肩凝りを治してくれた夢



昔子育てで疲れ切っていた頃、肩凝りがヒドかった。
そんな時に見た夢。

大学にあるような階段教室にいた。
明るい場面。
私の後ろにいた見知らぬ男子学生(と言っても高校生くらいに見えた)が
私の肩を揉んでくれた。

それだけ。
ところがこの夢を見たら肩凝りが治っていたのだ。
後ろの高校生は何だったのだろう?

私の「背後霊」かな?
「守護霊」かな?
「ガーディアン・エンジェル」
「ハイアー・スピリット」
かな?w

とにかくそういう存在が夢に現れて肩凝りを治してくれたのだと思っている。
といってもそれは「自分自身」なんですけどね。
つまり自分の中の何かがそういう姿をとって現れたもの。
夢の世界に出て来る人は大抵が「自分」なのです。

なのでユング風に登場人物を細かく分類するのが好きな人がいるけど
それは細かくしたい(考えたい・分けたい)という思いが働いた結果だと
思っています。
どういうことかというと・・・
西洋文明は細分(分離)化の文化(男性的)で
東洋文明は統合(融合)化の文化(女性的)という違い。
(by カタカムナ)

例えば・・・
ユング風に細かく考えてもいくつかのパターン(10個くらい?)にしかなりません。
しかし登場人物をたった10種類に分類してしまうのは一見便利だけど
却って考えを狭めていて不自由だと私は思う。
「原型」は参考になるけどそれに囚われると不自由になる。
誰でも自分の中には「どーしょもない子供」や「妙に分別臭い大人」や
「希望に燃える少年」や「呆け始めた老人」を抱えている。
そのどれもが自分ですよね。

登場人物は全て自分である、ということなら全ては自分(一)だし
その全て(多)が自分の中の違う作用(要因)を現したモノである。
とすれば全ては違うのです。
分類ワケが要りません。

私は不自由が嫌いで「一即多、多即一 &  一即全、全即一」が好き。
これなら融通無碍に考えられます。
分類ワケが好きな人は好みのまま、すればいいと思います。
また「原型」だけで考えると前世関連や他人の思念の夢が解釈できない。
原型については私は参考にとどめています。