直感について Y

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<一人に一つの世界2/>(2013年10月11日)


下の例は性格が明るくて楽天家の人の世界の話でした。
こういう人の人生は明るくて楽しくていいんじゃないでしょうかね。
でもこういう人は稀で「物事を悪く受け取る頭と性格が暗い人」の方が多いのでは?


ここで事例に挙げるその人の世界は多分とても暗い。
私の感触では夕方くらいの明るさ(暗さ)です。
(それは普段の状態でたまに真っ暗になるw)
なのでモノゴトがハッキリ見えない。
そういう時は「ああ、自分は頭が暗いからモノゴトが
ハッキリ見えないんだな」と分かれば良いんです。
私は決して「誰も彼もモノゴトを昼間の太陽の下で見る如く、
クッキリハッキリ見ろよ」なんて言いません。
分からないならそのことを「分かれば」良い。

この事例の人は(頭と性格が)暗いのでモノゴトが良く見えず
「自分には見えてない」ということが当然分からず、見えている、
いや、他人よりも見えていると錯覚していました。

他人の親切は「意地悪」励ましは「恫喝」思いやりは「企み」に見えるという
まるで、ハリウッド・ムービーによく有る奴、変な薬を一服盛られて、幻覚を見てしまい
宙を切り裂いて一人で戦っている場面を彷彿とさせました。
私はヘミシンクは出来ないが、もしやったとしたらそういう場面が見られただろうと思う。
そしてこれなら映画館に行かなくてもいいし、
DVD借りなくていいし(新作が300円以上なんて高いよ)
テレビで録画しなくていいし、ホラー映画、
いや、ホラー3D映画が無料で見られるわけで
やはりヘミシンクはした方がいいか(動機がちょっと不純だが)




暗い世界を創っているのはその人です。
そこでは「笑顔で語りかける人の顔」が夜叉に見えるのです。
「そうじゃないよ、誤解だよ!」と必死で言えば
「態度が大きい、ゴリ押しした」となってしまう。
打つ手無し。

なのでその人の周囲からはだんだん人が離れて行きました。

新たな縁が出来ても、今度はその新しい人からも逃げられる始末。

どんどんジリ貧になる。




こういう人に明るくなった方がいいですよ。
モノゴトを良い方に受け取った方がいいですよ。
と忠告をしても、「その忠告そのもの」を自分への攻撃と受け取るのですが
それが「悪い」と言うのではありません。
そういう世界が有るのだ、と言いたいわけね。

その世界はその人が創っているので、その世界での登場人物(通りすがり)には
その世界を変えることは出来ない。
通りすがりの側としては「ああ、このような世界も有るんだな」と一つ学べばいい。



つまり、魂が暗い人の世界は暗く、モノゴトが良く見えず
常に何かに怯えている。
起こることは全て悪いことになっている。
自分が常に脅かされるので、それからこっちからやってやるぜ、みたいな
心境で居る。

誰も何もやってないし、むしろ親切をしているのですが
その人の世界ではそれは親切ではなく、余計なお世話や脅威にしか見えないのです。
凄いですね!
多かれ少なかれ、このような傾向になっている人はいます。


このような境地で居ればたとえアセンションという言葉を知っていても
ただの知識でしかない。
それならアセンションという知識などなくも心が明るく優しく素直で無邪気な人の方が
よほどアセンションに近いのではないだろうか?


アセンションという言葉を知っていて、やたら詳しくて
他人に教えることが出来る人。
でもそれはあくまでも仕入れた知識、情報であり、肝心の境地は
アセンションとは程遠い人、というのは多いのではないかな。



その人が世界を見るとき、例外を除いた殆ど全ての人は
意地悪で隙有らばズルをしたり他人をバカにしたり企てたり
陥れたり攻撃したりしているのです。
その人の世界の人はそうなんですw

そういう世界に普通の通り縋りの人が迷い込むのですが
何の下心も無い、ただの通り縋りに対しても、その世界の創造主である
その人は「また自分を騙しているんだ」と思う。
この時のその創造主の心境は「そうだということは既に分かっている」というもので
「そうなのか」「違うのか」と、ここでひと考えすることが無い。
一応考える真似事はするかもしれないが、実は結論は既に出ている。

これって夢の中ですよね。

夢の中は大抵そうです。知らないことを既に知っているのです。



しかし考えれば不思議ではないかもしれない。
だってその世界はその人の世界なので、そこで起こることは全て
先刻承知のこと
だからですよ。

その様子を傍から見て「なんとバカな!」と他人が思っても
その世界の創造主はその人なんだから、それを他人は変えられない。
その世界ではそういうことになっているのです。
その世界ではその人は全知全能なので、思った通りにモノゴトは展開します。

何の罪も無い、ただの通り縋りを

自分を脅かす奴

と認定すれば、通り縋りのあyること為すことが全て「自分への脅威」に映る。

ね?だから言った通りでしょ?
この世界は自分の思う通りに展開するんですよ。



と、多分こんな感じです。

みんなが自分を除け者にする。

と思えば、その通りになる。

皆が普通に接していても、受け取る当人の意識が
「皆は自分を除け者にする」と思えばそのように見えるし
見えただけでなく、その人の世界では「実際にそうなる」。
(※自分が除け者になるような言動行動を無意識に採ったりする。
   しかし無意識なので、自分がやらかしていることに気付かない。
   それをやり続け、最終的に、その人の思う通り、つまり
   自分は除け者、になっている)




このように人は例外無く一つの世界の創造主であると言えます。
その世界を傍から見れば
(つまり、普通に付き合うとか観察するとかする)

「ああ、この人の世界は恐怖に満ちているな。こりゃあホラー映画だ」
「ああ、この人の世界は明るくて楽しそうだ。まるで妖精だ、ファンタジー・アニメだ」
「ああ、この人の世界は地道で静かで真面目な修道院のチャントだ」
「ああ、この人の世界はナチュラル&エコロジーな先住民の世界だ、
  ナショナル・ジオグラフィックだ」
「ああ、この人の世界はSFアクション超大作だ、こいつは面白いや!」
とか、いろんな世界が有ります。


他人が創っているその世界に関わる時、自分が相手にどう映るかは相手次第なのです。
その人の世界ではその人の感覚と価値観が法則のようになっているから。

たとえば私が上の例の「ワンタジーアニメな人」の世界に行ったとします。
その世界は妖精の女王のようなその人が支配しています。
いきなり現れた未知の人、アタシに対して
「あら、これは東の魔女さん、来てくださったのね、お久しぶりですわ〜♪」
となるかもしれない。
いくら私が「いえ、私は魔女ではなくて・・・・・・」
「あら、そうですの?では西の魔女さんだったかしら?」
「・・・・・・・・・・・・・(魔女から離れろや!)」
と、いう風に相手に映る。

たとえば私が上の例の「SFアクション超大作映画」の世界へ行ったとします。
私  「どうも〜♪始めまして」
相手「おお!来てくれたか!待っていたんだ!
    隊員は多いほどいい、さっそく操縦席に着いてくれ」
私  「え?」
相手「ホラ!そこの操縦桿を握って!」
私  「あ、あの・・・・・・・・・・・・はい〜?・・・・」
相手「ボヤボヤしてると敵の攻撃が・・・あっ!来たぞ!波動砲発射!」
私  「わ===っ!」
こういう世界に入るとへとへとになりそうなので怠け者の私としては
躊躇しているわけですよ。




一人に一つの世界。
そこではその人が世界の創造主です。
(そこらへんのヒントが映画「トロン・レガシー」に有ります)
だからその世界は創造主が変らない限り変らない。
他の何人(なんぴと)もその世界を変えることは出来ない。
その世界が変わるのは、創造主が自ら「変ろう」と思った時。

<一人に一つの世界/或る夢判断師の場合>(2013年10月9日)


今、生きているこの世界の話ですが
人は一人一人固有の世界に住んでいるようです。

映画「マトリックス」で、人間は眠っていて
その人間が見ている「夢」が、マトリックスです。
夢の世界は現実そっくりだし、その中で他人と出会ったり会話したり
生活しているのですが、しかし、いくら現実に見えていても
それは所詮その人が見ている夢なのです。

私達が今生きているこの世界はこの映画と同じなのだ・・・と
だんだん分かって来ました。
考えてみればこの監督はどこからこのようなインスピレーションを受けたのか
と驚きますね。



ではこの世がマトリックスである証拠は有るのか?

って話ですよね。

二十年近く前、私は夢判断に凝っていたので夢判断の本を買って読みました。
まだネットをやってなかった時です。
で、その著者が
「自分が夢を解釈したとおりに、お客さんの運命が展開している」
「自分の夢判断は凄く当たる」

という意味のことを書いていました。
言葉はこの通りでは有りませんよ、内容的にそういうことを書いていた、ということね。

(へえ)と思った。
腕が良いんだな、と。

で、その本を読むと内容が(???)でした。
解釈例が(なんだかな〜)だったのでとても腕が良いとは思えなかったのです。
なのに、お客さんにとっては「その通り」だった、と本に書いてある。




その後、私はインターネットで情報を得るようになり
その著者のサイトを発見しました。
本の内容と同じでしたが、やはり私が思うことは
@この人の夢判断は優れているとは思えない
Aしかし、この人は「自分の夢判断は当たっている」と言い(書き)
B「当たった」という事例を載せている

それからさらに数年経ち、やっと分かったのです。
「この人の世界では、この人の夢判断は当たるのだ」と。
人はそれぞれ固有の世界に住んでいますから
この人の世界ではそれが「正解」なのです。




ではその人のお客さんは何なのだ?

お客さんはその人の世界では「影」です。
お客さんにはお客さん固有の世界が有り、そこではそのお客さんの
思う通りに現実は展開している。

だったらその著者の夢判断は当たっているのか居ないのか?

著者の世界では「常に当たっている」のだろう、
だって、本に「常に当たる」と書いてあるw

でもお客さんにとっては当たっているのか?



問題はそこですよね。
そんな思い込みの激しい著者はどーでも良いが。

@当たっている人も居る

と思う。これは問題ない。



A少し当たる人も居る。

と、思う。
少し当たる人は、全然当たってないわけでは無いので
もし、著者が「どうでした?当たりましたか?」と訊けば
「はい、少し違うところもありましたが、大体当たっていました」と答えたとする。
その場合、この著者は「自分の夢判断は当たる」と決めていますから(笑)
「そうでしょう、そうでしょうw」と。
つまり「大体当たったということ」はこの著者にとっては「当たった」ことになるのです。
少しの違いはこの著者からすでば些細なことであり、無視して良いのですw




次に
Bう〜〜〜ん、あまり当たりませんでした。

と答える人は居るかな。
日本人の場合あまり当たらなかった場合は
多分「何も言わない」でしょうが中には正直に
或いはこの著者のさらなる精進を願って「あまり当たりませんでした」と答える人が居るかも。

「あまり当たらなかった」という答えが来た場合
自分に甘い判断師だったら「そうか『今回は』あまり当たらなかったんですね。
調子が悪かったのかもしれないな、済みません」と自分に都合よく解釈するかもしれない。
いや、その可能性が大です。

そして「あまり当たらなくても少しは当たったわけだ」と思い
「たとえ少しでも当たったことには違いない」と解釈します。
ってことはこの人は「大抵の場合、自分の解釈は『当たる』と解釈する」わけですよ。



つまり、この著者には「当たった」「大体当たった」という感想しか来ないわけで
その結果「自分の夢解釈は当たる」という結論になるのです。




次のケース。
C全然当たらない

という場合ね。
この場合は「少ししか当たらなかった」場合よりさらに
夢判断師に対しては何も言わない人が殆どではないか、日本人の場合。
だからこの著者に対しては「当たらなかった」という感想は来ないわけです。

つまり著者に対しては「当たった」「少し違っていたが当たった」という
感想しか届かない。




さて、これは日本人としては稀なケースですが
D全然当たらなかったと正直に言う場合。

この場合も当然有るでしょうね。
ところがこの時に、自分に甘い判断師だった場合、そういう感想が来ることは少ないので
「中には変な客が居るものだ」とお客さんのせいにするかもしれませんね。
あくまでも「例外のケース」として処理をしてしまう。
そして忘れるw




夢判断師はそういう「例外」を忘れてしまうので
ってことは「常に自分の占いは当たる」わけですよ。



と、書きましたが全ての夢判断師がそうだということでは有りません。
この人の場合はそうだろうな、と私が勝手に推理しただけです。

人は固有の世界に住んでいるのだから、他人に影響を与えないかというと
そうではなく、影響を与えたり受けたりしていると思います。
ただ、自分の人生、自分の世界を他人に操作させてはいけないと思う。
誰かの考えを参考にするのは良いが、誰かの考えに操作されてはいけない。

それからこの著者の夢の解釈は当たらないかというと
私は「当たる」こともあるのだと思います。
実際に当たっているんだしw
ただこの著者が思うように「常に当たる」とは言えないのではないかと思うだけです。

人はそれぞれ違う世界に生きているのですが
ちゃんと会話も出来るし、影響を与え合うことも出来るのです。


この夢判断師について批判的な書き方に見えるかもしれないが
それはこれを読んだあなたがそのように解釈したからなんですよ。
私はこの著者の夢判断の腕は認めないがこの著者の人生に対する
思いっきり楽天的な点は多いに評価しますw
周囲の状況(具体的には客の本音)を理解せず
何でもかんでも「己に都合良く解釈」し、その結果「人生が楽しい」わけですからね。
(2ちゃんまとめサイトに登場する、自己中の姑のようですわw)
本人が幸せならそれで良いのではないかと、私はそのように解釈しているんです。

ただ、そのことと「ではその人と親しくなりたいか」ということとは別ものです。
私はこの夢判断師のような人とは関わりを持ちたく無い。
面倒だからw

どうか「そこ」(夢判断師の世界)で幸せに暮らしてくださいね、と思うだけです。

<エンパス>(2013年10月5日〜16日)


マサトさんがたまにヘミシンクで共同探索(探査?)をしますね。
その時に一緒に参加した人からエンパスを受けて仕事が捗ったみたいなことを
書いていました。
エンパス・・・共感能力のことですが、これはヘミシンクに限ったことでなく
普通の生活でも見受けられることです。



まずエンパスが得られないとどうなるのかという事例。

昔(20年ほど前)に政木さんという超能力を持ったお爺さんが書いた本を読みました。
苗字しか思い出せなくなっています。
今は故人ですが、その人は著作も多数あり、トンデモ界ではちょっと有名だったのですが
下の名前が分からないので検索できなくなってしまいました。
PANDORAからも数年前まではその人の遺徳を偲ぶサイトへ
リンクを貼っていたのですがHPを整理した際に削除しちゃったようです。
まあ、既に故人だし。

で、その人は凄い超能力者でして「何も無いところから物質を出現させる」こともあった。
それもその人が意図したのではなくて、勝手に出てくるというものでした。
いろんなことを知っていて性格もよく、会社の社長を引退していたので
金はあり、著作も売れて悠々自適の神様のような人でした。
講演会で喋ることもしていました。

が、或る日、或るところで講演をしたのですが、最初に政木氏が
トンデモなことを言ったら聴衆が一斉に
(そんなバカな!)という顔をしたそうです。
で、この凄い能力者の政木氏が、この聴衆の反応で一気に喋る気をなくした。




一見、老人の我侭とも見えますが(90%はそう見えるがw)
それだけでは無いですよね。
だって政木氏が語る内容の一つ一つに対して
その会場からその都度(そんなバカな)という念(力)が政木氏に来たら
やりづらくてしょうがない。
これは何もトンデモに限ったことでありませんが。

政木氏   「↑です」
聴衆ほぼ全員「↓↓↓↓↓↓↓↓・・・・」
政木氏   「↑です」
聴衆ほぼ全員「↓↓↓↓↓↓↓↓・・・・」
政木氏   「↑です」
聴衆ほぼ全員「↓↓↓↓↓↓↓↓・・・・」
政木氏   「↑です」
聴衆ほぼ全員「↓↓↓↓↓↓↓↓・・・・」

これではやりづらくて仕方ない。
そもそも今日の講演は政木氏から話しを聞こう、教わろうという
意識の者達が参加したのではないか。
それなのに多分ですが政木氏の著書を読んだことも無い人達
多分中年以上の人達が政木氏の言うことに対していちいち
「信じられない」
「そんなのウソだ」
「有り得ない」

という否定的な念を送っていたら非常にやりづらいわけです。



その聴衆達って人間としてどうよ?とも思うがそれよりも
これを「力」(パワー)として見てみると、
政木氏の↑を聴衆が集団で反対方向↓へ持って行こうとしている。
これではいくら政木氏の意志が強くても守護霊団が強力でも念の世界では
プラスマイナスゼロにするのがやっとではないか、と思います。
これも
「魂の戦」の一つですね。

本来は戦する場面では無いのですが結果的にそうなってしまった。
これでは政木氏はヘトヘトになるしちっとも面白く有りません。

政木氏は語りたいことの半分も語れなかっただろうし
たしか途中で語るのを止めてしまったような気がする。
この時のことが非常に残念且つ不満足だったのでしょう、著書に書いてました。



上の政木氏の講演の時の聴衆は多分
「何か分からないが面白い話しをする人が来るそうだ」くらいの感覚で集められた
トンデモの知識が無い普通の人達ですから著書すら読んでない。
政木氏の使命の一つに「普通の人にもトンデモ的な目(意識)を持ってもらう」
というのが有り、それでやってみたのだろうとは思いますが
いかんせん、「話にならない」のでした。




それから否定的な感情や先入観だけでなく
知識の乏しさもエンパスを得られない原因の一つになります。

講演の内容を理解するだけの知識と素養が無いと講師が言うことを理解できない。
まあ、上の政木氏の聴衆もトンデモ知識は殆ど無かったでしょうが
知識が無にしても「話を聞こう」「なにそれ面白い」という
心の態度が有れば良かったわけで。

聴衆の方に、講師が言うことを理解するだけの知識が有れば講師は話し易い。
たとえば高校生に語るのは簡単なんです。
相手は既に中学卒業程度の学力が(多かれ少なかれ)有るから。
でも小学生に語るのはとても難しい。
相手には殆ど知識がない上に思考力が無い。
(最低限の知識が無いから思考力が無い)
なので講師は聴衆のレベルが高ければ高いほど
話し易いのは誰が考えても分かることです。
(と、書いたが、上の文章を分かるには分かるだけの知識素養学力が必要です。
  中学出ていれば大丈夫です)



講師「ではこれから室町時代の武士の生活についてお話をします」
聴衆「先生、室町時代って何ですか?」
講師(そこからかよっ!)


これでは講師が語りたいことに行き着くまでに時間が終わる。


講演会は講師の力量もさることながら聴衆のレベルが重要です。
マサトさんがPANDORAのお話会で講師をすることを引き受けてくれたのは
最初に参加した今年の2月15日
(ロシアに隕石が落下した翌日)
お話会に参加している人達のレベルを見てその場で感心していたので
後日私から
「お話会で話しをしてもらえませんか」と頼んだ時に快諾してくれたのです。

何かをする時にはやりたい主体の人が一人で頑張っても何も出来ない。
周囲の人、状況など、総合的に「GO」サインが出ないと無理です。
だから一人よがりの人には出来ない。

まあ、それは置いといて。

マサトさんがPANDORAで語ってくれるのは
2月のお話会に参加した人達全員のお陰です。

私は皆さんの力(エネルギー、念など)をまとめているだけ。



結論。
マサトさんはPANDORAのお話会に参加する人を見て
これならエンパスが得られると感じた(判断した)ので講師を引き受けてくれた。

上の佐々木氏のようにエンパスが全然得られない中で
嫌になってしまう人もいる。

その反対にエンパスが得られれば「意」が「乗り」(イ・ノリ=祈り)
見えない世界からの情報が来易くなる。
(政木氏が話しをやめたのは上からの情報が来なくなるからだと思う。
  聴衆と対立していたのではそのことにエネルギーを使い果たす)




最期に先日マサトさんから来たメールを紹介します。
12日のお話会で語る内容を書いてくれたのですがそれに添えて言葉が有りました。


私のお話に価値があるとは思っていません〜。
会場のエンパスに価値を感じます。
これはPANDORAならではのものだと思います。

PANDORA=私
では無くPANDORAは熱心な閲覧者150名ほどで構成されていると思っているので
PANDORA=閲覧者
です。
私はまとめ役をしている管理人。