森羅万象

目に映る全てのモノが教えてくれるので、森羅万象に学びたいと思います。
(森羅万象とは宇宙に存在するありとあらゆる事象のこと:Wikipedia)
森羅万象を書こうと思いつつ、考えているうちに「忘れてしまう」ということを繰り返すようになりました。
なのでこれからは横着をして皆さんのブログから秀逸な記事を勝手に引用することにしました。
新しいタイトルの記事は上に追加されます。






<虫>(2013年2月2日)


2011年の夏のこと。
我が家の勝手口(裏の出入り口)に置いてある私のサンダルの上に
大きな(多分)トノサマバッタがいました。
いつの間に家に入ったのかちょっと不思議だったけど
そのバッタの身体の色が素晴らしい。
物凄く鮮やかな緑色で信じられないくらいきれいだったので驚いた。

追い出そうとしたが出ていかないので、箒とちりとりで外で運んだ。
後で見たら外に置いてある灯油缶(赤いポリ容器)の上にいました。
他のポリ容器の上にはきれいな青蛙がいて、二匹で違う方向を向いてじっとしている。
とても可愛かったです。



その虫は私にお別れを言うためにサンダルの上に居たのかなあ、などと
メルヘンなことを考えていたのです。
それから一年経ってから「ヘミシンクピンポンパン」のマサトさん
「アセンション」のセシエさんが言うには「以前と変らないように見えても
実はこの世界は違うのだ」と書いているのを見て、やはり
そうなのだろうと思いました。
あの虫はお別れを言いに来たのか、それとも何かメッセージがあったのか。

謎です。

<ソリティア>(2012年3月24日)


毎日一年中、かれこれ10年以上パソコンで
「ソリティア」というトランプゲームをしています。
まぁ、異常です。
しかしこれで悟ることもいろいろありまして。




ソリティアをやり続けていると
マウスの動きが鈍くなりテーブルとの間に摩擦が生じているようなので
マウスを裏返して汚れを取ったりしていました。
しかし多少埃はついているが、動きを邪魔するほどの汚れはついていません。
テーブルが濡れているからかな、と思って拭いたりするが
特に濡れていたり汚れているわけでも無い。
これっていったい何?と思い始めて数年。




実はつい最近ソリティアをしていて
途中からいきなり動きがスムーズになったのです。
まるでマウスが宙に浮いているかのようでした。
え?なんで?と驚いたくらいです。
しばらくして元に戻りましたが、不思議なことがあるものだ、と思った。



それから数日後。

さきほど原因が分かりました。

マウスの動きが鈍くなる理由は
「自分の腕が疲れるから」でしたw
あはは!
正確に言うと
「手の筋肉に不必要な力が入り、マウスの動きを鈍くしていた」のです。

自分ではそういう自覚が無かったのです。
それはまるでマウスの動きが他の何かによって
鈍くなっているとしか思えなかったのです。

自分の腕が疲れている(力が入り過ぎている)
のに、意識は「面白いからもっとやりたい」と
いうものだったために、疲れていると感じられず
まるでマウスが何かの抵抗を受けて動かなくなっているのだとしか
本当に感じなかった。

無意識の為せるわざですね。

「答えは自分の内にある」

とセイシンセカイで良く言いますが、その事例のような出来事でした。




マウスの動きが鈍くなってゲームをしづらくなったのは
自分の潜在意識が
「もう止めろ」と言っていたのですね。
(多分時間の無駄だ、と言っていたのでしょう)
意識と本心と潜在意識とを考えさせられる出来事でした。
そうと知ったらこれからは動きが鈍くなったら自分がやっているのだから
自分に「腕の動きはスムーズだ」と言い聞かせてゲームをすることにしますわ。

と、いうことで。
これからソリティア再開w



やはり知らないうちに力が入り過ぎてしまいます。
力を入れ過ぎるからマウスの動きが鈍くなると分かったので
意識してリラックスしたらよく動くようになりました。




ところで先日M氏がウチに遊びに来た時こんな話をしました。
M氏はスポーツが好きで或る種目をやり過ぎたら膝を痛めてしまった。
M氏はそのスポーツをやりたいので、手術をしてまでスポーツをしていた。
ところが手術したところってやはり普通の何も無い状態とは違うので
自分が思うようにプレイできず、試合をしてもちっとも楽しくないと分かった。
仕事が忙しいこともあり、M氏はそのスポーツを止めた。
ひなた堂で診断してもらったら、手術をしたことで
全身の経絡に異常が生じているのが分かった。
(だから思うようにプレイできなかったのではないか)

膝を痛めた時点で「これはスポーツを止めろということかな」
と気付けば良かったのに、と私はいつものようにM氏に説教をしたのです。
「身体の声を聞きなさい」とかいう本だって持ってるのに〜と。



このように他人のことに関しては、誰もが「良く分かる」のです。
本当に霊能者からチャネラーになったと錯覚するくらい「分かる」。
しかしいざ自分のこととなると「さっぱり分からなくなる」のが人間です。
他人のことは分かるのに自分のことになるとさっぱり分からなくなることを
思い知ったのでした。

<独楽(こま)>(2011年12月6日)


独楽回しは楽しいですね、子供の頃はよくやりました。
あ、普通の独楽ですよ。
ベー独楽とかいう、喧嘩独楽では有りません。




独楽が止まる前は首降り運動が凄いです。
最初は小さい揺れですがだんだん大きくなり
重心を保っていられなくなって滅茶苦茶に大回りをして
最後に止まります。

これ、今の日本というか、世界の状況に良く似ています。
今、世界は独楽が止まる寸前の首振り運動をしているのだ、
としか言いようがありません。
誰が独楽回しをしているのでしょうね?

<ゲーム>(2011年8月30日)


「ゲームはソリティアに始まり、ソリティアに終わる」






別に深い意味は有りません。

私は毎日PCでゲームをしていますが、
まず
「ソリティア」をしてから「SAMEGAME」をして
それからトランプゲームの「ゴルフ」「王様の結婚」「モンテカルロ」をするが
最後はやはり「ソリティア」でしめる、というほどの意味です。



たまに上記以外のゲームをします。
「オセロ」「五目並べ」です。
オセロより五目並べの方が多いかな。

初心者レベルでPCと対戦するのですが大抵負けます。
考えるのが嫌いというか苦手というか頭悪いというか・・・
容赦無い相手(PC)の攻撃でたじたじしながら最終的に負けるのですが
「へへ!バーカバーカ!」と(PCに)言われているような気がして
(くっそ===!)と思い、再度挑戦してはボロ負けしています。




しかし人間、勝ってばかりいるとロクなことは無いので
これくらいの目に遭ってちょうど良いのです。
人は大人になると自分にやれること、出来ることしかしなくなりますから
「負ける」とか「失敗する」ということが無くなる。
だって最初から「負けること」や「失敗すること」はしないんだから。

勝負しないので負けも失敗も無い

というか、実は負けているし失敗もしているのですが、感度が鈍くなっているので
それを負けだとも失敗だとも感じなくなっているのです。
頭が硬くなっているのです。



特に家庭の主婦にはこの傾向がある。
家の中では主婦の天下なのでね。
姑が居れば別ですが。
或いは仕事を持っていてもそれが教師とかだと、
やはり学級の中では誰にも遠慮が要らないし、
その中では一番物事が分かっていて偉い人になってしまう。
(本当はそうじゃなくてもね。
  意識の話です)


以前どこかに
「主婦は家庭内で叱られることが無いので
私は毎年梅干を漬けて、失敗することによって叱られている」
とか書きました。
私のことでは無いですよ、家事(漬物?)の専門家の言葉です。
含蓄深い言葉ですね。

「自分は主婦なので叱られることが無いので叱られるために梅干を漬けるのだ」

こういうことを考えられる人は、元々叱られるようなことはしでかさないものですが。



で、最初に戻って私は梅干を漬けないので
代わりにゲームをしてはPCから
「バーカw」と叱られるというか、
バカにされる必要が有るのです。

<くまんばち>(2010年12月17日)


毎年夏になると我家の庭にくまんばちがやって来て大きな羽音をさせて飛んでいますが、
太った体に小さい羽で飛んでいる姿を見るとなんともユーモラスで可愛いです。
今年の夏はくまんばちが二匹居ました。


「戻って来たアミ」を読んだらこんなことが書いてあった。
要約すると
「くまんばちの大きな体にあの小さな羽では、科学的に見ると
飛べないそうだ。でも、実際は飛んでいる。科学でも分からないことが有る。
くまんばちは自分が空を飛べると思っているから飛べるのだ」
と。

そういえばそうです。
どうやってあの大きな体をあの小さい羽で浮かして飛ばしているのでしょう?

くまんばちの飛行は科学的見地から見たら「不可能」なのに
くまんばちは科学を知らないので飛んでいるのです。
これは不思議です。




Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%90%E3%83%81

大型の体とそれに見合わない小さな翅から、かつてはマルハナバチとともに
「航空力学的に、飛べるはずのない形なのに飛べている」とされ、
長年その飛行方法は大きな謎であった。
「彼らは、飛べると信じているから飛べるのだ」という説が大真面目に論じられていた
ほどである。
現在はレイノルズ数を計算に入れることで飛行法は証明されているが、
ここからクマバチは「不可能を可能にする」象徴とされ、
しばしば会社やスポーツチームのシンボルマークとして使われる。

「戻って来たアミ」のくまんばちの解説はこの説を採用したんでしょうね。


それはともかく科学では謎が解けない不思議が、毎年私の目の前を悠々と飛んでいるのです。
日月神が
「奇跡無いのが奇跡ざ」と言ってます。
人間がすぐ「それ」と分かるような「奇跡」は、分かり易い奇跡なだけです。
それよりも人間がそれを「奇跡」であると認識すら出来ないところに本当の奇跡が有りそうです。




今年の10月に私と娘と謎の麻緒さんとで沖縄へ行こうと、5月から計画していました。
すると麻緒さん出発の3日前になって「飛行機が空を飛べるのが信じられない」と言い出した。
3日前にそれを言うか!と思いましたが、急遽代わりに行ける人を探して行きました。
麻緒さん・・・半年前に気づいて欲しかった・・・
それはそうと沖縄に一緒に行ったYさんが言うには
飛行機が空を飛ぶというのも「有りえないこと」んだそうです。
さすが麻緒さん、直感力が有る。
(実際は麻緒さんの身体の不調で行けなくなった)



この説はネットで探しても見付かりません。
飛行機は鉄で出来ていて重い。
だから飛ぶわけが無い、と大学時代の同級生も言ってましたが、
この時は(アホだ、こいつ)と捨ておきました。
でも、鉄で出来た飛行機は「本当は飛ばない代物」だとしたら?
それってくまんばちが飛んでいるのと同じ理屈から可能なのでしょうか?
つまり「飛行機(くまんばち)は飛ぶ、と思っているから飛ぶのだ」という理屈です。



つまり何が言いたいかと言うと。
「それが可能だと信じて疑わないことは可能になる」「奇跡は日常的に起きている」ということ。
奇跡を求めなくても自然の中に、何の変哲も無い日常にそれは有るのだ、ということです。

<木の言葉>(2009年9月17日〜21日)


木が何かしら意識を持っているな、と感じることがあります。
木の思いというようなものが、なんとなく伝わって来る感じがする。
私には言語化することは出来ませんが、優しい思いやりに満ちた念のようなものを感じます。
そういうことは普通の人にもあると思いますね。
ただ言語化は出来ませんが。

ところが中には木の念を言語化して受け取れる人がいます。
「**楽しく、賢く**」の*nonoka*さんです。

9/11の日記から。

(省略)

世の中はどうやって動いているのか、何も深く考えず、ただ生きているだけでは気づかないことがたくさんある。

でも最近は・・・、みんな気づき始めてる。

あれ、何かおかしくね? って。

そうやってみんなが「おかしい」ことに気づき始めると、本当のこと、本物しか残れなくなってくる。

なんだかこのところ、本物か偽物か、白黒はっきりとわかるようになってきた気がする。

今までひたすら隠されて闇だった部分が、徐々に露呈しつつある。

それは、○○○や△△△や政治や企業だけでなく、私たちひとりひとり、人間も・・・。
 
 
・・・・・・・・
 
通勤時にいつも話しかけている例の大木や周囲の木々たち。

おとといの朝は「もう少し、もう少し」と言っていた。

昨日の夜は「急げ、急げ」と言っていた。

一体何のことだろうね。


nonokaさんの日記は続いてます。   植物の意識、のようなもの
<今、植物が変>(2009年9月18日)


今年の夏頃から植物が変です。
我が家の庭のぶどうの木が例年になく元気が無く、葉が茂らなかった上、
変な虫が大発生しました。
こういうことは初めてで素人には対処できないので、知りあいの庭師のAちゃんに退治してもらいました。

その前、春には
「今年は梅が不作で、全然実が成らない」と叔母さんが言ってました。
(※蜜蜂が居なくなったせいもあると思う)

数日前に歴史資料館のような所へ行ったら庭にどんぐりが落ちていたので面白くて拾っていたら
管理人さんが
「今年は椎の木が変なんですよ。15年前から管理人をしているけど、今年みたいなのは初めてです。」
と言ってました。
見ると椎の木が枝ごとバサッと落ちています。
それが1本や2本では無い。
枝がまだ青い葉と実をつけながら沢山地面に落ちている。

もう一つ。
県庁前通りのけやき並木の幹にびっしり苔(カビ?)が生えている。
これも住民によれば「こんなことは初めて」だそうです。

植物に異変が起きていると思うのです。

かなりまずいですね。
<天の異変地の異変>(2009年9月21日)

こんにちは。

うちの叔母(88歳)、もう60年以上梅干を漬けてます。
今年は天気が変で、8月にやっと梅を干せたと言ってました。
天気も(が?)変みたいです。

まこ

日月神示にこんな言葉があります。

天つ巻 第十三帖
 空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、 いよいよとなりて来てゐるのざぞ。

植物の例年にない”異常”は、地に変わりたことがあったのではないかと思います。

松の巻 第三帖
  神烈しく、人民静かにせよ。云ふた事必ず行はねばならんぞ。
天から声あるぞ、地から声あるぞ。
身魂磨けばよくわかるのざぞ。
旧九月八日までにきれいに掃除しておけよ。残る心獣ぞ。神となら
ば、食ふ事も着る事も住む家も心配なくなるぞ。日本晴れとはその
事ざぞ。六月十九日、あめのひつ九のかみ。


「身魂磨けば良く分かる」というのは、ボンヤリと生きるのを辞めて、意識がはっきりして来た人には
少しの異変も心に留めておくことが出来るし、似た魂の人から情報が入って来る、というの意味も
あると思います。
毎日マスコミが流す愚にもつかない情報や、企業が金儲けのために作る流行に右往左往していれば
小さいことや取るに足らないと見えることは目に入りません。
天の異変と地の異変が呼応して起こっていて、そういうことに心が行く人しか、
心は助からないのではないかと思います。

<やどかり>(2009年8月6日)


社会不適合者TJさんのブログ「社会不適合者TJの独り言」
面白い記事を発見したので、許可なくここに掲載します。
これ知ってる? (TJさんのブログには写真があります。見たい方はそちらへ)

オレが小学生の頃、動物図鑑を見てとても興味を持ったヤドカリイソギンチャクだ

互いが好んでこのような姿でいるのだ 生物の神秘だと思う


イソギンチャクの毒性によりヤドカリは捕食者達から身を守っている

イソギンチャクもまた移動できる事によってヒトデ等の捕食者から身を守っている訳だ

ヤドカリは成長に合わせて貝を交換していくが、その際にもイソギンチャクを新たな貝へと移し変える

また、ある種のイソギンチャクは体内で貝の成分を分泌させ貝を大きくしていくモノもいるそうだ


果たしてこいつらはどこでそんな技を覚えたのだろうか

それを理解してやっているのか DNAに刷り込まれて本能のまましているのか

一見ヤドカリ側の身勝手な保守的根性の結果での『相利共生』であるようにも見えるかもしれない

しかしオレにはこいつらの間には友情、愛情、信頼関係 などがあるように感じるんだ

互いを思いやりながら大海原を航海する運命共同体 パートナーシップだ

人間の世界で言うところの【夫婦】みたいなものか

いや、よほど人間の方が身勝手な生物だな ヤドカリの爪のアカを飲ませたい位だ(笑)


海の無い県で暮らしているオレにとっては初めて野生のこいつを見たわけだが

このヤドカリは大小あわせて7体ものイソギンチャクを背負っている 重くないのか?

よほどの臆病者なのか ハンパ無くイソギンチャクLOVEなのだろうwww


写真だけ撮らせてもらって丁重に海へ帰した たくましく生き続けて欲しいね

大自然の中では【戦い】の毎日だろう まさに食うか食われるか

犯罪も悪意も無いサバイバルゲーム 加害者などどこにもいないのだ


クソ政治家達がよく言う【戦う】とはレベルが違うんだぜ 甘ったれてんじゃねぇぞ ジジイ共が へっ

最後の一行の意味は分かりませんが、全体的に大変示唆に富んだ文章となっています。




<素人の松1>(2008年12月6日)


うちのそばに「誰の土地でもない土地」があります。
道路と道路の間の狭い斜面です。
そこに、以前ここに住んでいたお爺さんが盆栽の松を植えたら大木になりました。
ところがこの松、素人の私が見ても格好悪い。

一昨日から知り合いの庭師のAちゃんが来て、我が家の庭の木を剪定してくれました。
ついでに「誰の土地でも無い土地」に生えている木も剪定してもらいました。
様々な木が生えていて、ワケ分からなくなっているのでついでにやってもらったのです。

Aちゃんとこの松の木について話をしました。
前に来た時も言ってたけど、素人が作った松なんだそうです。

<素人の松2>(2008年12月11日)




上の図の左が普通の松で、右が近所のお爺さんが作った松です。


お爺さんは立派な門構えの家の門のところに生えている松を見て自分も作ろうと思った。
お爺さんが見ると松の木は途中から曲っているように見えたのでしょう。

本当は松を曲げるということはなく、下の方の枝を育てて大きく横に張り出させただけなのです。
でも、お爺さんにはそう見えなかった。
お爺さんの目には松の幹そのものが途中から横へ張り出しているように見えたのです。
(多分)
で、お爺さんは松がある程度育ったところで、待ってましたとばかり、松の幹を途中で
捻じ曲げました。

次に、普通の松の場合、最初の枝(図では太い線)はそのまま素直に伸ばしてやります。
自分が生えている枝とはほぼ直角になります。
その枝から出た枝(図では赤い線)も、素直にに延ばしてやります。
その枝も自分が生えている土台となる枝とはほぼ直角になります。
その枝から出た枝(図では細い黒い線)は当然、自分が生えている土台の枝(赤い線)とは
直角になりますから、そのまま素直に伸ばせば、最終的に「枝が後ろへ風流に流れる様」
が出来ます。

庭師が作る松には何の無理もありません。
松のナリ、タチをそのまま素直に伸ばしただけです。


ところがお爺さんが自分の頭で考えた松の方は、
幹そのものを直角に曲げるということからして間違っていますが、
最初の枝は通常なら松の木の幹とほぼ直角に生えるはずなのですが、
そこを無理やり鋭角に曲げて「後ろへ流す」ということをしています。
お爺さんの目には、松の木の枝が後ろへ流れている姿が風流だと思ったのでしょう。

それは最後の細い枝(細い黒い線)でやるべきだったのですが、
それを知らないものだから、最初の枝の段階、そしてさらにそこから出た枝(赤い線)で
それをやりました。
二段階の作業をして無理やり「枝が後ろへなびく様」を作ったのです。

お爺さんはそれを最後まで変と思わなかったようです。
(お爺さん一家は引っ越したので、ここには住んでいません)
お爺さんには自分が変なことをしたという自覚はサラサラなく、松の木を自慢していました。
「オレがお祭りに行って小さい盆栽を買って来て植えて大きくしたんだよ」
嬉しそうでした。
そして立派に育った松を満足そうに眺めていたのです。


当時私は(この松は何かがおかしい)と感じてはいたけど、
どこがどのようにおかしいのか、分からない。
それほど植木に興味が無いので、お爺さんが嬉しそうに語るのを聞いて
「へえ、凄いですね!」と相手をしていたのです。
もし私がこの時、松の真相を知っていたら絶対
「これは変ですよ。だって、ホラ、幹が途中で曲がってる。
こういう松はあり得ませんよ。それからこの枝ね・・・」
と、喋っていたと思うんですよ。
(良かった、当時、知らなくてw)
(また余計なコトを言っちまうところだった)
もし、お爺さんが真相を知ったらとてもガッカリしただろうから、
知らずに引っ越して良かったです。

<素人の松3>


しょうもない松ですが、手入れをしないと枝や葉で凄いことになってしまうので
Aちゃんに手入れをしてもらいました。
誰の土地でもありませんが、ウチの庭を手入れしたのでそのついでにやってもらいました。

Aちゃんは松の木を作るのが得意で庭師仲間からも、松の木を任されるほどの腕前です。
松の木は難しいんだそうです。
そのAちゃんが苦心してこの松を何とか格好をつけてくれました。


Aちゃんに聞いた話によると、まず、松の苗木を畑などに植えてしばらく自然に育てるんだそうです。
或る程度大きくなるまで何もしません。
その松に鋏を入れることはしない。
本当に自然に放置するんだそうです。

そしてある程度の大きさに成長したら、まず松を見る。
その幼木のナリ、タチ、個性を見て良いところ(枝)は伸ばし、欠点は剪定します。
そして長い時間を掛けて将来を見据えて松の木の形を作っていくのだそうです。
木の生長は遅いので気の長い作業ですね。
Aちゃんはとても気が長い、忍耐強い人です。
温厚で正直だし。

そうやって何年も(だか、十何年だか)かけて、やっと人の家の庭に植えられる松になる。
そして植えてからは年に1〜2回、手入れをしていきます。
なので松の木は植えた後も大変なので、庭師に手入れを頼める家でないと植えられませんね。
手入れというのは去年より伸びた分を切る、という単純なものではなく
将来を見据えてこの枝を切り、この枝を伸ばして形を作っていく、というものだからです。

<素人の松4>


Aちゃんが言うには素人が剪定した植物はすぐ分かるそうです。
近所のお爺さんだけでなく、素人が自分の頭で考えた通りにやると取り返しがつかない
ことになるが、素人にはそれが分かりません。

Aちゃんには樹木を見る目があるので、一瞬で見抜ける。
私には見る目(木に関する判断力=サヌキ)が無いので、
この松の作り方の不味さを見抜けなかった。
でも、感覚(アワ)は正常だったので(何か変)と感じていたのです。

「素人の松」のようなことをしている人は多いのではないかな。

<素人の松5>(2008年12月15日)


庭師のAちゃんが言うようにまず、松の苗木を植えたら畑のようなところで自由に育てる。

幼い松を自由に育てるとそのうち個性が出て来ますから
それを、見る目の或る人(庭師)が良く見て
長所は伸ばし短所は改善しつつ、本人の個性を出す方向に
無理なく自然に育てるのがいいですね、人間も。


それなのに、子供が生まれても子供を見ない親が多い。
何も見てないし聴いてない。

ウチの主人もそうです。
近所の登校拒否の子供の親も、子供のことを何も見ていません。
毎日のように「ママはあなたが大好きだよ」と言ってるんだそうです。
自分の気持ちを相手に分からせよう、自分の命令に従わせよう、自分の親切を受け入れさせようと
するが、相手(子供)の言いぶんは聞かないし、顔色も見てない。
こういう人にいくら助言しても、全く理解せず、逆恨みするだけです。

また、指輪のK子も途中まで、子供のことを全く見ていませんでした。
何故ならK子は常に自分の思い、自分の気持ちで行動していたからです。
常に他人のために良かれと思って、思いやりの心で行動していましたが
それはあくまでも「自分の心」でやっていたのです。

相手の状況を全く見ていません、
聴いてない。
(※自分なりに精一杯真面目に「見て」いるのです。客観的に、見ているこにならなくても)
(※だからこういう善意の人は気の毒なので、何とかその無意識に生きているところに
   気付いてもらおうと思って、私はたまに忠告しますが、忠告されて自分で改善しようと
   思う人は稀です)
(※これは登校拒否に限ったことではありません。例えばサイトも含みますが文章を書く人の場合。
   このままで行くと読者の方が波動量が上がり、読者が著者よりも上になるのが目に見えていると
   分かった場合は一応耳に入れることにしています。
   それを理解すればよし、しなければ仕方ないですね。
   理解しない方が90%以上ですが、私はギャンブラーなのでやっちゃいますねw)

K子などは自分が
「相手のためになろう」という気持ちでいっぱいなので
周囲の状況を確認するという最低限の情報の取り込みをする余裕はなく、
それ以前にそのようなことをやろうと思わないのでした。


松の盆栽を買って来て変な育て方をしたお爺さんと同じです。
松を育てる時、
最低限の情報(松の育て方)を取り入れるべきでしたが
お爺さんは自分が松を育てたい!という、強い気持ちだけがあり
まさか自分が「松の木の育て方を知らない」ということにも気付かなかったのです。

子育てがヘタで子供を登校拒否などにしてしまう親は、松の育て方を知らないのに自己流で
育てたお爺さんと同様、
一生懸命余計なこと、やってはいけないことをして、やらなくてはならないことをしなかったのです。
やる前に「これはやって良いか悪いか」と考えることもなく無意識無自覚に育てた。


「やって良いか悪いか」「このやり方で正しいのかそうではないのか」という
ことは思っても見ないので、その観点がなく、よその家の松を見ても
そこから何も感じず学ばないお爺さん。

それと同様、子供を登校拒否にする親は
ちゃんと子供を育てている家を見ても、自分の家と何がどう違うのかも見えません。
視点が無いから見えない
見てても見えないのです。
(※一般的に言う「見る目が無い」状態)
(※心が無いので見ても見えない)
(※この場合の心とは波動量のことです)


そうやって子供を育てて数年〜十年〜十数年経ち、何も見てもらえず
聴いてもらえなかった子供が、親と同様見えない聞こえない子供に育ち
クラスの中で浮きまくり、学校へ行けなくなる。
親が育てた通りになっただけですが、ここまでになってもまだ分からない親が普通にいますね。
ここで気付ける親(忠告を聴く親)はこの事態を改善出来ますが
通常は自分達が悪いなどとは夢にも思わず学校と社会と同級生と同級生の親が悪いと
批難しますね。

松の木も良くみればどう作ればいいか分かるものを、見ても見えない人がいるように
他の家の様子をよく見て参考にする、という最低限のことすら出来ない親が
子供の問題の原因です。
心(感覚)が閉じているのです。
挨拶をよくし、いつもニコニコ人のために生きていてもそういう人は感覚が閉じられているんです。
明るく元気で、皆のために生きているので、まさか自分の感覚が閉じられているなどと気付かない。
盲点ですね。
(※極端なことを言うと、明るく元気でなくて、挨拶もしなくても、心が開いていれば
   感覚が開いていればOKなのです。
   それなのに、通常は見た目で判断しますね。
   何も分からない人が自分なりに物事を見て、自分なりに良いと思ったことをやっています。
   こういう人は自分が悪いと思ったことはやらないので、自分は無意識に間違ってないと
   思っているのです。
   根本が間違っているのですがそれは無意識の底に沈んでいますから意識化は困難です)

だから、他人から指摘されても忠告の言葉の意味すら理解出来ない。

人は誰でも分からずやです。
多かれ少なかれ分からずやですよ。
100%物事が分かる人間など居ないと思います。
イエス・キリストや釈迦だって100%分かっては居なかったと思う。
しかし、登校拒否児童の親は分からずやの最たるものだと思いますね。
これを治すのは死ぬ思いです。
(原因の意識化が困難なのと我が邪魔するので大変なのです)
でもやれた人もいるので不可能ではありません。


登校拒否は子供が成長して自力で無能な親を超えれば改善するのと、
子供が精神的に大人になり、親の問題を体現しなくて済むようになれば消滅する場合もある。
しかし大人になっても引きこもる人がいるので、年齢が上がれば解決するというものではありません。

しかし人間は松とは違うので、親が気づいて改善した時点で子供は普通になりますからまだいい。
ウチの近所の松は途中で90度曲ったまま成長を続けています。
何とも気の毒な姿です。



<樹木1>(2008年11月21日)


我が家の周囲には樹木が多いのです。
杉やアカシアの大木があります。
ウチの庭にはヒマラヤ杉があり、かなり大きいです。
まっすぐ天をさして伸びる大木の形からあるモノを連想しました。

<樹木2>(2008年11月24日)


森羅万象は、何かが人類に「考える素材」として与えた(作った)と、思っている私です。
何もなければ人類は何も考えることは出来なかったでしょう。

たとえば犬。
人間が彼らに狩りを教えたのではなく、
人間は彼らの狩りの様子を見て、自分達の狩りの参考にしたそうです。
狼は本能で、集団で狩りをしますからね。
これは人間が教えたのではありません。
人間が狼の真似をしたのです。

たとえばネコ。
人類はネコを見て「気ままに自由にやっていても人から好かれて生きられる」と学ぶ、とか。

鳥がいなければ人類は空を飛ぼうと思わなかったかもしれない。
さらに鳥の形は飛行機のモデルとなりました。

魚。
彼らが居なければ人類は海へ入り泳ごうとしなかったかもしれない。
彼らの身体は舟の形としては理想的ですね。
また彼らは人類の食糧になってくれています。
魚のように食糧となって人類を生存させてくれる生物もいます。
彼らが居てくれたことは大変ありがたい。

<樹木3>(2008年11月24日)


さて、前置きが長くなりました。
では「樹木」は何を私たちに教えてくれているのだろう?と考えます。
すると、すぐ思い浮かぶものがある。

中学の理科の時間に習ったと思うのですが
「系統樹」というものがある。
原始地球に生物が発生する。
最初は原始的なアメーバのようなものが、だんだん進化するとともに
生物、動物の種が出来てくる。
どんどん枝分かれしている様子がまるで樹木のようなので系統樹と呼ぶのでしょう。

まぁ、そのようにして生物が進化してきたのでしょう。
そうではないかもしれないが。

その系統樹の中でまっすぐ真ん中の枝。
天を向いている枝というか、樹木の先端があります。
そこが人類の位置であるようです。


「生物はまるで樹木のように枝分かれして発生して来た」

ここまでは普通の情報なので皆さんご存じですね。
このようなことを考える際には樹木があると便利です。
ちゃっかり名前まで借りてしまっています。

人間は何も無いところからは考えることが難しい。
何か具体的なモノを見てそこから抽象する方法でしか学べないのでは?
そのために三次元にはありとあらゆる参考資料が存在しています。

<樹木4>(2008年11月24日)


さて、系統樹は分かった。
私が言いたいのはココから先です。

人間の精神の在り方を樹木に譬えられないか、ということです。

<樹木5>(2008年11月27日)


前振りが長かった〜。

相似象の言葉に「徳の賊」という言葉があります。
そのまま真っ直ぐ素直に進歩していけば何も問題は無いのに、
途中で変なモノに引っ掛かってしまう人がいます。
徳の賊とは、「人を引っ掛ける人」のことです。

たとえば宗教。
古くからある宗教は「皆を一つの思想に洗脳し支配しやすくするため」という意味もあります。
勿論心の安定を得るため、というのもあります。
悪いばかりではなく良い面もある。
しかし日月神も「宗教では(良く)ならん」と言ってるように、宗教ではダメなんです。
「戒律する宗教は滅びる」とも言ってます。
宗教自体も滅びるだろうし、信者やってる人も伸びないでしょう。
何の方向に伸びないかというと、天を目指す方向に伸びない。

坂本政道氏の本にはフォーカス●●の世界(幽界)には、
宗教の信者や「科学」の信者、主義主張の信者が集まっていると書いてある。
余りにも主義主張に凝り固まると、似たような想念の持ち主が集まり、そこにグループを作るのです。
坂本氏以前にも同じことを書いていた人(霊能者や精神的な指導者)は沢山いますよ。
坂本氏はあの世の様子をヘミシンクで見て、それを書いているのです。

相似象ではカミ(上)を目指して進むのが良いと言ってます。
そのまま素直に進めば良いものを、そこに理屈を言って他人を導いてしまう人が出てくる、
それが「徳の賊」です。
徳の賊の罪は大変重い。
他人の人生を狂わせた罪なので、大変ですね。
まずいのは本人はそれを良いと思ってやっている点です。

樹木を見ると真ん中の幹の中心が真っ直ぐ天を目指している。
その他の枝も一応上は目指しているので、これを心の勉強に譬えれば
枝に居る人達も自分達の感覚では「上を目指している」としか感受出来ません。
でも、もっと大本の、天を目指している真ん中の幹から見れば枝は枝です。
「正流」ではありません。
正流と言う言葉はたしか日月神示にも出てきました。
本当の道、最も正しい道のことです。

枝が全て間違っているわけでは無い。
少なくとも地面より上にある。
しかし正しいわけでもないのです。

私は大変合理的な人間なので、どうせ進むなら枝葉の道ではなくて、
真ん中の正流の道を進みたい。
それが一番効率が良いですからね。

ではどうすれば正流を進めるのか?
そのための方策をPANDORAでああでもないこうでもないと、語っているわけですよ。

一度枝に入り込むと枝はどんどん枝分かれしていますから、どんどん細分化(サヌキ)していきます。
(※専門化する、ということ)
最後には葉っぱに入り込み、葉っぱの葉脈に入ってしまう。
そしてその先がなく、ここまで来た人は「道を極めた」と錯覚するかもしれません。
しかし、途中で気付いて来た道を戻ることもできます。
(※宗教をハシゴする人などはこれです)
気づいただけ良しとしましょう。

理屈はこれくらいにしますが、樹木を見れば分かるように、真ん中の枝というか先端が一番高い。
これを見ただけで正流を進んだ境地が一番高いと分かると思います。


<花に集まる虫1>(2008年10月29日)


先日榛名神社へ行った時、他の人が来るまで時間があったので
M氏とひなたで待っていました。
M氏は若いので立って待っていましたが私は道路脇の石によっこらしょと腰かけて
(ば、婆あ臭っさ〜)そこに咲いてたきれいなピンク色の花を見ていました。
その花は小さな花が集合して咲いている花でした。

見たら花に数種類の虫が来て蜜を吸っています。
あちこち移動して蜜を吸っているのですが虫同士はお互いには関心が無いようで
でも、争うこともなく一心不乱に蜜を吸い続けているのです。
虫達は争わないな、平和だな〜と、思った。

すると相似象の言葉と日月神示の言葉を思い出した。

<花に集まる虫2>(2008年11月4日)


虫達を見ていると、種類が違う他の虫とも「ここはオレの縄張りだ!」と
喧嘩することもなく、いたって平和に共存している。
それを見て
「無心」という言葉を思いました。

熱中ではなくて「無心」ね。

動物も虫も魚も爬虫類も
「無心」なのです。
この無心でいる時、天と一体だそうです。
相似象ではアマと一体化している、と言います。
日月神は
「百姓が無心に鍬をふるう時」天と一体化している、と言っています。

謎の方の意識レベル判定で、個人が一番意識レベルが高い時は
「好きなことを無心にしている時」と出ました。
レベル900まで行く人もいました。
それは個人の心に「我」がなくなり、文字通り「忘我の状態」になっている時です。
この時、その人は天(アマ)と一体化しているのです。

人間がいくら頭が良くても意識レベル900にはなれません。
そのためには「我」を忘れないと・・・

無心に花に群がる虫にも劣る我の強い私たち
虫に学ぶことは沢山ありそうです。



<金木犀1>(2008年10月10日)


金木犀の花の香りが漂う季節となりました。
GAIAのまはるださんが
「金木犀の香りがしたので、どこに木があるのかと
探してみたが、とうとう見つからなかった。」
と、書いていました。

そういえば私も金木犀の香りがした時、木を探したけど、
見つかりませんでした。
見つからないけどきっとこの近所の家の庭にでもあるのだろう、と思っていたら・・・

<金木犀2>(2008年10月11日)


金木犀の花の香りは2〜3キロは飛ぶのだそうです。
なので、いくら周囲を見回しても金木犀の木が発見できないわけです。
凄いな、と思ったら8キロ飛ぶ場合もあるそうです。

金木犀の香りは8キロも飛ぶ!


私が住んでいるところは田舎で周囲は田圃や畑が沢山あり、その中に人家がある。
形態は農村です。
なので、畑には年に一度こやしを投入するようです。
動物のふんや飼育小屋の床に撒いていた藁などを混ぜたものを
さらに発酵させたようなモノです。
これは凄く臭い。
我が家の隣に畑があり、そこで年に一度こやしを撒きますが、
さっさと撒けばよいものを、畑の上にうず高くこやしを盛り、そのまま数日。

周囲の住民は耐えられない匂いの中で数日間生活することになる。
でも、年に一度のことだし、後から来たのは私たちの方だし、ま、いっか、というところ。

しかし、このこやしの匂いはそんなに広い範囲には広がらないようです。
100〜200メートルくらいではないか。

◆金木犀=2〜3キロ、たまに8キロ
◆こやし=100〜200メートル


10倍の差がありますが、何故このような差が生じるのでしょう?

<金木犀3>(2008年10月17日)


根拠はありませんが、肥やしの臭い匂いは低波動のもの、
金木犀の芳しい香りは高波動のものとします。


低波動の人はどこかのサイトの信者さん達のように、
集団で臭い匂いを発しているようです。
誰も敵対などしていないのに、仲間でくっついて小さい世界を作って
それ以外の人を排除する。
仲間では無い人から見るとそれはおぞましく汚ない集団なのですが、
彼らには自覚できません。
自分達がいかに臭い臭気を発しているか自覚出来ない。

勿論こういうのはサイトの信者だけでなく、普通に見られます。
近所でも。
会社でも。
学校でも。
奥さんの集まりでも。

賢い人はそういう連中には近寄りません。
普通の人はその臭い匂いに眉をひそめます。

それに対して姿の見えない金木犀の香りは波動が高い人のように
軽やかで風に乗って遠くまで影響を及ぼします。
どこの誰とは分からないが、ひとに隠れて善行を積んでいる人のようです。
この香りを嗅いだ人は皆、良い気持ちになり幸せになります。

毎年秋になると香る金木犀は、ひとにそうあるべき、と教えてくれるかのようです。


<SAMEGAME1>(2008年9月12日)


これは「サメガメ」と読むのか、「セイムゲイム」と読むのか分かりませんが
私は「サメガメ」と読んでいます。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takka/html/js.html
これは面白い。
ソリティアよりさらに頭を使わないで出来るゲームです。
これを一日10回×毎日×10年以上=何回だ?

このゲームはまぁ頭も使うことは使うが、直感とか勘の比重も高いのではないかな。
私は頭を使うことが嫌いなので、専ら「勘」を頼りにこなすゲームが好きです。


で、このゲームは200個のコマを消して「0」にするとクリアです。
しかし実際は一桁にするのが精いっぱいですね。
私の最高は「2」ですが、十番代(10〜19)なら一応自分なりに合格のような感じです。
二十番代(20〜29)ならまあまあかな。
30以上だったら、これは失敗したダメだった、と思います。
40以上だったら、かんりダメですね。
50以上コマが残ったら(こりゃヒド、いったいどうしちゃったんだろう?)って感じです。

考えないと言っても、そりゃ最低限は考えますが、或る日、思いついた。
(全く考えないでやみくもにやったらどうなるだろう?)と。

<SAMEGAME2>(2008年9月18日)


で、適当にクリックしてコマを消していきました。
すると、やはり50個くらい残ってしまう。
たまに20個台の時もありますが、平均50個くらいですかね。

当然のことながら、めちゃくちゃやってもコマは消えないのです。
やはり地道に真面目に考えながらコマを消して行くのが通常の方法であり、
多くの人が普通にやる方法です。

その、普通のやり方が勝利を導く。
(閲覧者のNさんは先日SAMEGAMEクリアしたそうです)

上手く行かないと投げ出したくなる時があります。
その時、悪い意味でいい加減、適当にやれば・・・もっとダメになる。


<石の下の虫1>(2008年9月4日)


家の裏に置いてある漬物石やブロック、植木鉢をどかすのって、嫌ですよね。
だって必ず日陰が大好きな虫が居るから・・・

ダンゴ虫やゲジゲジ、ナメクジ。
たまに百足までいます!
何でこの連中は日陰が好きなんだろう?

<石の下の虫2>(2008年9月8日)


何でこの連中は日陰の、薄暗い、ジメジメした石の下なんかが好きなんだろう?
と、疑問に思うが、彼らはそこが好きなんだからしょうがないです。

これって人間でいえば「大変波動の低い、人間の集まり」に似ている。
たとえば職場です。
そこに居る人皆、真面目にやってはいるが楽しそうではなく、
ストレスの発散場所を無意識に求めている。
無意識なので、メンバーにはその自覚は無い。
そこへノコノコと新人が採用されて入って来た。


私達の苦労も知らず、この新人はニコニコしている、許せない、真面目にやれっ!
と、いうことを無自覚で感じろくに教えもせず、新人が失敗すれば新人のせいにして
叱責しては鬱憤を晴らす、みたいな。
本はと言えば知らないうちに鬱憤を溜めているのが悪いのですが、
メンバーにはその自覚がありません。
メンバーは皆、険しい顔をして一生懸命仕事をしている、そんな職場。

明るい人が嫌い。

明るい人は苦労知らずなので明るいのだ、何も考えてないから明るいのだ、と
悔しく妬ましくてしょうがない苦しい。

あいつが悪いんだ。
アタシはこんなに苦労しているのに、何でアイツは専業主婦でのうのうと生きてきて
苦労知らずで、アタシ達と同等になれるとでも思ってんの?
冗談ぢゃないわよ。
思い知らせてやるわ。
ほおおおおうら、いい気味w


のような、思考回路に陥っている人が実際にいますよ。


さて、上のような職場にノコノコと侵入した明るい新人さんがいます。
善人なので(これは大変だ、この職場が少しでも明るくなるよう、努力してみよう)
と、努力したら、さらに、メンバーから攻撃される羽目になりました。

何故?

メンバー達は「明るくなんかなりたくない」のですよ。
「公明正大」なんて大嫌いなのです。
「平等」「平和」「率直」「正直」なんて言葉は、知ってはいるが、そのような
境地になったことがないので知らない。
興味もないし知りたくもない。
それを、知らせよう教えようとする人が大嫌いだ、余計なことをするな。
と、思うのが石の下のメンバー。


好きなのは・・・
「暗い」「意地の悪い」「陰険な」「他人の言葉を悪く受け取る」「誤解する」
「常に物事は悪く捉える」「穢い」「他人を蹴落とす」「差別する」
「仲間うちだけで親和する」「徒党を組む」「仲間に入れない」「寄せ付けない」
「本当のことは言わない」「悪意を持つ」「妬む」「羨む」「蔑む」「憎む」・・・

この新人さんがメンバーから好かれるためには、メンバーと同化して
一緒になって他人の粗さがしをして批判し、暗くなることでしたが、
この新人さんにはそれが出来ませんでした。
皆で暗くやっているところへ一人明るい意識でいれば、攻撃されますね。
それが暗い人達の存在理由ですからね。
それをしないと生きてる意味が無いのではないでしょうか?
勿論自覚はありません。
悪いのは全て新人の方、ということになってしまいます。


だって
「世の8割は獣の入れ物と成りている」んですよ、こういうのが普通です。
マットウな人の気持ちなどは、相手もマットウでない限りは通じないのです。

そこで、メンバーと同化すればそういう職場では何事もなく過ぎるけど、
それはつまり
「石の下の虫」になる、ということです。
これが平気ならやれますが、これが平気では無い人がいるんです。
生理的に石の下の虫にはなれない人がいる。
理屈では無いんですよ。

「こういうコトは良くないことだから、やりません」という理屈では無い。
それ以前の問題なのです。
つまり、魂の質に起因しているのです。
(※日月神曰く「上・中・下と、御霊には三種類がある」)


私は何も職場で新人を苛めている人を虫呼ばわりして蔑んでいるのではない。
それを言ったら虫に失礼です。
たしかに石をどけたらそこに虫がうじゃうじゃいれば驚くし
気持ちが悪いが、私は彼らを軽蔑したことはありませんね。

虫は虫の生き方をしているだけで崇高ですが、人間が石の下の虫の生き方を
しているのは本来の生き方ではない、と言ってるだけです。

まぁ、どう生きるのも自由ですから人間として生まれても石の下の虫の如く
暗くジメジメした生き方を選んでも良いわけですよ。
職場でワケが分からないうちにメンバーの攻撃にさらされた新人さんも
石をどけたらメンバー虫がうじゃうじゃ居て、びっくり仰天しただけだと思って
ひとつ勉強したらよいのです。
それだけです。


<ソリティア1>(2008年8月16日)


数年前にパソコン教室で、パソコン内にソリティアの機能があると教わった私。
その日から今日(こんにち)まで、毎朝ソリティアをしている私です。
最初はなかなかクリアしなかったが、だんだん上手くなってきました。

<ソリティア2>(2008年8月24日)


ソリティアは必ず上がる(クリアする)というゲームではありません。
クリアしない場合がある。

カードが全く移動できない時もあります。
手も足も出ない、という感じです。

途中までは順調に行くが、最後に来て上がらないことも多い。

途中まで四苦八苦するが、最後に来てクリアすることもあります。

これ、人生に似ています。

<ソリティア3>(2008年8月27日)


手も足も出ない、絶対上がらないケースは別として、
ボケっとしていなければ上がれるケースがあります。

知恵を使えばクリア出来る。
それからやはり場数を踏んだ方が、いろいろなケースを経験できるので、
失敗したことも後から考えると、プラスになっているものです。
また、通常の方法(下のカードを上に置く)ではなく、
いったん、上に置いたモノをまた下に持って来て・・・という妙手も浮かぶ。

とかね。
いろいろ考える余地があるのです。
それなのに知恵も経験も乏しいくせに
「カードの並び(順番)が悪いせいだ」と、失敗や不運、不幸を周囲の環境のせいに
する場合は普通にあるのではないか。

たとえば、ソリティア一回を一度の人生とすると、
転生するたびに魂に経験値がつくので、少しのことでは負けない逞しさが
身についているとか、あるのではないか。


一度の人生=一度のソリティア

手も足も出ないケースならしょうがないが、自分の潜在意識にある経験値と
無い知恵を振り絞って立ち向かう(だからゲームに)ことが
求められるのではないかな。

私のように考えることが嫌いな人間は、なかなかソリティアのコツというものを
分かることが出来ませんでした。
何も考えないでゲームをしてもちっとも上達しません。
ところが、何度もやるうちに(そぉねぇ、一日少なくて10回×365日×約8年=?回)
やっていれば、どんなバカでも或る程度のことは出来るうようになる。


閲覧者の方の中にもソリティアが好きな方(男性)がいて

ソリティア嵌ってますね!

私は子供のときに
「トランプの一人遊び」
という本でこのゲームを覚え、
よく1人で遊んでました。
(PCでできると楽やな〜)

この本によると、
ソリティアの成功確率は1/7くらいだそうです。
私はPCで6連勝の記録があるので、
その確率は何と約12万分の1!

これに飽きたら今度は
スパイダソリティアいかがですか?
成功確率はぐんと落ちますが、
輪を掛けて面白いですよ!


と、こういうことを言ってますが、はまると楽しい。
また、必ず上がるゲームでは無いところも面白い。
一か八か、ってところが面白いのです。

最初のカードの並びはたしかに不公平だ。
でも、自分に与えられた不公平なカードに対して文句を言っていたらゲームは出来ない。
苦しい中でも(カードの並びが親切では無い場合のこと)
無い知恵を振り絞り挑戦するところにゲームの醍醐味はあります。

<ソリティア4・・・チャンス>(2008年8月28日)


それからソリティアをすると、その時、上に出さなくてはならないカードに
気付かず、出し忘れてしまうことがあります。
普通はそういうことは無いのでしょう・・・
ところが私はすっごくおっちょこちょい、粗忽、不注意、惚け老人なので、
それをしょっちゅうやってしまうのです。
(またヘタこいた!)


一度出すべきカードを出し忘れると、次にそのカードが出てくる場合と
出てこない場合とがあります。
大抵は出てこない。
カードの束に戻ってしまうと、順番が変わってしまうので、もう出てきません。

たった
一度のチャンスを逃すのです!

はああ・・・

こういうとき私は(なんてバカなんだっ!)と、堕ち込みますが、
普通はそういう不注意はしないそうですね、皆さん。
私なんてこんなモンなんですよ。


さて、私が言いたいのは、これも人生の途中に現れるチャンスと似ている
ということなのです。

チャンスは来る。
でも、逃す場合が多い。
それは本人が不注意だからです。

一度逃したチャンスはもう戻って来ない。

たまにカードの順番が変わらず、また同じカードが出て来てくれることがある。
一度逃したチャンスが来てくれました!(泣)
人生にはこういうコトもあります。

チャンスは一度だけとも言えるし、二度三度と来るとも言えます
いずれにせよ、チャンスは掴まないとゲームは上がれません。
時間を戻すことは出来ないのです。



<彼岸花1>(2008年8月1日)


我が家の裏に小川が流れています。
その土手は人が通れるような道になっています。
その向こうは水田で、近所には杉林もあり、竹林もある。
のどかな田舎の景色です。

特に良いのは秋になると、彼岸花が土手の脇に一列に咲いて
端から端まで赤い帯のようになるのが何とも言えず、良い風情。

でもその前に、夏になるとここらへんの地主の人が
人を雇って土手の雑草を刈り取らせるんです。
機械で刈り取るやつです、名前は知らないけど。
で、刈り取った土手にしばらくすると赤い彼岸花が咲く、というのが
毎年のこと。

ところが或る年の夏。
刈り取るおじさんが病気になってしまったようで、
代わりの人も見つからなかったのか、土手の雑草は伸びほうだいでした。
彼岸花も咲いているんだけど、雑草に隠れてしまっていました。
私は、彼岸花を見たいので、カマを持って彼岸花の周囲の雑草を
刈り取ることにしました。

ところが・・・

<彼岸花2>(2008年8月4日)


彼岸花の周りの雑草をカマで刈ったら、何と、彼岸花まで倒れてしまう。
(あれ?)
変だなと思って、そこらへんの雑草を刈り取って彼岸花だけにしてやりましたが、
彼岸花は全部倒れてしまいました。
(おいおい、おまえは倒れなくていいんだよ)
おかしい。
何故一人で立たないんでしょう。

<彼岸花3>(2008年8月6日)


彼岸花は成長期に周囲の雑草に寄りかかって生きてしまった。
なので、自分でしっかりと自立する必要が無くなったのです。
なので、私が回りの雑草を刈り取ったら、
自力で立っていられなくなってしまったのでした。


この様子を見て、まるで「親が甘やかし、過保護に育てられた
子供を連想しました。
そういう子は大人になり親からいきなり「自立しなさい」と
言われてもそりゃ無理、とばかりヘナヘナと倒れてしまう。

私の友人にもいました。
母は物凄く心がきれいだが物事に疎かった。
子供を躾けることが出来ません。
自立の方法を全く教えない。
でも、父親はさらに輪をかけて分からない人で、
そんな子供に向かって「18歳になったら家から出て行くように」
つまり自立するように、まだ小さいうちから言い渡していたのです。
で、子供は自立出来る人間に育ててもらえないのに
家から出て行け、自立しろと言われて、とうとう
高校中退〜ひっきー、ニート〜
素質の良い子なのに親が分からずやだとこうなります。
(※私は中退についてはどうでも良いと思う。
   生きていれば良い、犯罪犯さなければ良いと思う。
   でも、そういう子の親に限って大学へ行かせたいとか
   学歴には拘っていたりするんです)


この家だけでなく、日本中にいると思いますよ、
自立できるように育ててもらえず、或る日突然自立を迫られる子が。

自立出来ない彼岸花が教えてくれました。




我が家の裏を流れる、小川沿いの土手に咲く彼岸花。
手前は水田で奥は小川、その向こうに植物が生い茂っています。
川には鯉も泳いでいる。(2008年9月21日撮影)



<ぶどう棚1>(2008年7月28日)


我が家の庭の、主人の部屋の窓の外にぶどう棚があります。
数年前に小さな鉢植えを買って来ました。
それを庭に植えたらどんどん伸びて植えた年にぶどう棚が作れるほど大きくなった。
知り合いの庭師に来てもらって鉄パイプでぶどう棚を作ってもらいました。
主人の部屋は東向きなので、これで夏場の日差しが少しは和らぐと思ったのです。

ぶどうのつるの伸び方は凄いですね。
ぶどうの実も毎年生り、見てるだけで楽しいです。
私はぶどう棚の上の部分がぶどうの枝で天井のようになるのを夢見ていましたが・・・

<ぶどう棚2>(2008年7月29日)


私が(こっちに伸びて欲しい)と、思う方向に伸びないで
(あああ、そっちはダメだダメだ!)という方向にすくすく伸びてしまうんですよ。
で、私も(そっちじゃないんだよっ!)とばかりに、剪定ハサミで切ったり、
紐で結えて位置を決めてみたり・・・でも、そこで定着してくれるかと思いきや、
私がこうあって欲しい方向には伸びない。

中には枯れてしまう枝も出て来る始末。

いったいこれって・・・

悪戦苦闘すること数年間。

今年やっと悟りました。

そうか、これって子育てのようなものだな、と。

<ぶどう棚3>(2008年8月4日)


私は子供の自由にさせていて、世の中の親に対しては
(もっと自由にさせればいいのに)と、思っていました。
例えば、子供の職業を決めている親がいまだにいます。
そういう人の気持ちが分からなかったが、
自分がブドウ棚を作ろうと思ったことによって、ああ、こういうコトか、
と分かった。

つまり、私は個人主義なので、ひとはひと、自分は自分と思っている。
だから、子供には子供の人生を生きてほしいので特に要望は無い。

でも、ブドウ棚に関して言えば、私はブドウでは無いので棚になれない。
だから、ブドウに頼んで、というか、成長してもらって、立派な棚になってもらおうと
思うわけです。
ブドウ自身が棚になりたいのかなりたくないのか、そんなことはお構い無しで。


子供に要望をする親、期待する親は、自分がやれないので、子供にやってくれ、と
託すのと同じことを、私はしていた、と分かった。
ここで良く考えれば、子供に託すのは間違いであると分かるが、
殆どの人は思考しないので、相手が人間なのに、ブドウなどの植物に
向かっているかのように、行動(言動)するわけです。
私も思考しないので、ブドウに無理な要求をしていたのです。

子供には子供の意志があるんだけど、それを知らない気付かない。
そんな当たり前のことに気づかない親が多いことはまずいですね。

相手がブドウのような植物でさえ、私に逆らって自分が伸びたい方に伸びて
私の想い通りにはならない。
ましてや人間の子供が親の言う通り、思う通りになるわけがない。
そんなことを思った出来事でした。



<夏みかんの木1>(2008年7月21日)


我が家の庭に夏みかんの木があります。
中古住宅を買ったので、既に庭に植えてありました。
背の高い木ですが、ちっとも実が生りません。
日陰なので、実が生らないのだろうか、左右にも植木があり、
お互いに邪魔をしているのが悪いのだろうか、と思い、
この木を数年前に日向に植え替えました。

すると・・・

<夏みかんの木2>(2008年7月23日)


この木を最初に見てから10年間は殆ど花も咲かず、
従って実もつけなかったのです。
たまに実が一個くらい生っていて(へえ)と、思ってるうちに落ちていたり。
或る年、庭師に来てもらって、夏みかんを植え替えることにしました。
前の年に根回しをしました。

で、次の年に日当たりの良い場所に移したのです。

すると移した年には実は生らなかったが、次の年には3個ほど実をつけた。
その次の年には33個くらい実をつけたので私は喜んだ。
次の年は15個くらいだったかな。
その次の年は何と130個以上の実を付けました。
去年のことです。
今年は7個くらいしか実が生っていません。

私が見る限り10年間日陰に居た夏みかんの木は殆ど実をつけなかったのに
日当たりの良い場所に移したら途端に実をつけるようになった。
やはり夏みかんは日向が合うようです。


人間も同じですかね。
適材適所、という言葉が浮かびます。
日向に向いている人、日陰が良い人がいます。
それぞれの素質、本質、性格、タチ、才能などによって適した場所というものがある。
自分に適していない場所にいると、人間は才能を開花しません。
毎年平凡に過ごしているだけです。
実が生らない=成果を出せない
それは今いる場所が自分に適していないからだ、とも言えます。

そういう人が一念発起して自分に相応しい場所に出て行くと、
人が変わったように楽しく、成果も出せる、ということはあります。


また、もうひとつ。
夏みかんの木は毎年同じように実をつけません。
実が沢山生った年の翌年には実が生りません。
これは木に蓄えられている糖分と関係するのかもしれない。
植物のことは良く分からないけど、以前テレビで百年に一度花を咲かせ、
実をつける植物の番組をやっていました。
その植物は百年間糖分を蓄積するんだそうです。
で、糖分が百年溜まると、やっと花を咲かせて実をつけるんだそうです。
実をつけるには実をつけられるだけの蓄積がないとダメらしい。

それなら夏みかんも同じですね。
夏みかんだけでなく、我が家にはブドウもありますが、沢山生った年の翌年は
実があまりつきません。
親戚の叔母さんが言ってたけど、梅の実も
豊作と不作が交互に来るらしい。

このように年によって豊作と不作と繰り返すようです。
東洋の占いには年によってサイクルを設定しているのがあります。
それはこのように植物の豊作&不作を観察した結果、人間の運命も
このようなものであると考えたためであると、私は思います。

夏みかんの教えは・・・
◇適材適所、自分に相応しい場所がある→新天地を求めよ。
◇運命は吉凶が交互にやってくる(良い時ばかり、悪い時ばかりではない)

と、こんなのが浮かびました。



<水仙1>(2008年7月15日)


我が家の狭い庭に水仙の球根を沢山植えました。
今から10年ほど前のことです。
庭が狭い上、植木が沢山生えている。
ますます狭くなってしまう。

しょうがないので、埋められる場所を探して水仙の球根を埋めました。

<水仙2>(2008年7月18日)


球根を埋めた場所は

@フキ、茗荷、シダが生えている日陰で土が柔らかい場所。
A日当たりが良く、夏には茄子を植える場所。
B物干し台の土台のそば。
C大きな木の根元。
D砂利が多い土の硬い地面。


などです。

この中でDの土の硬い砂利だらけの地面に埋められた水仙は気の毒でした。
土が硬いし乾燥しているので生きるのが大変そうです。
苦難の人生です。

さらに過酷なのはBの物干し台の土台のコンクリートのそばに埋められた水仙。
私が洗濯物を干すたびに踏まれてしまっていました。
そのつど申し訳ないことをした・・・と思いました。

土は柔らかいし肥沃なのに茄子を植えるたび生ごみを埋めるたびに
地面を掘られ、その時水仙の球根も掘られてしまうAの場所があります。
これも激動の運命です。


良かったのは、フキや茗荷が生えている場所と大きな木の根元の、
◇砂利は無く土は柔らかい
◇人に踏まれることがない
◇スコップで掘り起こされることがない
所に埋められた水仙です。

この二か所の水仙は平和で安全な人生を過ごしています。


生まれる場所と環境は選べません。
その環境に生まれたら最後、一生その宿命から逃れることは出来ないのです。
神が気の毒に思って、上記の三つの過酷な運命のもとにある水仙を
堀出して柔らかい安全な土の場所へ移してくれるまで、この宿命は変わらない。

人間はともすると自分が生まれた環境を呪いがちです。
無理もないケースが多いです。
しょうがない。
でも、人間が水仙と違うのは自分で運命を変えられることです。
そこに生まれたのは宿命ですが、人間は自分で運命を作ることが出来る。
諦めてはいけないと思う。



<つばめ1>(2008年7月9日)


もうつばめの雛は巣立ってしまったかもしれませんが、
ちょっと前までは巣の中に4〜5羽の雛がいて、とても可愛かったです。
可愛いので巣を見つけるとその下でしばらく観察します。
燕の巣を見て思ったことは・・・(続く)

<つばめ2>(2008年7月12日)


燕はご存じの通り父燕と母燕で子育てします。
両親共稼ぎの家を連想しますね。
子燕は巣の中にぎっしり並んで入っていて、親燕が居ない時はとてもおとなしい。
騒げば肉食の鳥などに命を狙われるのでね、賢いですね。
凄いなぁ、と感心します。
いや、賢いと書いたがこれは本能ですね。
別に知恵が深いのではなく、本能でやっていることです。

翻って人間は本能だけで子育てが出来るわけではない。
知恵や情報もないと子育てが出来ない。

◇動物=本能だけでOK
◇人間=本能・知恵・情報が必要

なので人間の方が子育てが難しいのです。


だから人間は子育てがヘタだと言えます。
我が家の場合は
◇第1子=情報と言語(理くつ・サヌキ)で育てた
◇第2子=頭(頭の先の知恵)で育てた
◇第3子=心(本当の賢さ・アワ)で育てた
◇題4子=本能(自然の理)で育てた

こうなりました。

子育てが未熟な人は、つまりどこの家庭でも第1子は
「赤ちゃんの育て方」のような情報を得て育てる。
情報から始まるので、理屈の子育てになります。
言語で育てます。
知恵が全くありません。

第2子になると、第1子の時の経験があるので、それらが身についていて、
知恵もあり、落ち着いて育てることが出来る。
母の頭(子育ての分野では)も良くなっている。

第3子になるとさらに知恵がつき、今度は心を使う余裕が出てくる。
赤ちゃん〜幼児のアホさが可愛く見えてくる。

第4子になると親は何も考えずに本能の赴くままに育てることが出来る。
ここまで来ると情報、経験、知恵が身についている状態。
言語はほとんど使いません。
つまり、叱るとか説教するとか、命令するとか、余計な口出しが殆どない。

私はもともと口出しが少ない母ですが、それでも子供が少ない時は
命令や禁止をしていました。
4番目の子には殆ど命令や禁止をしなくても育てられるようになりました。
命令や禁止は出さない方が良いのです。
これを出すと、子供は守りませんからそれに対して叱らなくてはならなくなる。

◇命令、禁止をする
◇子供が守らない
◇それに対して説教

となり、やたら言語が多くなります。
どこの家でも大抵は母親が一日中何か言っているのでないか?


末っ子が保育園時代、ウチに来た末っ子の同級生の母が驚いていました。
あまりにも家が静かなこと、つまり私が何も言わないことに対して驚いていた。

我が家の末っ子がその人の第1子と同級生だったので、新米ママとベテラン母の差ですね。
10年のキャリアの違いは歴然としていました。

私も第4子の子育ての時には本能で育てられるようになりました。
本能と言っても人間ですから、情報も知恵もあるので、動物と同じではありませんが。
子供を自由にさせておき、命令と禁止は最小限、ひたすら可愛がって育てることが出来た。
思えば上の2人まではこういうことが出来なかったので、ダメ母ちゃんで悪かったな、
と思います。
その割にはしっかり者に育ってくれましたが。
いや、だからしっかり者に育ったのかな。


相似象の師匠が言うには
「人間は中途半端に発達した脳のために、
さまざまな不都合を起こしている」
んだそうです。
そして
「脳の機能を最大限にあげることが望まれる」そうです。
その方法が相似象です。
相似象とは物理なんです。
自分で自分の頭を良くする方法。

これを10年やったら(当時)私にも少しは分かるようになり、
動物並の子育てが出来るようになりました。
人間は物凄く苦労して初めて動物並み、燕並みの子育てが出来るのです。



<雑草1>(2008年7月3日)


雑草という草は無い」とは昭和天皇のお言葉。
私の定義では
「種を人間がまかないのに勝手に生えてくる草」のことを雑草と呼んでいます。
天皇には悪いけど。

ところで、雑草取りは
◇地面から上の部分を削り取る
◇根こそぎ引き抜く
◇除草剤を撒く

という方法があります。

私は除草剤を初め農薬が嫌いなので、絶対使いたくない。
虫よけの薬を噴霧するのも嫌です。
とにかく自然でないものは嫌い。

それは関係無いけど、雑草は根こそぎ取りたいですね。
で、根こそぎ引き抜こうとすると、雑草にもいろいろあることを発見する。
(続く)

<雑草2>(2008年7月7日)


雑草を抜くという作業を「説得」とします。
抜けるということを「納得」とします。
そのように仮定する。

すると・・・

◇抜こうとすると地面から上の部分がプツプツ切れるが根は抜けない雑草

があります。
こういう雑草を見ると私は
「はいはいはいはい、負けます負けます、あなたの言う通り。
これこの通りあなたには敵いません、ゴメンなさい、私が悪かった、
二度としません、分かりました、充分、よおおおおく分かりました!」と
言っているかのように感じます。

実際に居ますね、そういうヒト。

分からないのにすぐ謝る人です。
別にこちらとしては怒っているわけでは無いんだけど、そういうレベルの人には
説得=説教=叱責
になっている。
分別がついてない。


今から10年ほど前に近所の子供が我が家の末っ子に
意地の悪いことをしていたので、
後日その母親に「おたくの息子はこういうタチの悪いことをしていたよ。
ちゃんと育てた方がいいよ。」と報告しました。
末っ子のことなので、上の三人で散々もっとヒドイ経験をしているので
別に腹も立たない、ただ、その家の子にとってまずいことであるので
一応報告したのですが、その時の母親の態度は
「はいはいはいはい、分かりました!」だったので、
(こりゃあ、分からないな)と思いました。

案の定、数年後にクラスで苛めの問題が発生した時、この家の子がクラスの子供の
母親達から攻撃(クラスや電話で事実の報告)をされました。
そして初めて自分の子が本当にタチが悪いことを知った。
何故タチが悪いのか?
母親がタチが悪いからです。

他人から事実の報告を受けてすぐ感情的になり、分かってもいないのに
「はいはいはいはい、分かりました!」と言うのは何も分かってない。
(当時私は分からなかったけど、私から言われて感情的になっていたようです)


分かってもいないのに分かった振りをしてその場しのぎで謝るのはまるで
「地面から上の部分は即、プツプツ切れてやるが、根っこは変化しない様子」に
そっくりです。
そして、このような人は至るところに存在しています。

根から抜けるのは別に降参するという意味ではありません。
心から理解する、納得する、という意味で使っているので間違えないよう。


或る人は自分が亭主や彼氏に殴られて来たが今はそれを何とも思ってない、
彼らを許そうと思う・・・などということを延々とブログに書いていた。
何度相手を変えても殴られてしまうそうです。
もし、そうであるなら原因は自分にあることを疑うべきですね。
しかし、この人は他の面からもそんな簡単なことが分からないようでした。
このままではこの先、何人相手を変えようとその都度
「相手から殴られる運命」にある。
ここは一つ本人がそれを自覚し、自分を変えた方が良い、そのお手伝いをしようと、
思いました。
勿論相手から要請は無いのでお節介の類です。

するとこの人は上の人と同じく何度も「分かった分かった」を連発する。
全然分かってないのが分かったので、「いや、あなたは分かってない」と
さらに説明するが、そういう話になるのは大変苦しいのが私には分かった。


悟るとは苦しいものなんですよ。

楽して悟れはしません。

沖縄の聖人だってかなり大変だったようです。
ましてや凡人の私達が何の苦も無く、悟れるわけがないのです。

この人はいくら「分かった」と言っても私が
「いや、あなたは分かってない」と続けるので
嫌になったのでしょう。
その一年後くらいに、ある若い男性に言い寄り
「私はifさんとは距離を置きたい。」と、メールしたそうです。
私は自分が批判されてもOKですが、10歳も若い独身男性に他人をだしにして
迫る、というコトに呆れました。
が、もっと呆れていたのはこの男性。
マジで気持ち悪がり(爆笑)私に「困りました」と相談メールを寄越しました。
「何かあったんですか?」と。

この女性のようなのが多いかもしれませんね。
表面上は分かった振りをし、謝り、従順を装い、内心は反対の人。
私に言わせれば
「そのような心の姿勢(口と腹が裏腹)が、不幸の原因」
なのですが、こんな簡単なことも分からないほど、分からない人でした。


「抜けます抜けます!済みません済みません!」
と言ってるかのような雑草を見ると
こういう種類の人を連想します。
このような態度で生きていれば一生何も悟ることは無いが、本人にとっては
悟ることが苦しいので、それで良いのでしょう。

幸いなことにこのような種類の人は私が嫌いなので(笑)去って行ってくれるので
有難いです。
三次元に生きているので時間の制限がある。
時間は無限では無い。
なので、限られた時間を有効に使いたいので、抜こうとすると地面の上だけが
プツプツ切れる人は申し訳ないが相手をしている暇がありません。

地中の部分、根ですが、それは「我」です。
相手を言葉を理解するには「我」があっては無理。
我を抜いてこそ初めて分かるのです。


物事が分からない人とは「我が強い人」です。



<アカシヤの花1>(2008年6月23日)


我が家の周囲にはアカシヤの木が沢山あります。
正確にはニセアカシヤというらしい。
でも、ここではアカシヤと表記しますね。


アカシヤの木は毎年春になると白い花を咲かせます。
藤の花のように房になっています。
この花房を採って天ぷらにするととても美味しいのです。
毎年花が咲くのが楽しみです。

さて、アカシヤの花が教えてくれたことは・・・(続く)

<アカシヤの花2>(2008年6月26日)


アカシヤというのは大木です。
花は木のてっぺん、上の方から咲いて行きます。
我が家から見えるアカシヤの大木の上の方から白い花が咲き始めたのが
見える春になりました。
でも、下の方はまだ花が咲いていません。

上の方の花は手が届かないので採れません。
なので、下の方が白くなるのを待つことになります。
なかなか下の方に花がついた感じがしません。
そうこうしているうちに春の長雨がやって来ます。
数日間雨ばかり。
たまに晴れた日にアカシヤを見ると下の方まで白くなっている。
花が咲いたのです。

その時、さっと花を採りに行けば良いのですが、夕方だったりすると
疲れているというか、面倒臭くて、(いいや、明日で)と、思ってしまう。
ところが翌日は朝から雨だったりする。

こんなことなら昨日花を採れば良かった、と後悔する。
この時期は空がからっと晴天になる日が少なく、
数日でアカシヤはつぼみから満開〜盛りを過ぎて枯れかかる、感じです。

今年は曇り空の下、アカシヤの木まで行き、つぼみを収穫することが出来ましたが
もっと早く来ていれば、良かったな、という状態でした。
アカシヤは今にも咲きそうなつぼみの状態を採って天ぷらにすると美味しいのです。
花が開ききった状態はいまいちです。


このように自然界は人間の都合に合わせてくれません。
人間が自然を良く見て良く読み、自然に合わせなくてはなりません。
日本人を初め世界中の人は、こういうことをしていたのです。
しかし今は季節も時期もあまり重要ではなくなりましたね。

早くてもだめ。
遅くてもだめ。

「その日、その時」でないと、ちょうど良いアカシヤの花のつぼみは収かく出来ない。
アカシヤの花は「その日、その時」に間に合うよう、
意識を常にそれに向けていなさいよ、と教えてくれているかのようです。
「我を張らず自然に従順になれよ」と、言っているかのようです。
チャンスはあっと言う間に通り過ぎるよ、と言っているかのようです。

「その日その時」とは、なんでも良いのですが、たとえばアセンション。
それはいきなりやってくる、と聖書に書かれています。
人はその日その時も普段と同じように、普通の日常生活をしていて、
何も特殊な日では無いのだそうです。

聖書には「いちじくの葉が色づくのを良く見ていなさい・・・」とかいう記述があるそうですね。
そのように心を自然界に向けて準備しておかなくてはならない、という話。



<竹の子1>(2008年6月14日)


今、竹の子が出る季節です。
私は毎朝近所の藪に入り竹の子を探しています。

うっそうとした竹林で陽もさしません。
地面は今まで落ちた竹の葉の厚い層が出来ている。
倒木もある。
その上に竹が倒れかかっていて、そこを通る際には(くぐるか、跨ぐか)迷います。
東南アジアや南米のジャングルもこうかな、と思うくらい凄い場所なのですが、
私は何故か好きなんですよ。
気分は「ゲリラを探す国軍兵士」。

竹の子は周囲の景色に溶け込んでなかなか見つけられないけど、
これを発見するのがまた楽しいんです。
ああ、面白い。

で、雨が降ると竹の子を採れないので、
数日雨が続いた後竹林に入ると巨大な竹の子を発見する。
高さ2メートル、3メートル、それ以上の竹の子がある。
でも、竹の子です。
皮を被っていて枝が出ていません。

これを見て思いました。

大人と子供の違いを。
(続く)

<竹の子2>(2008年6月16日)


竹の子と竹の違いは人間の子供と大人の違いに似ています。

竹の子は柔らかく、竹は硬い。当たり前。
これはちょうど、子供の心は柔軟で可変性に富み、
大人の心は硬化して変化しない様子に似ています。
子供の竹の子は柔らかいので「他人の食い物になる」可能性がある。
大人の竹はいろいろな用途があり、世のため人のため役に立ちます。
つまり仕事をすることが出来る。

子供の竹の子はもろいので、簡単にポキンと折ることが出来る。
大人の竹はちっとやそっとでは折れません。
これは子供がちょっとしたことで凹んでしまうが、大人は同程度の刺激なら耐えられる
ことに似ている。

子供の竹の子は枝が無くて真っすぐです。
大人の竹は枝があり葉がついていて竹の子を上から保護しているように生えています。
人間でいえば大人は単純ではなく、純粋でもないですね、子供に比べたら。

子供の竹の子はいくら背が高くても子供です。
たとえばとても背が高い中学生がいるとします。
身長180センチもある。
でも、子供なので大人に叱られると泣いちゃうみたいな、そんな感じ。
いくら大きくても子供は子供だなぁ、と思うことがよくあります。
可愛いです。

竹の子も大きくなると、下半分が大人の竹になっているのがあります。
上の方、頭の方はまだ子供の竹の子ですが、
半分から下は大人。
これは人間が徐々に大人になる姿と似ています。
身体は大人並に大きくなっても、頭の方はまだ子供であるのと同じです。

同じ竹林の竹の子ですが、太さには個性があるところも人間のようです。
人間の子供も子供のうちから個性がありますからね。


と、まあ、こんなことを思いました。
で、毎日子供の竹の子を食い物にしている私でした。

それから、竹の子を探すのは意外と難しいんです。
なんたって連中は迷彩服を着ていますから、風景に溶け込んでしまって
見つけるのは大変です。
それを見つけるのが面白いので、毎朝採っているのです。

そして思いました。
もし、竹の子というモノを知らない人が竹林に居たら、竹の子は見つけられないかもしれない。
見つけても、竹の子というものを知らないので、通り過ぎてしまうかもしれない。
私が竹の子を発見できるのは「竹の子というものがある」という情報が
頭に入っているからです。
情報を持っているということは大事だな、と思いました。


そして、竹の子を「疑問への答え」と仮定します。
すると「捜さなければ見つからない」のです。
慢然と風景(事象)を見ているだけでは答えは見つからない。
意識して物事を見なくては。

<竹の子3>(2008年6月17日)

上の記事を読んだAさんからメールが来ました。

さっき、森羅万象の竹の子の話読みました。

なるほど・・・と思いましたよ。

友人の家で竹の子がはえる話をしましたが、
まさに竹の子2の話で・・・

その家には何度も行っていて、
となりが「真竹」の竹林って言うのも知っていたのに
竹の子に気がつかなかったんです。

よく見ている竹の子は、あの太い「孟宗竹」ばかり。
真竹の竹の子を間近で見たことがなかったので
目の前に生えていても、目に留まりませんでした。

で、何年か前に、たまたま或る物産店で真竹を売っているのを見て
「ああ、こういう竹の子もあるんだ〜。買って行こう」
って買って、友達の家に行ったら、庭ににょきにょき生えてる。。。
友達も、「家に来ればいくらでも取り放題だよ(笑)」

知らないと、目の前にあっても目に映らないんですね。
それ以来、竹の子は買いません(笑)


そうなんです。
と、言ってる私が、実は「目の前にあるのに気付かなかった人」なんですよ。
真竹の竹の子というものを知ったのは、この土地に引っ越して来てからです。
それまではスーパーで売ってる孟宗竹の竹の子だけでした。
で、真竹というのを食べてみたら、これが美味しいんです!
孟宗竹よりえぐみが無くてずっと美味しい。
それからは毎年近所の旧家の竹林へ行って真竹の竹の子をもらっていました。

実は・・・我が家の目の前に竹藪がありました・・・
それに気づかなかった、というか、「竹藪で竹の子採れば良い」という
当り前の、普通の知能の持ち主なら当然分かることが分からなかったんです。
これはヒドイです。
何てバカなんだろう・・・と、思いましたが、それで暗くならないのが私の良いところ。
気付いたからには竹の子採りが年中行事になりました。
去年からだけど。


目の前にあるものが見えないことを「あきめくら」「目が節穴」と言いますが
その通りです。
目に見えていてもそれを判断する脳の機能が悪いと私のようなことになる。

「気付きなさい」と言うのは簡単ですが、「では、何に気づいたら良いのですか?」
となると、難しい。
何に気づけば良いか分かっていたら既に気づいていますからね。
このように「目の前にあることに気づく」ことは大変難しいのです。
映画「プレステージ」に「人は何も見ていない」という台詞が何度も出て来ます。
その通りです。

<竹の子4>


ブログ「ここから・・・」の管理人さんも竹の子について書いてます。
2008年6月17日の記事です。



あと私が考えたのは,
たけのこは皮をかぶって守られてるけど竹は自分で生きていかなくてはならないこと。
これは子どもなら回りもかばってくれることをさします。
周りの大人が盾になって守ろうとする事につながる。
可愛がられる事も,かな?

たけのこはまっすぐで自分の方向が固まってるけど,
竹は伸びた分 風に(世間の意見かな?)揺られて自分が揺れやすいこと。
逆から見ればこれはしなる事で自分を守れるけど
たけのこのようにしならないと折れやすい事につながりますね。
子どもは自分のやりたいことを基本,
優先するのであまり揺れないはずだけど最近はタケノコに型をはめ込んでいるような気がする・・・

たけのこは土に隠れて見えない部分がありそことつながってるけど
竹は見えてるところだけ(人から)大切にされること。
子どもはまだ直感の世界の方が多いので無意識,潜在意識につながってるようだからです。
でも人が竹を見るときは上しか見ませんね。使える部分といえばいいかな。

地下茎で繋がってますね。

竹には葉があるので風でざわざわうるさいこと。
(口うるさいという意味で)とかくうわさに乗じる事につながってるように思う。

竹は見ても誰も心躍らないけど(居るかもしれませんが,少数でしょう)
タケノコを見るとわくわくする事。
特に小さい子はそういう力があると思う。


小さい子供は可愛いですよね!
大人をなごませます。