言が多いのに
何も分かっていなくて、私が何か説明をしてもその場で理解せず
小動物のような表情をするだけであり、後日も理解せず(笑)
話が通じず困ったものだ、と思っていました。
困ったとは言っても私が苦痛でのたうち回ることはなく
ただ「Bさんは困った点がある」と認識するだけですが。




Cさんは日頃のBさんの無意識な発言にイライラを募らせていた上に
あることが切っ掛けとなってとうとう爆発しました。
具体的には「もう許さん!」ってことになり、
子供の同級生の親の中の親しい人達に電話を掛けまくり
Bさんを孤立化させようとした。
かなり荒っぽい手ですねw

それを知った優しいAさんがCさん宅へ行ってとりなしたが
Cさんの怒りは凄まじく、休戦を受け入れませんでした。
Bさんは何故、自分がこのような目に遭うのか全く理解出来ず
かなり苦しんだようです。

これら一連の騒動を見ていた私は「まぁ、しょうがないか」と思いました。



と、いう話ではなくて私がここで言いたいのは
「無意識の発言」についてです。
本人が発した無意識の発言が困った事態を引き起こすが
本人にはそれが分からず(だって無意識だから)
苦しむことになる、という話。

そういう発言をするな、ということでは無い。
発言するなら意識せよ、という話ね。




上の例はたかが子供の同級生の親同士のトラブルだからまだ良い。
付き合わなければ済むことです。

しかしこれが職場だったらどうなるでしょうね?
せっかく良い性格を持ち頭だって良いのに、無意識発言が多い人は
職場の誰かがその人の言動にイライラを募らせて
「いつか痛い目に遭わせてやる」と
ひそかに思っていることは間違い無いです。
大抵の職場に無意識発言人間が一人居るとすれば
そういう人を「いつか成敗してくれる」と思う人もいるものです。
非常に不味いですよ、って話です。
無意識は怖いのです。

<低次のサヌキ人間の典型>(2012年4月12日)


「ありがとう♪見つけた!」の記事「状況ではなく渡しのあり方が問題だ」
どんな手を使ってでも役員を逃れようとする
或いは楽な道を選ぶ、或いは我を押し通す女達が登場します。
相似象にも「(やらなくてはならないことを)逃れようとする低次のサヌキ人間」の
説明が載っていますが、その典型なので参考になります。


こういうタイプはどこにでもいますね。
子供が通う学校のクラスに必ず一人や二人、或いはそれ以上居ます。
男よりも女に多いのではないか。
女の方が男より社会性に乏しいからか。

<無意識6>(2012年5月8日)


人間は基本的に無意識です。
その証拠に赤ちゃんは無意識です。
何も知らない分からない。

その状態から少しづつ意識化していくのですが
それでも基本は無意識なので、意識しないと、意識化されません。
しかし意識化するためにはまず「意識」しないとならない。



意識化することが難しいのが分かります。

<無意識7>(2012年5月8日)


人間は基本的に皆、無意識なのですが
生まれてから家庭、学校、社会によってある程度意識化させられます。
普通にいうところの「意識化」です。
相似象ではさらにその上の「意識化」を求めています。

だから育った時代、年代、国、社会の背景が違うと意識化にも差が生じます。
今の老人世代は「意識化」とは殆ど無縁の社会、家庭、時代に生きてきたので
意識化したことは無いのではないかと思います。
その世代の人達は
◆他人と同じような行動を取る
◆多くの人と同じような行動を取る
ことで生きて来た。
殆ど自力で物事を考えることが無い。
(日常生活や仕事では考えますが)
その結果、その人達が社会の中枢に居た頃の社会は
◆一つのものが長い間流行した
◆流行のものい皆が飛びついたり、よし、と認めていた
のです。
しかしそれからン十年経った今では
◆流行は個々のもの、過去のものとなり
◆一つのものに皆が飛びつくことが無い
世になりました。

自分が好きなものを分かるには「自分はコレを好きであれは嫌いだ」と
意識化する必要があります。
中高年世代では無い世代ではそれが普通にできますが
中高年、特に老人にはそれが難しい。
どこかの誰かが「これが良い」と言ったものが、安心できるので
自分もそれが好き(と、思っているだけですが)なのです。

このように老人は無意識に生きているので、悪い人達の餌食になっています。




と、いう状況について
老人といえども自分で考えなくてはならないことは若者と同様だ、と
考えるのはサヌキ人間。
老人をカモにするのはもっと低次のサヌキ人間。
老人がカモにならないよう、老人に自覚して欲しい、させたい、と思うのは
私のようなアワ量多い低次のサヌキ人間。
老人には言っても無駄だから、と放置の方針
「どうとでもなりやがれ」は低次のサヌキ人間。
老人には言っても無駄だから、それを認め(諦め)面倒を見るのがアワ人間。
老人には言っても無駄だから、老人が無意識でも生きられる社会を創ろう、
と思うのは高次のアワ人間。
ではないかな。




無意識で生きている老人(春山に夏山登山の服装で登る人などのこと)
が悪い人の餌食になっているのを見るとその老人の無意識に呆れますが
同情はしません。
アワな人は老人に同情するのでしょうが・・・

こういう老人達は「死んでも意識化しない、したくない」のでしょう。

<無自覚の実例>(2012年6月2日)


「無自覚」の実例を分かり易く書いてる記事を発見したので紹介します。
「情熱惑星」→自覚するって素晴らしい 2012年 06月 02日 (土) 10:11 |

こういう記事を書いてくれると私も助かるので有りがたい。
私も記事を書こうと思っていますがなかなか手が回らないので。

<考えない人1>(2012年6月15日)


MONO→「仕事あれこれX」→<仕事出来ない人>(2012年6月15日)
&<出世出来ない人いろいろ>(2012年6月14日)

に登場する「仕事が出来なくて」「その結果出世しない人」は
仕事をする際に考えないのです。
ところが相似象でも何度も書かれていますが、
考えなくても本人の意識の上では自分は「考えている」のです。
だから困る。
もし、その時「自分は考えていない」と分かれば、
それは「考えている」から分かるのですが・・・




たとえば「イマイマにキを入れよ」と聞くと
(そうだよね、本当にその通りだ)
と思い自分もそうしようと思う。
しかし、
それと「実際にイマイマにキを入れること」とは全く別なのです。
と、書くと
◆この理屈が分かる人
◆この理屈が分からない人
とがいますが
◆この理屈が分かる人
の中に
◆きちんと分かる人
◆自分なりにしか分からない人
とがいます。

<考えない人2>(2012年6月15日)


全ての人は「自分なりにしか考えられない」のですが
その「自分なりの考え」の高さ、正確さが重要です。

自分なりにだって考えていることには違いは無いんだから
それは考えていると言っていいんだよ!

というのは低次元の理屈です。

大きく分けると
◆自分なりにだって考えているんだから、それだってちゃんと考えているうちに入る
とする人と
◆いや、「下手な考え休むに似たり」と言って、考えとも呼べないものは
  考えているとは言わないのではないか
とする人とがいますが、このコーナーで対象としているのは下の方の人だけです。
上の「考え」の人は相似象は必要ない。

<考えない人3>(2012年6月15日)


考える人と考えない人との二種類が存在すると言えるが
それは○×式ではなくて、
100%考えられる人と0%考えられる人とが居ると仮定すれば
(実際にはそのような数値は通常在り得ないが)
(100%=神、0%=脳死状態)

その中間の数値の人が居て、間は限りなくグレーゾーンの人で
占められていることが想定出来ると思います。

また個人の単位で見てみれば、
その人は常に同じような数値で物事を考えているとは言えない。
知らない分野に関しては「何も考えない」のは当然です。
得意、不得意があります。
またその人が置かれている環境や状況、情報の量、年齢も関係します。



が、以上のことを考えに入れた上でこの件について考えてみれば
やはり「考える人」と「考えない人」とは存在します。
下に<考えない人>の事例を挙げてみました。

<事例1>(2012年6月15日)


考えない人の実例を挙げてみましょう。
Aさんの例です。
通常、相手に対してこのようなモノの言い方は私でもしませんが
Aさんが「分かりたい」人であることを承知の上で指摘、注意をしました。
Aさんは分かりたい人なのですが、
「何を」「どう」分かったら良いのかが分かってないのです。
抽象的な言い方や一般論では理解できないタイプの人です。
その場合は具体的に指摘し考えさせる必要があります。

多くの人が「何を」「どう」考えればいいのか、考えるとはどういうことか、
分からずに居ると思うので、参考にしていただくために掲載します。

<事例2・・・集中できない人、意識が拡散する人>


Aさんに必要な、或る品物Bを買うために私がインターネットで検索しました。
(その場所が私の家だったから)
(私が以前、それを買ったことがあり、Aさんよりその件に関して知識があるから)
名前も分からないものなのでしたがようやく「Bと近いもの」をネットで発見しました。
それについての情報ページをAさんに見せました。

さて、このBを販売している店はどこだろうと、TOPに行ってみました。
その店はCという品物を販売していました。
するとAさん「私、C好き!」

えええええええええええええええっと。
今、とても苦労をして記憶を頼りに「B」を探しているのです。
そしてやっと「B」が見つかりました。
だから今は「B」に集中するべきです。
もし、仕事をしたいのなら。

遊びでやるならどうぞ、自分でおやりください。

私「Aさん、今はBを探している(当然購入も考えなくてはならない)んだから
   今、Cのことを言っている場合じゃないよね?」



Aさんは或る一点に集中できないタイプのようです。
Bを検索しているのならBに集中すればよい、というかそれしか無いのですが
目に入った新たな情報である「C」に意識が集中してしまう。
それは「B」を検索している人から見れば「意識が逸れている」ことになる。
つまり「集中していない」「集中できない」「集中する気が無い」
要するに「イマイマにキを入れることが出来ない」ことになる。



無意識で生きている人、特に女性(主婦)には多いのでないかな
こういう思考回路の人。
こういう人が仕事をする場合は「上司が言ったこと」を忠実にこなすだけです。
(忠実にこなせればまだ良い)
とても「自分で考案して、仕事を構築して行く」ことは出来ない。

<事例3・・・考えないで発言、行動>


Aさんがうちに来た時、手土産を持って来てくれました。
それはコーヒーに入れるクリームを粉末状にしたものでした。
その品物をDとします。
AさんはDを誰かからもらったのですが、自分の家では使わないので
私に持って来たのでした。

Aさんが私の家でDを使うかと訊くので「使わない」と答えた。
すると、そのDを私にあげるので誰かにあげて欲しいと言うのです。

通常なら「うん、いいよ」で済ませても良いでしょう。
誰かしら必要な人が居るかもしれない。
しかし今、Dを使う人はあまり居ないのでDをもらって喜ぶ人は殆ど居ないと思われる。
この場合、Aさんの思いやりの気持ちを汲んで、ここでは一応Dをもらっておき
後で処分する・・・という方法はある。
しかしそれをした場合、Aさんは何かを学びますか?
学びませんね。
「良いことをした」という無意識の状態に陥ってしまい、
精神に何の進歩も変化も無いことが予想されるのです。




なのでやはりここは穏便に済ませるのではなくて
嫌な思いをしてもらってAさんに学んでもらおうと考えた。

私  「うちではDは使わないから要らないや」
Aさん「ifさんが使わなくても誰かにあげてくださいw」
私  「は?
     ってことは私がこのDを保存、管理することになるよね?
     それって仕事だよ?
     私にその仕事をしろって言うの?」
Aさん「!!!」
Aさんは、また、良いことをしたのに私に叱られて驚いています。
かなり前から何度もこういう目に遭っているのですが、学習しないのです。
考えない癖がついているからです。

私  「ええええええええええっとね。
     品物を預かってそれを保存して、
     誰かにあげるまでウチで管理しなくてはならないよね?
     それは仕事だけど分かる?
     私にその仕事をしろと言うの?」
Aさん「???」

「仕事」に関する定義は人それぞれです。
それ以前に定義そのものが無い人の方が多
いかな。
特に女性、主婦、子供など。



私  「Aさんは自分がそれ(誰かからDをもらってあげる人が現れるまで
     自宅で保存し管理すること)をやるのは平気だろう。
    Aさんはいつも人のために良いことをしているからね。
    でも自分がそれを出来るからと言って、私にもそれをしろと言うのは
     自己中心以外の何者でも無いけどね」
Aさん「いえ、私もそれ(要らないものを自宅で保管してあげる人を探すという仕事)を
     するのは嫌です」
私  「は?
     ではAさんは、自分はやりたくないことを私にさせようと言うんだね?」
Aさん「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そういうことになりますね。
     ごめんなさい」
私  (はああああああああああ・・・)溜息




考えない人は自分の言動や行動を「考えない」のです。
何も考えないで言ったりやったりしている。
発言する前に、行動する前にひと考えすればよいものを、しない。
これが「考えない人」です。




まぁ、通常は他人が持って来てきれた手土産でここまでゴネることはしませんよw
Aさんにモノを考えるという体験をしてもらおうと思ったので敢えてしただけです。
しかし今までAさんには同様のことを何度もしているのですが
殆ど変化が見られません。
考えない癖がついているからです。
しかし世の多くの人はAさんと同じくらいモノを考えて無いだろうから
Aさんが悪い、というのではないのです。
これは良い、悪いの問題ではありません。
物事を良い、悪いで捉える人も、相似象は向かないし、縁は無いと思います。

<事例4・・・余計な情報に意識が行く、意識が拡散する>


Aさんは午後から仕事が有る日の午前中、我が家へ来てくれました。
なので午後何時から勤務なのか訊きました。

Aさん「午後は○時○分からです。
     午前は○時○分です」
私  「Aさん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     私はAさんに『午後の勤務は何時から』か、訊いたので
     午前は訊いてないけど?」
Aさん「???」
私   「今、必要な情報は『午後からの勤務時刻』であって
      午前の仕事のことでは無いよね」
Aさん「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
私  「Aさん、今、意識を集中させることだけに集中させておくれ。
     午前の勤務のことは今は関係ないんだから。
     私はAさんの勤務開始の時刻を聞いて
     ウチからAさんの職場まで行くのに掛かる時間を計算したいんだよ。
     今、段取り(時間の割り当て)を考えているんだけど」



或るコト(モノ)に集中してそのことについて考えを巡らせなくてはならないのにも関わらず
直接関係のないコト(モノ)へ意識が拡散する人、多いです。
こういう人はまとまった思考は出来ないのではないかと思います。

女(主婦)や子供がこの状態でも、仕方ないかな、と思うが
それでもあまりにもこの度(意識が集中出来ない、拡散する)が強いと
子供は学校へ行く、という当たり前のことすら出来なくなります。

<事例5>


私  「Aさん、子供が登校を拒否った時、考えたよね?
     そして『自分は考えてない』ってことが分かったよね?」
Aさん「うん」
私  「Aさんが『自分は考えてないのだ』ということが腹から分かったので
     子供の登校拒否は治ったけど、Aさんは考えない癖がついているから
     それじゃあダメだよ。
     今、(子供関係は)小康状態なだけだよ。
     これから子供が成長して嫁が来たらどうするの?
     Aさんの家に寄り付かなくなるよ」
Aさんは神妙に聞いています。



沢山有るんですよ、そういう家。
息子に嫁が来た。
でも嫁には姑とは違う考えが有るので、
姑がいくら「良いこと」をしても嫁には通じないばかりか
うるさがられて嫌われるケース。
その方が多いかもしれない。




私  「Aさん、小康状態の今のうちに考える癖をつけておいた方がいいよ」

<考えない人まとめ>(2012年6月15日)


具体的な事例を挙げたほうが話しが分かり易いので
敢えてAさんにサンプルになってもらいました。
Aさんは私より判断力(思考力)が乏しいのですが
心がとてもきれいなのでOKです。

さて、Aさんレベルのお店の管理人さんは居ます。
皆、絵のお客さんですから、
お客さんの夢を叶えるためには喜んで協力していますが
Aさんレベルの人を相手にすると大変、苦労をする、
ということはお分かりいただけたことだろうと思います。
面倒臭いから忠告はしたくないのです。
一度忠告をすると、一つ分かると二つ分からないことが出て来るので
その相手をしなくてはならず、
なので殆どの場合は「自分で気付くのを待っている」のですが
ここまでわからずやだと自力で悟ることは殆ど不可能であるために
こういった人の場合は数年〜十数年〜数十年、
同じ場所(意識の位置)に居続けることになります。

それが分かるので気の毒だから忠告や説明をしているのですが
面倒>思いやり
(面倒臭いという気持ちが思いやりを上回れば)
忠告をしないし
思いやり>面倒
(思いやりが面倒臭さを上回れば)
仕方ないので忠告をしているのです。




しかし私も忙しく、人生の主役は本人であるし
自力で気付くことが基本ですから、大抵の場合は放置しています。
だから私から何も指摘されない=大丈夫
では無いのだ、ということを分かっていたほうが良いです。

<イマイマにキを入れる1>(2012年6月25日)


「イマイマにキを入れる」と一口(ひとくち)に言っても
入れ方はその人の波動に見合った入れ方しか出来ない。
その人の波動を越える入れ方は不可能です。

今の自分の波動でイマイマにキを入れつつ、
自分の波動そのものを上げていく必要がある。

<イマイマにキを入れる2>(2012年6月25日)


よほどボンヤリしている人か、
通常はボンヤリしない人でも偶々(たまたま)ボンヤリしていた場合は
イマイマにキを入れられないとしても、意識があって活動している最中は
その人なりにイマイマにキを入れているものです。
いや、その人なりにしかキを入れられない。



活動中でもボンヤリすることは普通にあります。
たとえば私などはこうして記事を書いていますが
目を開いて文章を考えながら手を動かしている。
決して意識不明(気絶中)ではありません。
ところが誤字脱字文法の間違い意味を間違えるなど
日常的にやらかしています。
これはイマイマにキを入れてないからです。
これだけ意識がハッキリしているのにキが入ってない。



「イマイマにキを入れる」って簡単なようですが難しいです。

<イマイマにキを入れる3>(2012年6月25日)


人間なので100%キを入れることは不可能。
必ず見落としが有る。
だからその場合は個人ではなく何人もの人で協力するしかない。




たとえば他人の文章を直す仕事があります。
アレなんか意識を入れるのは難しいと思います。
私だったら嫌になる。
でもそのプロが居て(普通の編集者かもしれないが)
本を作る際には
○著者本人
○担当編集者
○編集長
○間違いを探す人
の目に触れて何度も読み直しした挙句
○目出度く出版!
○書店に並ぶ
○読者が買って読む→間違い発見
となることが珍しくありません。

これなども本気でキを入れても、まだ入れ足り無いから起こる。

<イマイマにキを入れる4(事例)>(2012年6月25日)


イマイマにキを入れるのは人によって違います。
何にキを入れるか、これも違う。

人は自分の波動を越えるものは感受出来ない。
自分の波動なりの見方(キの入れ方)しか出来ない。
人がどのようなモノ(コト)にキを入れているかで
その人(の波動)が分かります。



以前、こんなことが有りました。
或る駅の構内で特急券を買うために券売機の前に来た。
そこには何故か切符
(特急券なのか乗車券なのか分からず)
沢山置かれていた。
それを見て私は(置いてあるな)と思ったのですが
同行のPさんが大騒ぎをしています。
この通りでは無いが、こんな感じです。
「これは何?券?」
「こんなところに切符みたいのが置いてある」
「これ、切符?」
「乗車券?特急券?何?」
「切符だよね」
「ああ、切符だ」
「いったいどうしたんだろう?」
「誰が置いて行ったのだろう?」
「なんでこんなところに置いてあるの?」
「こんなところに置いておいていいのかな」
「(これらの切符の持ち主は)大丈夫かな」

と声に出しているのです。




まず、Pさんが発言した内容ですが
それを見た私は瞬時にそれらのことを考えました。
考えはしたがそれは脳内で言語化しただけです。
このように。
(あ、切符が置いてある)
(乗車券か特急券か分からないが)
(ここに置いてあるということは多分不要なのだろう)
(勿論それは確実では無いが)

他人が置いて行った切符の件は自分の脳内で瞬時に言語化すれば
コト足りるのであって、わざわざ発言することでしょうか?

発言するからには、この事態を解決しようとしているのでしょうか?
しかしPさんは騒ぐだけでこの事態
(切符放置)を解決しようと
しているようには見えません。
もし解決したいのなら自分でその切符を捨てるとか
自分で捨てて良いものか悪いものかを判断出来ない時は
駅員を呼ぶとか取るべき行動は幾つかありますがそれをしません。
ただ騒いでいるだけです。
では何のために音声を伴って言語化しているのでしょう?



次に考えられるのは「自分が放置切符を発見したこと」を
同行の私に知らせるためである、ということ。

しかし私達はその券売機で特急券を買ったのだから
放置切符が目に入らないはずは無いのです。
だからこの場合Pさんが大事件のように騒いでいる
「放置切符発見!」情報は私にとっては既知のことであります。
誰が見ても、目に見えているものを
「私は見つけた」
報告されてもこちらとしては
「だから?」としか言いようが有りません。



次に私にその放置切符の件を知らせたい場合ですが
私に知らせて何になるのでしょう?

@if に知らせて同意を求めたい

同意して何になるのでしょう?

Aif に知らせてこの件を解決してもらいたい

他人の力を当てにしているのでしょうか?
それだったら迷惑な話です。
発見した人が解決すれば良いと私は判断します。

@もAも私が推理しただけなのでPさんがいったい何を目的として
「ここに切符のようなものがある!」と騒いだのか、真相が分かりません。




普通の日常の場面ではこのようなことは聞き流します。
いちいちコトを荒立てはしません。
こんなコトどうだっていいんですよ。

しかし私はここでPさんに学んでもらうことにした。
まず
@何を目的として騒いでいるのか?
を訊きました。
当然Pさんは答えられません。

A解決したいのか?
Pさんは黙っています。

B解決したいのなら、解決すれば良いことだ。騒ぐ必要は無い。

CしかしPさんは解決しようとしていない。
では何を目的とした言動か?

D自分が発見したことを主張したいのか?
しかし私もそれ(放置切符)は見た。
嫌でも目に入るからアレが見えない人は居ない。
だったら何故、誰もが目にするものを発見したと主張するのか?

E主張するからにはこの件を解決したいのだろうがそのような行動も取らない

FPさんは騒いでいたが、この券売機の前に来た人は誰もが放置切符を見ている。
見えるので頭の中で「ああ、券が有るなあ」と誰もが思う、分かる、気付く。
しかし声に出しては言わない。

G同意されたいのか?
「ここに券が有る」と。
しかし誰が見たって「ここに券は有る」んだから同意も何も無いのではないか?
「それがどうした?」という感想しか浮ばない。

Hあなたは他人に
「それがどうした?」と思って欲しいのか?
Pさんは
「違います」と答えた。

Iでは券を放置している駅員の体たらくを責めているのか?
だったらすぐそばに駅員が居るんだから駅員にクレームつければよい。
が、それもしない。
Pさんには駅員を責めるつもりは無い。

Jでは何をしたいのか?
何を目的としているのか?
Pさんは答えられない。
何故なら
「目的など無いから」です。
いや、Pさんなりに目的は有ったのでしょう。

「券を発見したこと」に同意、共感して欲しい・・・とか。
だけどそれに何の意味があるのだろう?

「意味なんて無いんだよ。同意や共感を得ることが目的だから」

「だったら、そう言えば?」

「ねえ、私放置切符を発見したんだけど、ifさんにも見える?」

「見えるよ」


それで良いのだろうか?

質問「見える?」
回答「見える」


それが目的か?

と、いうことは、Pさんが目にし、Pさんが逐一言語化したものについて
私は常に同意しなくてはならないのだろうか?
(※子育て中は子供にさせられますがねw
   「お母ちゃん、ちょうちょ〜」
   「本当だねぇ、ちょうちょ、飛んでるねえ、可愛いねえ」
   「お母ちゃん、からしゅ〜」
   「うんうん、カラスだねえ〜よく見つけたねえ、○ちゃんは偉いな♪」)




ここで再度ことわっておきますが
こんなコト
(切符発見に纏わる話し)どうだっていいんですよ。
無視すれば済むことです。
或いは
「本当だね、券が有るね」と同意すればコトを荒立てずに済む。
そこを敢えてPさんに
「考えてから(考えながら)行動(発言)しなさい」
「自分の行動を客観視しなさい」

ということを理解してもらうために、機を逃さす私は発言しました。



また、その場には私の他に3名居たのですが誰もPさんの「切符発見発言」に
同意をする人は居なかった。
反応すらしない。

なのだからPさんは自分の発言に誰も反応しないのだ、とその時考えれば
つまり「イマイマにキを入れれば」自分の発言が場違いであることを悟ったのですが
それをしない。
Pさんの意識は
○自分の発見
○自分の情報発信

のみに向けられていて決して
○周囲の人の反応、思惑
には思い至らないのです。
これを自己中心といいます。



通常はたかが日常会話にこれほど噛み付くことは無いのですが
Pさんには普段から「必要な思考をしない傾向が有る」ので
特別に親切心を発揮しました。
他には、こういうコト(不必要な言動を繰り返すことなど)に
気付く人はいないだろうから仕方なく私が行動したというわけですよ。
正直言ってこんなコトやりたくないですよ。
(なお、思考力の高低と心のきれいさは別であり
  ましてや人間の価値とは無関係です)

<イマイマにキを入れる5>(2012年6月25日)


このようにイマイマにキを入れる、と言っても人によって様々なのです。
人は自分のレベルを超えた感受、思考の仕方は出来ません。
Pさんの場合は「目に見える対象」にキを入れることが
イマイマにキを入れることになっているのではないか。
「そこに何かが有る」
「私は見ている」
「私は発見した」

そのレベル
(物質レベル)でのキの入れ方なのです。
こういう人は実は大変多い。
世の中の殆どの人、特に女主婦老人子供田舎の人がそうです。
目に見えるモノ全てを言語化するのですから
一日中意味の無い発言をしていることになるが
それで本人はコト足りているのです。

子供の場合。
小さい時はそれで良い、だって子供だから。
でも一生それではいけないので
いろんな場所で訓練され一人前になります。
訓練されないとその子供は社会に出ていけない。
いや、その前に学校に通えなくなる。




勿論世の人、学校、会社そのほかに所属する人が
イマイマにキを入れているかと言うとそうでは無い。
しかし
○全てのイマイマにキを入れている
●イマイマに全然キを入れてない
の二つの極端な例の間に無数の段階が有り
人はそのどこかに属しています。

ある程度のレベル、最低限のレベルでキを入れられれば
この社会を生きる上では良いのではないか。
その最低限に満たない場合は不味いと思う。




Pさんは「目に見えるものを片っ端から言語化して
それを発言する」ことが癖になっているというか、
そのように育ったのだと思います。
主人の母などもそうです。
こういう人はどうでも良いことは言うが肝心なことは言わないもので
だからそういうレベルで生きているのです。
それが良いとか悪いとかではなく、事実を言ってます。


もしPさんが物事を考えていたら
「ここに切符のようなものが有る!」と騒ぐ前に
脳内でそれについて思考し、発言はしなかったはず。
発言する必要が無い、ということは思考すれば分かるからです。
格言か諺(ことわざ)に
「喋る人は考えない」という言葉が有ります。
賢い人のお陰で私達凡人も少しはモノが考えられる。
まっこと、先人の知恵には助けられます。

<イマイマにキを入れる6>(2012年6月25日)


このように「イマイマにキを入れる」という言葉は
短くて単純ですが、中身は単純では無い、という話でした。
よく皆さんから
「イマイマにキを入れてやっていきたい」
メールが来ますが、この言葉を自分なりに分かって(悟って)
使っていることは「分かる」し、それしか在り得ない。
なのでそれで良いと思います。
でも頭の片隅に
その人なりのキの入れ方である。
その人なりのキの入れ方しか出来ない。

という情報もぜひ入れておいてください。



その人なりのキの入れ方しかできないのだから
一刻も早く自分の波動そのものを上げた方が良い。
イマイマに入れる、自分のキの質を高めたほうが良い
と、ここに書いておきます。

<イマイマにキを入れる7(事例)>(2012年6月26日)


上の記事を読んだ方から体験談が来ました。


<イマイマにキを入れる1>(2012年6月25日)を読んでいて
ふと、思い出した文章がありました。

「包帯を巻いてやれないのなら、他人の傷に触れてはならない」です。
(※その時の同行の人達はPさんの発言、行動を「見て無い」「聞いてない」
   という態度を取っていましたが、正解でしたね。
   Pさんの発言と行動の何がどういけないのか、説明が出来ないので
   沈黙するしかないです。
   非常に頭と性格の良い人達です)


傷が何かは人によって違うのでしょうけれど、無邪気な言葉は傷をもっと
酷く傷つけることがあるのではないかと思うのです。
子どもって残酷ってよく言いますけれど、無自覚の大人がそれと同じことを
やらかしてしまうことってあると思うんです。言葉って難しいです。

Pさんはifさんに親切心を発揮してもらえて良かったなーと思います。

…以前から思っていたのですが、自分に対処できないことは、いっそすっぱりと、
放置(無視)するのも潔いのではないかと思うのです。
(※それしか無いですね)
対処できなかった自分を責められても仕方がない、という覚悟を持って。
(※覚悟を決めることですね。それがいいと思う)



そういえば、言語化で、以前、私が勤務していた職場の定年間近の女性社員を
思い出しました。
(※ってことは57〜59歳ですかね)

その人の場合は、ただ見たものを言語化するというだけではなく、言葉の中に
「そういう訳なので、さぁ、解決しなさい」という指示が含まれていました。
(※Pさんは命令はしないが、自分の発言に注目してくれ、
   賛同してくれ、自分の代わりに考えてくれ、解決してくれ、という
   隠れた意味が有るのだと思うから、定年間近女性と似たようなものなんです。
   命令では無いが遠まわしに「なんとかしろ」という意味が有る。

   独り言がつい出てしまうのは普通にありますから
   絶対黙っていろ、というのでは無いが
   周囲の人が自分の発言に反応するまで言い続けるのは
   自分でも意識していないが、そういう隠れた意味が有るのでしょう。
   それは自分でも分かっていないのです。
   だから問題なのです)




たとえば、他の部署からたくさんのファイルが資料として持ち込まれたときの事です。
皆忙しいので、とりあえず数人で書庫の書棚にスペースを設けてそこにファイルを
適当に放り込みました。そのファイルは当分見る必要のないものです。

その女性はあとからやってきて棚を見て
「ファイルがばらばらに放りつけられてるー」
「五十音順にしたらわかりやすいかもねぇ」
「いざと言うとき探すの大変ねぇ」
「あ〜あ、普通、五十音順にするわよねぇ、いい加減な仕事ねぇ…」
等々、延々と言っているのです。もちろんみんな忙しいので無視です。

その人は誰も自分の言葉に誰も反応しないと判ると、苛々した顔になり、
入社二年目のその部署で一番若い男性社員の側に行くと、呪文のように延々と
同じ言葉を繰り返し始めました。男性社員は「ああ、そうですね」と一言。
女性社員は「そうですね? そうですねって?」と大げさに驚いて見せてから
再び「えーっとね、ファイルがばらばらに〜」と繰り返します。

男性社員は根負けしたように「五十音順に並べたほうがいいですか?」
と言ったのですが女性社員は、はい、いいえで答えません。
同じように言葉を繰り返します。
「あのね、だからね、ファイルがばらばら。探すの大変。
普通並べるときは五十音…」
男性社員はあ〜あ、といった顔で「じゃ、整理してきます」
と言って書庫に行きました。
女性社員は満足した顔で自分の席に戻りました。



その女性社員が気付いたことは、誰でも簡単に気付くことです。
そしてそれは、どうしても今すぐしないといけないような重要なことではありません。
だから放置してあることに、その人は気付いていたのかいないのか…。

その人は綺麗にファイルが並べられたのを見て満足げでした。
そして、部長にファイルを五十音順にきちんと整理したことを報告していました。
(実際に整理をしたのは男性社員である、いうことは一言も告げません)

部長はあっけらかんと
「あー、そんなことしなくても…あのファイル、多分もう見ないよ」



その人はそんな事ばかりしていたので、鬱陶しい人、と皆から認識されて
孤立していったのですが、本人は「皆気が利かない。私がしっかりしないと!」と
思っていたようです。

自分が気付いたら、黙ってその面倒を引き受けるとか、
(その女性社員はパソコン操作ができず、
 他の社員に比べて仕事が格段に少なかったです)

自分が対処できない事、やりたくない事は、人に命令しない、指図しない、
できる人にきちんとお願いしてやってもらう、という考えは全くないようでした。

50の坂は厳しいです。
私のキは大丈夫なんでしょうか。ちゃんとしないと、ですね。


この方なら大丈夫だと思います。

<イマイマにキを入れる8(事例)>


上の記事のPさんのような人は多いと思います。
その中の一人の方から感想が来ました。


おはようございます、「相似象の考え方」の最新記事、
「イマイマにキを入れる」を読ませて頂きました。
私の場合はこうだなぁと思ったので、
聞いて頂きたくてメールを送らせて頂きました。



切符発見!の例なのですが、私の場合、
同行者との会話のきっかけを作りたくて

切っ掛けを作るのは良いと思いますよ。
何も問題は無いです。


つい意味のない会話をふってしまうことがあります。

人間、常に意味の有る行動をしなくてはならないかと言うと
そんなことは有りません。


なにか黙ってると気まずいなぁ〜と思って(汗)

たしかに長い沈黙は気まずいです。



特に、相手のことをまだ良く知らない場合、
話しかけることで、和やかになるかなぁと、
ついなんでもいいから目についたこと、
思いついたことを言葉にしてしまいがち。

それも良いと思いますよ。

気が弱いというか、沈黙が続くと、
相手がどう思っているのか不安になってしまうんですね、


それがアワのタチです。
サヌキの私もあまりにも不自然に沈黙が続いた場合
しかしそんなことは無いのですが、
何か言おう、と思うかもしれない。
(しかしそういう場面が思い出せない)

会話というのは一方通行ではいけない、ということ。
誰かが職場の話しをしたくて喋っていたら、それに相槌を打ったり
疑問点を聞いたり、可笑しかったら笑うとか、相互関係が有るはずなのです。
先日、神社の山から車で下山しました。
その時運転していたM氏が近況を報告したので、それを面白がって聞き
相槌を打つことは勿論、疑問を呈したり、話しが発展するように持って行ったりして
とても楽しい会話でした。

他人の話は一切聞きたくないのではない。
面白い話なら心ゆくまで聞きたい。
しかし独りよがりの、どうでもいい、我々には関係の無い話しをふられても
私としては困る、という話し。


本人にとっては一大事なのだろうが、聞いてるほうにとってはどうでもよく
「だから?」としか言いようが無い話を延々とされたら
迷惑以外の何ものでも無いのでは?
しかしそういう語り方をする人は多いです。




親が不機嫌な顔ばかりしてたのを、自分のせいだと思って
機嫌を取ろうとしていたからかもしれない

そのように考えるのがアワのタチです。
私はサヌキなのでその場合「自分とは関係無い」と思います。
そういう場合は(あ、怒ってる)で終了します。
決してご機嫌を取ろうなどとは考えません。
ウチの主人も精神が子供なのでちょっとしたことがあると
腹を立て押し黙ってしまいます。
新婚当初からそれをやられましたが、私は決して「自分が悪い」「自分のせいだ」とは
思いませんで(わ・ら・い)、(こいつ、何怒ってんだぁ?)と思うだけ。
あまり度々黙るものだから私も学習をしました。
主人が黙ったら私も黙る、と決めた。
すると主人が困り始めたがそのようなことは「私には関係ない」(サヌキ)
そしてだんだん面白くなり(こうなったら30年間口をきかなかった夫婦として
ギネスブックに載ってやる)という野心すら芽生える始末。

3週間くらい続けたかもしれない。
途中で姑がウチへ来たが私はそれでもクチを聞かなかった。
(あ、姑はアワ人間です)
それで主人は懲りてそれからは「だんまり」を武器にすることは無くなった・・・が
癖なんでしょうね。
その後何度もやっています。
その都度私も黙るだけです。
心の中は(さああてどちらの忍耐が続くかな?持久戦じゃ)
悲壮感は有りません。
そこには楽しみが有るだけです。

そりゃこういう旦那と暮らしていると面倒ですよ。
でも他の面では良いのでまぁ、いっか、ってところです。
私はサヌキなので「分かりあいたい」とは思わないのです。
そりゃ分かり合えば楽だし楽しいとは思うが、それが無理なんだから
「生活できりゃいい」「暴力を振るわなければいい」「私が自由ならいい」
他、割り切れるのです。

なのでサヌキ人間は生きるのがアワの人に比べて楽なのです。
その余力が有るからこそ、こうしてサイトを運営出来ます。




(そのクセが抜けてないのではないか?)
と自分では思うのですが、別に双方が黙っていたところで
一方が責任を感じることはないのだし、できれば直していきたいなあと、
記事を読んで、こうして感想を書いてみて、改めて思いました。

その通りです。
たしかに沈黙は気まずい。
しかしそんなに長い間沈黙が続くものでしょうか、気まずくなるほどに。
意味の無いことを語るな、というのではないのです。

何から何まで目についたものを全て言語化する必要は無い。
うるさいだけだ、と私は言いたい。
だからこれは程度問題なのです。
そしてアワなタチで沈黙に耐えられない人ものべつまくなしに喋べることは、
うるさいのだ、と分からなくてはならないのではないか?
最低限の判断力は持てよ、という話し。

<イマイマにキを入れる9>(2012年6月27日)


上の記事<イマイマイにキを入れる7(事例)>は
イマイマのキの入れ方の意識のレベルが低い人を観察した方からの報告。
<イマイマにキを入れる8(事例)>は自分も「放置切符」の方と
同じことをしてしまう、という方からの報告。



最初の方を「7」次の方を「8」とします。

7の方は職場に居る、どうでも良いことにキを入れ、
肝心なことには全くキが入らない(分からない)人より判断力が上なのです。
その職場の定年間近のおばさんよりも、
判断力において勝っているので、おばさんのことが良く見える。
そしておばさんから無理な要求をされて、不承不承従った後輩のことも良く見える。
この差は波動量の差からきています。
どこの職場でもこんな感じだと思います。
職場に居る他のメンバーの判断力は殆どが或る一定のレベルをクリアしているので
それに満たない人のことが良く見えるし、
その満たない人に関しては(これではいけない)と分かっているが
その人に分からせることは不可能なので黙っているわけです。




8の方は7の事例の職場のおばさんと同じ立場ですが
内容的にはだいぶ違います。
私は「目に見えるもの全てを言語化するのは不必要であり、うるさくて迷惑」と
言っているのであって、「目に見えることを偶々(たまたま)口にする」のは
別に良いのではないでしょうか?
そこらへん、差を取ってください。

ただ、
「自分が黙っていると相手に申し訳ない」と思うのはアワのタチです。
たしかに沈黙の時間が長ければ気まずいかもしれませんが
それを「自分の責任」と感じるのはやはりおかしいのです。
何故なら、長い沈黙の責任はその人が原因では無いからです。
何の関連性も無いから、おかしい、と言います。


沈黙する時サヌキ人間なら(ああ、沈黙が続いているな)と思うだけ
その後(では何か発言するか)と思うこともありますが、
それは決して(沈黙の原因が自分にあるから)では無い。
この場を楽しくしよう、とかの理由からです。




アワの人とサヌキの人とは同じ行動を取ったとしてもその性質が違うのです。
アワな人は言動、行動に「心」を込めている。
たとえば(私が喋らないと相手に気まずい思いをさせてしまう。
それは私の責任だから)責任を感じなくても
(沈黙するのは心に打撃を与えられるので嫌だから、
相手が語らないのなら私が語るしかない)と、気を使ってのこと。
ここに来るまでには散々心を使っている。

対してサヌキの人は沈黙していることについては
ただ(沈黙している)と思うだけです。
その後、では楽しくしようと心を使って語る場合もあります。
サヌキの人も心を使うのですが、その心には
思いいれや情緒は無く、(誰も語らないのなら私が語るか)
というアタマで思いついたアイディアのようなものです。
この沈黙が耐えられないのだが、誰も語らないので
誰か語らないと不味いので本当は嫌だが、沈黙によって
皆の心が暗くうち沈むことは私の責任でもあるから
ここで意を決して語る・・・のでは無いのです。



或いはさらに低次の場合は沈黙しているかしてないかにも気付かず
自分のことだけを考えているものです。

このレベルになると周囲のことなど
見ていても見えず
聞いていても聞こえない
完全自己中とも呼べる状態

これが7の事例の職場に定年間近のおばさんであり
駅の構内で放置切符について騒ぐ人です。
この状態は赤ちゃん〜子供がそうですよね?
つまりこういう人達は精神が子供なのです。

「精神が子供だと悪いんですか?」

という話しでは無いのです。
ただ、「精神が子供である」「発達していない」「年齢相応の知恵が無い」
「常識が無い」(常識とは生まれてから大人)二十歳くらい)になるまでに
身につけたものだ」という説がありますが、そんなところです)

子供が駅で放置切符を発見して騒いでも人は何も感じないか
微笑ましい、可愛いと思うでしょうが、大人がそれをやると
世の大人の平均値から大きくずれているので変だと感じる。
それだけのことです。




8の人が「自分は沈黙に耐えられないので、つい目についたことを語ってしまう」
とか書いていますが、これほど自分を客観視している人なら
目についたものを片っ端から口に出して語る、ということはしないものです。
ただ、その人はアワのタチですよ、好みにふけってもいけませんよ、ということ。




以上、事例をまとめてみました。

<イマイマにキを入れる10>(2012年6月28日)


さて、同じものを見ても見る人によって見え方が全然違って来ます。

専門的な知識や情報が無いと「見えないもの」がある。
たとえば写真撮影。
写真を趣味にしている人は心の姿勢(意識)が
「良い写真を撮ろう」になっているので
同じモノを見ても、ボンヤリとは見ない。
そこに(写真にしよう)というキを入れている。
これもイマイマにキを入れることになる。

俳句を捻る人、短歌を詠む人も常に(この風景を俳句(短歌)にしてやろうと
いう心の姿勢(意識)で生きているので、風景でも何でもボンヤリとは見ない。
(勿論一日中気を張っているわけではない)



私などは(この機を捉えて気付かせてやろう)という気でいる。
そりゃ聞き流すこともあるが、それは(今は聞き流そう)と意識している、
つまり「イマイマにキを入れている」のです。

キの入れ方は人それぞれです。
レベルにも差があり、タチにもよるし、その人の志向にも拠ります。

<イマイマイにキを入れる11>(2012年6月28日)


専門的な、特殊なことはその分野での知識が無いと物事が見えないのと同様
人間のこと、心のこと、当たり前のことが分からないとモノは見えないものです。
物事が見える人(波動量の多い人)と物事が見えない人とでは
イマイマにキを入れても、見えるものは違う。
物事が見えない人は自分なりにイマイマにキを入れても
見える範囲には限界が有るのです。

だから、毎日少しづつ「自分のモノの見え方」の能力(精度)を
上げていったほうが良い。
モノが見えないことは決して悪いことでは有りませんが
上に書いたように、いろいろと支障が出る場合があります。

<波動/五十の坂>(2012年6月30日)


一連の記事を読んだYさんから。

おはようございます、相似象の最新記事を拝見させて頂きました!

まず感じたのは「ああ、世の中には
自分をわかってくれる人がいるんだなぁ〜」ということです、
なにかハートが解放されていく感じで、パソコンの前でしばし脱力してしまいました。
そして「自分は特別でもなんでもない」「意識が一つ(おなじ)」
ということは本当なんだなぁとかそんなことまで考えが進んでしまいました(笑)
波動量の多い人が身近にいてくれる人は、わかってもらえて幸せですね。

それから、サヌキの物の見方についても詳しく書いて頂いていて、
「そうか、こういう風でも別にかまわないのだな」と、大変参考になりました!
今後は自分のせいだなんて思わないようにしていきます。



いやいや、低次のサヌキって「猛獣」そのものだから
真似してはいけないw
(せっかくの温厚なアワのタチが勿体無い)

人のことを判る人は
その人より波動が高い人です。
その人の波動が既に高い場合は
それを越える波動の人は少ないので
その結果
「誰も自分を分かってくれない」ということになる。
物理です。


私はYさんよりかなり年上(の上に既婚、子供4人)なので
Yさんより波動がちょっと高い。
だからYさんのことを理解出来ます。
しかし世の中の50代のおばさん達は年を取っているだけで
知恵が無い=波動低いので、皆さんが
「50代のおばさんはダメ」
言っているわけですね。
「星舟庵〜せいしゅうあん〜」のゆみさんが言うには
「(今のところ)周囲にモノが分かるおばさんは三人しか居ない」と言ってます。
そのくらい、五十の坂を越えられる人は少ない、ということでしょう。

<サヌキ量>(2012年7月6日)


過去記事で「サヌキ性というのは有るがサヌキ量は無い」と
書きましたが、サヌキ量は有りました。
訂正してお詫びします。